年が明け、1922年の滑り出しも順調だった。ところが、1月25日、思わぬ事件が持ち上がる。
1922/01/01 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 デッサウ
1922/01/03 R.シュトラウス/「炎の災い」+ドリーブ/「コッペリア」抜粋 デッサウ Günther Lesnig’s DATA
1922/01/06 コルンゴルト/「死の街」 デッサウ
1922/01/09 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲, R.シュトラウス/「イタリア」, シネガーリャ/ピエモンテ舞曲第1番 デッサウ・フリードリヒ劇場管弦楽団 ケーテン
1922/01/10 R.シュトラウス/「炎の災い」+コッペリア抜粋 デッサウ Günther Lesnig’s DATA
1922/01/18 R.シュトラウス/「炎の災い」+コッペリア抜粋 デッサウ Günther Lesnig’s DATA
1922/02/24 モーツァルト/「フィガロの結婚」 デッサウ
1922/01/25 フリードリヒ劇場は、キリー・ハーキング、劇場付の美容師エルンスト・キルカムのふたりの死亡者を出し、火災によって焼失する。デッサウでのオペラやシンフォニーコンサートの公演はすべてフリードリヒ劇場で行われていた。クナッパーツブッシュは、以後、チボリやクリスタルパラストに会場を移し、コンサートを続ける。そして、3月11日、ミュンヘンから呼び出しがかかる。
(René Trémine’s DATA)
その夜、クナッパーツブッシュはヨハン・シュトラウスの喜歌劇「こうもり」を上演する予定で、舞台で稽古をしていた役者が炎に気が付いた(奥波本)。奥波本の脚注によると、最初電気ショートが原因と発表されたが、すぐに暖房器具からの出火だと訂正された。火事はまたたくまに劇場を飲み込み、二人の死者を出した挙げく、「コンサートホールなどを一部を残し、ほとんどが灰燼に帰したのである」(奥波本)。そのため宮廷馬場を改築しての公演の再開がすぐに決定されたが、改築には1年間を要する。クナッパーツブッシュはチボリやクリスタルパラスト(水晶宮殿)でコンサートを行う。Trémine DATAでも、オペラの公演は見えない。
1922/03/04 チボリにおいて日本のためのコンサート[ただし、Trémineはこの記載にクエスチョンマークを付けている]
1922/03/10 ベートーヴェン/交響曲第3番, シューベルト/交響曲第9番「ザ・グレート」フリードリヒ劇場管弦楽団
1922/03/28 VI. シンフォニック・コンサート: シューベルト/交響曲第9番「ザ・グレート」, ベートーヴェン/交響曲第3番 (ニキシュ追悼コンサート) デッサウ・クリスタルパラスト
1922/04/13 VII. シンフォニック・コンサート: ブラームス/悲劇的序曲, ハイドンの主題による変奏曲, 交響曲第3番 デッサウ・クリスタルパラスト
1922/04/22 VIII. シンフォニック・コンサート: ハイドン/交響曲第92番,チェロ協奏曲第2番(Emanuel Feuermann), モーツァルト/交響曲第39番 デッサウ・クリスタルパラスト
(René Trémine’s DATA)
しかし、クナッパーツブッシュは劇場の再開まで待てなかった。ミュンヘン・バイエルン州立歌劇場(国立歌劇場)でブルーノ・ワルターが退任することが決まり、その後任にクナッパーツブッシュが指名されたからである。
デッサウでの時のような、公募制によるオーディションはなかった。公募制のオーディションこそなかったが、バイエルン州立歌劇から客演の打診は、有力な候補者として既に名前が挙がっており、オーディションを行うという意味があったのだろう。クナッパーツブッシュは、「ワーグナーの街ミュンヘンでワーグナーへの私の信仰告白を外に向かっても示せるなら、それは私にとってけっして無意味なことではありません」と意気込みを書いて返信した。クナッパーツブッシュのオーディションは5月2日から始まる。
