1923年 ミュンヘン時代2 ミュンヘン一揆

 1923/1/6 公現の日(公顕の日)、クナッパーツブッシュは摂政劇場(プリンツレゲントテアター)で、「パルジファル」を指揮する。公現の日とは、イエス・キリストが洗礼を受けた日、あるいは東方からの三賢人がキリストにプレゼントを贈った日とされる。キリスト教徒にとっては、重要な祭日のひとつだそうである。バイエルン州立歌劇で、クナッパーツブッシュはこの公現の日をひじょうに大切に扱った。
 12日にもクナッパーツブッシュは同じ摂政劇場で「パルジファル」を取りあげた(ただし、Trémine’s DATAには記載がない。1月6日と12日のデータは”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)による)。
前日の11日、敗戦国ドイツを揺り動かすほどの事件が起こる。賠償金の支払いの遅延を理由にした、フランス・ベルギーによるルール地方の占領である(エッセン、ドルトムント、マンハイム、カールスルーエ、ダルムシュタットなどに、約6万人の軍隊が進駐した-全記録)。
 この占領は、ドイツの左右陣営を大きく揺さぶった。その時の首相はウィルヘルム・クーノで「実務内閣」と呼ばれたが、国民に「消極的抵抗」の要請を行う。消極的抵抗とは、サボタージュやストライキでフランス・ベルギーに抵抗せよ、という意味である。ドイツ共産党を含む挙国一致でこの占領に憤怒した。国防軍最高司令官ゼークトは「ドイツは再軍備して、フランスに対抗すべきである」と主張している。
 そして、マルクはルール地方占領をきっかけに、ますます底なし状態で暴落してゆく。
「1923年のルール進駐ののちは、ちょっとした家庭用品を買うのに十億マルクという数字が書かれていた」(ワルター「主題と変奏」)

1923/01/04 コルンゴルト/「死の街」ミュンヘン
1923/01/06 ワーグナー/「パルジファル」ミュンヘン
1923/01/07 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1923/01/09 J.シュトラウス II/「こうもり」 ミュンヘン
1923/01/12 ワーグナー/「パルジファル」ミュンヘン
1923/01/21 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1923/01/22(15?) オデオンザールでアカデミーコンサート。モーツァルト/交響曲第41番「ジュピター」,バスーン協奏曲 KV 191, ブラームス/交響曲第4番[15日のデータはAbonnementkonzerte von 1922 bis 1932 による=Syuzo]
1923/01/25 フンパーディンク/「王様の子供たち」 ミュンヘン
1923/01/29 オデオンザールでアカデミーコンサート。ベートーヴェン/交響曲第9番 MAM
1923/02/04 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1923/02/08 コルンゴルト/「死の街」ミュンヘン
1923/02/14 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1923/02/19 オデオンザールでアカデミーコンサート。ブラームス/交響曲第3番, ベートーヴェン/交響曲第7番 MAM
1923/02/23 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1923/02/27 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1923/03/04 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1923/03/05 オデオンザールでアカデミーコンサート。マックス・レーガー記念祭。レーガー/モーツァルトの主題による変奏曲, ヴァイオリン協奏曲, 詩編第100番 MAM
1923/03/10 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1923/03/11 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1923/03/14,15 ウィーン演奏協会 ブラームス/交響曲第3番, ベートーヴェン/交響曲第3番[当時、ウィーン交響楽団とウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団は財政難のため合併、ウィーン演奏協会(Wiener Konzertverein)として演奏していた。オーケストラの名称はウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団とされていた可能性が高い=Syuzo] Wiener Symphoniker Archives
(René Trémine’s DATA)

 【ウィーン演奏協会のオーケストラとのコンサートの批評】
ユーリウス・コルンゴルト(作曲家エーリヒ・ウォルフガング・コルンゴルトの父)の「新自由新聞」の演奏評がガブリエレ・E・マイヤー「ハンス・クナッパーツブッシュ 生誕百年に寄せて」で紹介されている。
「…大きな身振りはない、指揮棒を不安定に大きく振り回すこともない…手と指と頭の小さな動き…クナッパーツブッシュ、ウィーンでこの名は明記されねばならぬ」(「ハンス・クナッパーツブッシュ 生誕百年に寄せて」)。
 ユーリウス・コルンゴルトは、息子の「死の街」をデッサウとミュンヘンで初演してくれたクナッパーツブッシュへのお礼もあったのだろうか。
 この年、10月にもクナッパーツブッシュはウィーン演奏協会のオーケストラを指揮、ベートーヴェン交響曲第9番を指揮した。

【ウィーン交響楽団とウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団】
 1919年、第一次世界大戦の敗北とラジオの普及で財政難となり、ウィーン交響楽団はウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団と合併し、ウィーン演奏協会(Wiener Konzertverein)として活動していた。現在は再びウィーン交響楽団、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団ふたつのオーケストラがある。
 ただし、当時のウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団と現在のウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団は別団体のはずだが、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団の名称の歴史は複雑で一度には理解できない。
 その複雑さに拍車をかけるのが、ウィーンで組織されたナチ管弦楽団である。1933年にオーストリア・ナチ党ウィーン・ドイツ文化闘争同盟のレオポルト・ライヒヴァインによって作られたオーケストラが「文化闘争同盟オーケストラ」として1回だけコンサートを行うが、そのオーケストラは、オーストリアのナチ禁止令でリヒャルト・ワーグナー管弦楽団と名前を変え、次にウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団と名前を変えた。1938年のドイツ=オーストリア併合で、ナチ・トーンキュンストラー管弦楽団を名乗るようになった(明石政紀著「第三帝国の音楽」より)。
 流れの異なる同じ名前のオーケストラがあったことになる。元は音楽家管弦楽団協会のオーケストラである。

1923/03/21 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1923/03/23 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1923/03/26 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1923/03/29,31 ワーグナー/「パルジファル」 プリンツレゲント劇場(PRT)(29日のデータは”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)による=Syuzo) [この年の復活祭は1923/04/01だった]
1923/04/04,06,08,10 ワーグナー/「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
1923/04/05 ブラームス/二重協奏曲 (Adolf Busch, Paul Grummer), 交響曲第3番, ヴァイオリン協奏曲 (Adolf Busch) カイム管弦楽団(Konzertvereins-Orchester)[1928年よりミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団]
1923/04/