まず、5月2日にバイエルン州立管弦楽団(州立歌劇場管弦楽団)とのアカデミーコンサート(オデオンザール)に客演し、ベートーヴェン交響曲第2番、ブラームス交響曲第3番を振り、聴衆や新聞の批評家に強い印象を残した。
「『聴衆をトリコにしやすい』とはいえない2作品である。クナッパーツブッシュは、その若さにもかかわらず、オーケストラをみごとに操れることを示した。オーケストラは、彼の簡素で、しかし表情豊かな指示に進んで従っていたし、聴衆もすぐに味方に引き入れられてしまった。歓呼の拍手喝采が惜しみなくつづいた」(奥波本、「ミュンヘン最新報」1922/5/3)
後にクナッパーツブッシュの強力な信奉者になるパウル・エーラースの記事が夕刊に載った。
「彼の音楽的な能力についての立ち入った評価は、もう少し聞くまで控えたいが、次のことは強調しておきたい。クナッパーツブッシュは、フォルティッシモ効果によって惑わすことをいさぎよしとせず、逆に弱音の箇所で格別なうまさをみせ、落ち着いた色調のなか、ひじょうに豊かでダイナミックな音階をオーケストラから引きだしていたということである」
この記事の前に、「残念ながら、ドイツでは優秀な歌劇場監督の血筋が絶えてしまったという伝説が広まっているが、クナッパーツブッシュのほかにも有能な指揮者がいることはまちがいない。しかし、いずれにせよ理事会は細心の注意を払って、あらゆる事情を吟味したうえで、歌劇場監督の地位をめぐる演奏会をまずクナッパーツブッシュに委ねるべきだと判断したのだから……理事会の処置が慣習どおりであるということはさておいても……我々がその点を非難することは許されない」とあり、クナッパーツブッシュの客演はすでに就任を前提としたオーディションであるということが公表されていた。記者達も聴衆もそのことを織り込んでのコンサートだった。指揮者、オーケストラ、聴衆すべてがオーディションという期待と緊張の中にいたことは想像できる。だがエーラースはまだクナッパーツブッシュのバイエルン州立歌劇音楽総監督就任には肯首していない。
「このコンサートの夕べは、美しく圧倒的な印象を与えたが、むろんそうだからといって、はなからワルターのふさわしい後継者と見なすわけにはいかない。最終的な判断には、オペラの試験を待たなければならない」
次いで5月4日、バイエルン州立歌劇の国民劇場(ナツィオナルテアター)において「ニュルンベルクのマイスタージンガー」でオペラデビュー。こちらも好評をもって迎えられた。
「幕が終わるごとに、とても激しい拍手が鳴り響いた。終幕後、演者たちは6度もカーテンコールを受けたが、聴衆は帰ろうとしなかった。ついにクナッパーツブッシュが一緒に登場したとき、嵐のような拍手喝采が巻き起こった……これまでミュンヘンでは無名だった彼が、聴衆を惹きつけトリコにできたしるしである」(奥波本、「ミュンヘン最新報」1922/5/5)
その5月5日の記事の中に、「はっきりと伝わっているところでは、ブルーノ・ワルター自身が、ミュンヘンのオペラの行く末を慮って、まずクナッパーツブッシュの名前をあげたそうである。音楽総監督が退任するにあたって、後継者についてそうした推薦をしてくれたことに、われわれは感謝しなければなるまい」という文章がある。ワルターはデッサウかいずれかの客演でクナッパーツブッシュのことを知り、自分の後継者としてクナッパーツブッシュを推薦していたのだろうか。ただ不思議なことに、ワルター、クナッパーツブッシュ両方の回想や残されている手紙の中で、お互いの名前が出てくることはない。
5月7日、バイエルン州立歌劇の国民劇場でモーツァルト「魔笛」を指揮するも、芳しい評価は得られなかった。「……しかし、《魔笛》はロココ・オペラではなく、歌唱劇(ジングシュピール)にして秘儀なのだから、一貫してもっと《騒々しいのではない》ふくよかな響きで演奏すべきではないかとの思いが捨てきれない。音を吸収する巨大な建物での上演だったのだから、なおさらである」(奥波本)
クナッパーツブッシュはかなり騒々しく「魔笛」を振ったようだ。「夏のモーツァルト・ワーグナー祭」で、モーツァルトのオペラによく使われていた宮廷劇場(レジデントテアター)ではなく、巨大な国民劇場での音響だったから、なおさらクナッパーツブッシュのモーツァルトは喧しく響いたのかも知れない。ワルターの簡素でふくよかなモーツァルトになれていた記者の印象とクナッパーツブッシュの「魔笛」はかけ離れていたのだろう。ただ、演奏自体も不安定な箇所があり、難なく切り抜けはしたものの、クナッパーツブッシュはこの日の演奏をよしとはしなかった。そのため、カーテンコールには姿を見せなかった。(奥波本、「ミュンヘン最新報」1922/5/8)
5月9日、バイエルン州立歌劇で「ワルキューレ」を指揮、再び大成功を収める。
「昨晩、《ワルキューレ》の最後の音が鳴りやんだとき、その上演ぶりに感激した観客は、演者たちに拍手を送った後も、デッサウからの客演指揮者ハンス・クナッパーツブッシュを呼び、その姿を目にしたがっていた」(奥波本、「ミュンヘン最新報」1922/5/10)
「ワルキューレ」の前日、劇場側とクナッパーツブッシュの契約が成立していた。クナッパーツブッシュは最後に暖かく向かえてくれたミュンヘンの聴衆と、総支配人ツァイスに謝辞の言葉を述べている。
モーツァルトでの評判は今ひとつだったが、ワーグナー都市を標榜するミュンヘンで、クナッパーツブッシュはワーグナーを成功させ、バイエルン州立歌劇音楽総監督の座を射止める。
1922/07/30,08/01,03 ワーグナー/「ジークフリート」 当時、ダンツィヒ自由都市に属していたポーランドのリゾート地、ソポト・フェスティバルでの公演だった。あと2回公演があり、そちらはハインツ・ヘスが指揮をした(The cast includes Melanie Kurt, Irene Eden, Margarete Arndt-Ober, Heinrich Knote, Werner Engel etc.)(Einhard Luther “Die Zoppoter Waldoper. Das Bayreuth des Nordens “とPreiser PR 89406のブックレットより)
(René Trémine’s DATA)
ワルターのバイエルン州立歌劇離任に関しては、さまざまな理由が上げられる。
ひとつの大きな理由は、ミュンヘンの政治的、経済的混乱である。バイエルン革命を二度に渡って経験したワルターは、その混乱振りに半ばミュンヘンに愛想を尽かせていた。ミュンヘンの街は暴力的な雰囲気が充満し始め、「私に対する反対の動きは、まだ仕事の上でこそ感じられなかったけれども、そのような事実があるということを知るのは、もちろん過度に緊張した私の力を疲弊させる原因になった」(「主題と変奏」)
さらに、ミュンヘンでのインフレは凄まじく、契約通りの俸給ではやりくりが難しくなっていた。
そんな折り、当時の大指揮者アルトゥール・ニキシュ(1855-1922)が亡くなった。ニキシュはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者で、ひじょうに大きな人気を博していた。フリッツ・ブッシュはニキシュの薫陶を受け、クナッパーツブッシュの憧れの指揮者もニキシュだった。
ワルターはニキシュの後を襲って、ベルリン・フィルの首席指揮者の後釜に座ろうと画策する。すでにベルリン・フィルでは「ブルーノ・ワルター・コンサート」を1919年から開始、人気を博していた。ワルターは、ベルリン・フィルの首席指揮者になれるという可能性を自身信じていたようだ。
1922年3月8日、ワルターは客演先のローマからガヴリロヴィチあてに手紙を出している。
「ニキシュの後任はまだ決まっていません。ぼくは4月3日にニキシュ演奏会を指揮するはず、そのときに決定されるかもしれない。まじめに考慮されるのは二人だけで、フルトヴェングラーとぼくです。フルトヴェングラーのほうは、ニキシュが死んでからベルリンに根を下ろし、天国に地獄あらゆる手段を総動員して、この地位を得ようと躍起になっていますが、その間に急いで指揮できたのは、喝采のみ呼び起こすものばかり。おそらく今ごろは、イゾルデが第二幕でトリスタンを待ち受けるときの緊張さながら、その気持ちは逆であるにせよ、ボクの演奏会の結果いかんと待ち受けているでしょう。自分にたいしてなんらかの関心をかきたてるために、ぼくのほうはまったくなにもしなかったし、主義としてもなにひとつしていません。ぼくの全生涯にわたり、ただ業績によってのみ道を切り開くことだけに限ってきました。実を言うと、今ミュンヘンを離れるにあたって(10月1日に去ります–ただし事柄はまだ秘密です)、ニキシュの後任となるのは、ぼくには決定的に重要なことでしょう。それが手に入りそうだと、ほとんどぼくも信ずるほどです–全オーケストラは一致してぼくに賛成の意見を表明したそうで、ぼくの知るところではルイーゼ・ヴォルフ(ベルリンの辣腕コンサートマネージャー・Syuzo註)も望んでいます。しかし–だめな場合は、それもよし。いまさらそんなことに驚くぼくではありません。–その地位が得られるならば、ぼくの意見では、3月と4月にぼくがアメリカにいる妨げにはなりえない。ベルリンの十回の演奏会だけが問題となるわけで、同じくニキシュも、いたるところ世界中をめぐったのに。そのためベルリンの演奏会をいちども欠かしたことはないのでした」(「ブルーノ・ワルターの手紙」)。
ワルターの希望は、ベルリン・フィルとのコンサートの合間に、アメリカで活動することにあった。アメリカで活動することに関しては、ワルターはボストンで活躍するムックの莫大な収入に憧れを抱いていたという事実がある。だいぶ以前の1916年9月30日のガブリロヴィッチへの手紙に、すでにムックがボストン交響楽団を離れるときに備え、ワルターが招聘されるように根回しをしてくれるよう頼んでいる。結局、その時夢に描いたアメリカ遠征は、第一次世界大戦のアメリカ参戦で果たせなかったが(中立を宣言していたアメリカは結局連合軍に参加、アメリカの対ドイツ宣戦布告は、1917年4月6日である。敵性国人であるドイツ人は収容所に入れられた。例外なく、ムックも収容された)。
ワルターは、ミュンヘンとの決別を決意する。
「責任ある地位での十年間近い仕事によって、私の力は使いつくされていた。かくも困難な芸術的状況のもとで、しかも増大する経済的危機と政治的不安が予想されるなかで、私は自分が『限界』に達したことをさとった。そればかりではなく、自分がミュンヘンに与えることのできるものはすでに与えてしまったこと、これ以上とどまっていても刷新や向上は期待できず、ただこれまでの仕事を継続しうるだけだということも、ますますはっきり解ってきた」(「主題と変奏」)。
さらにワルターは「主題と変奏」の中で、他にも離任を決意するまでにいたった理由を暗示している。
「ミュンヘンを去ろうとする決心に本質的な寄与を果たした或るきわめて個人的な動機も、せめてここで暗示ぐらいはしておこうと思う。私は当時、悲劇的な発展の要素をはらんだ情熱に巻き込まれて、危険な状態にあった。それで、ミュンヘンを去ろうという芸術的な考慮から生まれた考えは、同時に人間的な苦しみに満ちた状況からの脱出を、可能にするものであった」
ワルターは浮気をしていたのである。「個人的な動機」、「悲劇的な発展の要素をはらんだ情熱」、「人間的な苦しみ」という言葉がそれに当てはまる。ワルターの心は千々に乱れるほど混乱していたのだろう。ワルターは、政治的、経済的、そして個人的な苦しみを抱えたミュンヘンを何としても離れたかったのだと考えられる。
自分の辞任理由とナチとは関係がなかったことについても書いている。
「一般にひとびとは、私がナチに追いたてられてミュンヘンを去ったのだと思っていた。しかし繰り返して言うが、私はミュンヘンを辞任するまで、ほんとうに政治的な敵対行為に悩んだことはなかったのであって、離別の理由は、一部自分の任務は終わったという感情から、一部は個人的な体験の領域から生まれたものだったのである」
ナチはこの頃にはまだ、気にくわない演奏者のコンサートではあっても、演奏会場で騒いだり、臭気爆弾を破裂させるような妨害活動は行っていない。後にはそれらの妨害活動はナチのお家芸とも言えるようになるのだが。ましてや奥波氏も書いている通り、一部で言われているようなクナッパーツブッシュがワルター追い落としに一役買ったということもなかったのである。
しかし、結局ワルターはベルリン・フィルの首席指揮者の座をフルトヴェングラーに奪われている。4月1日のガブリロヴィッチへの手紙で、
「ぼくがミュンヘンを離れるのは決定的だと思う。ニキシュの後任も同じく決定的にフルトヴェングラーがせしめました。ぼくが『職のない指揮者』であることは、したがってなんら疑いなしです」
と、ベルリン・フィルの地位を得られなかったことをさばさばした様子で書いている。
ワルターとフルトヴェングラーは、比較的近い存在だった。
ワルターと親友の付き合いをしていたプフィッツナーは、1909年からシュトラスブルク市立歌劇場に音楽総監督として迎えられた。その時、フルトヴェングラーは第三指揮者に採用されている。ワルターはプフィッツナーをシュトラスブルクに訪ねた時、フルトヴェングラーを知った。以後、ワルターはフルトヴェングラーの才能を認め、さまざまな助言を行う。フルトヴェングラーをマイハイムの歌劇場音楽監督に推薦したのはワルターだった(クルト・リース著「フルトヴェングラー 音楽と政治」八木浩・芦津丈夫訳 みすず書房)。
3月8日には、ワルター離任の決心はまだ「秘密」だという手紙の文面があり、クナッパーツブッシュへのミュンヘン客演の打診は3月29日なので、ワルターが総支配人ツァイスに辞任を申し出た、あるいはバイエルン州立歌劇の事務室が具体的に「ワルター後」を睨んで動き出したのはその間のことだろうと思われる。ワルターの離任が正式に発表されると、トーマス・マン、ハンス・プフィッツナー、パウル・ニコラウス・コスマンなどのミュンヘンの文化人から、ワルター留任の請願書が出されたが、ワルターの決意は翻らなかった。
クナッパーツブッシュの選出に関し、公募制オーディションや複数の候補者によるオーディションが行われなかったのは不自然だという見方もあるが、指名をして次期音楽総監督を決めるのはバイエルン州立歌劇の伝統である。ワルターもオーディションを受けず、「指名」という形でバイエルン州立歌劇(ワルター就任時は宮廷歌劇)音楽総監督に就任した。
バイエルン州立歌劇場離任後、1923年8月8日のワルターのガヴリロヴィチへの手紙には、さまざまな国からの招聘があり、それに応ずるつもりだと書き、ドイツの歌劇場への就任とアメリカでの活動の場の確保を天秤にかけている。
「もちろん、ドイツの歌劇場はぼくに腕を差し伸べている。まずライプツィヒで、それからフランクフルト、今はベルリンだ—後者ははなはだ熱心である。どんな犠牲をも覚悟して、是が非でもぼくを得ようとしている。無造作に断りはしなかったが、1924年4月まで決定を保留しておいた。つまり、アメリカからぼくの帰国後までということになる。というのも、アメリカでなにか決定的なものが見つかるか否か、そのときまでには分かるにちがいないからだ。それできみに正直に言っておく。すっかりアメリカに行ってしまうのが、やはりただ一つの可能なことではなかろうか。ドイツは非常に恐ろしい状態になりはてたし、それにドイツのために働くことも、これはぼくの生涯にわたる念願なのだが、本国内より他の国でいっそう良くできるのである。だからお願いだ、どこかで勤め口が見つかりはしないか、よく見張っておいてくれたまえ」(「ブルーノ・ワルターの手紙」)。
ベルリン・フィルでの地位は逃したが、ワルターは辞任する前に、アメリカのダムロッシュ歌劇団を組織するワルター・ダムロッシュと個人的な知己を得ている。「主題と変奏」によると、意気投合したふたりは1923年初頭にニューヨークで指揮をすることを決め、ガブリロヴィチからもデトロイトへの招待、ボストン、ミネアポリスからも招待を受け、ワルターの当初の希望は、半分だけ実現することになった。
ナチの実権を握った後も、ヒトラーの生活は質素だった。相変わらず狭いアパート(トーランド本によると8フィート×15フィート)に住んでいた。トーランドは続けて「ウィーンの独身男子寮と大差なかった。そこはその建物の中で一番寒い部屋で、家主のエルランガー氏によれば、『その部屋を借りた下宿人の何人かは病気になりました。いまは物置がわりに使っています。もう借り手は一人もつかないでしょう』」と書いている。さらにトーランドはエルランガーについて、「ヒトラーが当時住んでいた下宿の主人エルランガーがユダヤ人で、しかも(ヒトラーに対して)快い想い出しか持っていなかったというのは皮肉である。『わたしはしばしば階段や入り口で彼と顔を合わせました……彼はたいていノ-トに何か書いていました……かれがわたしをほかの人間とはちがう目で見ている、と感じさせられたことは一度もありません』」と別のページの脚注につけ加えている。ところが、演説ではヒトラーはユダヤ人を攻撃した。第一次世界大戦の敗北、その後の革命騒ぎ、そのような状況下でも儲ける金融資本家を批判して、4月12日の演説で以下のように語っている。
「我々は、すでに外国の植民地なのである。しかも、我々は能う限り卑屈な態度をとり、我々自身の名誉を毀損してまで、これを助成した……共同体を形成するというがごとき概念がユダヤ人にはまったく欠けているため、彼[ユダヤ人]は破壊し、また破壊せねばならないということである。この場合、個々のユダヤ人が『正しい』か否かは、もとより問題とはならない。彼[ユダヤ人]は自然が彼に付与した特質をあくまで有しているのであって、永久にこれから脱れることはできないのである」(「我が新秩序」、阿部良男著「ヒトラー全記録」よりまた引き)。
6月24日、ベルリンでは外国の信頼の厚かったワルター・ラーテナウ外相が、右翼グループに暗殺される事件が起こる。ラーテナウはユダヤ人で企業家であり、大富豪だった。外相就任後、アメリカへのドイツの苦境の理解の浸透、賠償を請求する連合国諸国にはヴェルサイユ条約を履行する積極的な態度を示しながら、いかにその賠償を支払うことが不可能に近いかを理解させることに力を尽くした。東方に向かっては、ラーテナウはソヴィエトと条約を結び、相互賠償の破棄、通商関係の再開、ソヴィエト近代化への助成、軍の相互協力がその中に盛り込まれた。国粋主義者はそれに反発した。
ラーテナウ暗殺は外国を刺激し、ベルリン、ハンブルクの取引市場は大混乱に陥り、マルクは大暴落した。「当日1ドル350マルク、7月末670マルク、8月中2000マルク、10月末4500マルク(「全記録」「ワイマール共和国史」には「7月にはいるとドル相場は5000マルク以上に達した」と書かれていることも紹介されている。ドイツ政府は緊急通貨政策を実施、地方自治体、鉄道、大手醸造所などは独自通貨を発行してそれをしのごうとしたが、インフレは収まる気配がなかった。
ラーテナウが暗殺された6月24日、ヒトラーはバイエルン分離主義者の集会を妨害した罪で収監される。ヒトラーの入獄は約1ヶ月間続いた。ヒトラーは監獄でますますユダヤ人攻撃の思索を重ねた。7月27日に釈放され、その翌日にはラーテナウ暗殺をきっかけに生まれた「ドイツ共和国擁護法」(右翼、左翼を取り締まる法律)を批判、その中でより激しくユダヤ人を攻撃した。「ユダヤ人はけっして紳士民族ではない。彼らは搾取者であり、強盗民族なのだ。彼らの破壊した文化は幾百に上がろうが、彼らは未だかつて文化を建設したことはない。彼らの有するものは、自ら創造したものではない」(「全記録」)
この年の秋、第一次世界大戦の空の英雄ヘルマン・ゲーリングがナチに入党した。
第一次世界大戦終盤から1923年頃まで、日本は大正期で、第一次世界大戦での山東省からドイツの駆逐、ロシア革命を牽制するための欧米列強に倣ったシベリア出兵などはあったが、概ね大きな波は起こっていない。1918年、米の価格が暴騰したため富山を発端とする全国規模に膨れあがった大正米騒動が起こったり、1920年3月株価が大暴落、戦後恐慌など不安定な出来事もあったが、「大正デモクラシー」の時代であり、後年から俯瞰すると昭和への前奏曲という感が強いことは否めない。
政治的には1921年(大正11年)11月4日、原敬首相暗殺事件、市民生活・自然災害としては1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の発生が昭和への不気味な胎動を思わせる。
軍備は増強され、大艦巨砲主義による巨大戦艦や空母の建造、また無政府主義者や共産主義者の弾圧・暗殺も行われた。憲兵大尉甘粕正彦による大杉栄、伊藤野枝を殺害した事件は関東大震災の直後、1923年9月16日だった。
また、袁世凱の死後(1916年)、軍閥が割拠しはじめた中国で、日本は中国東北部(満州)での足がかりを確固としたものにしようとしている。租借地であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が1919年(大正8年)に関東軍として独立した。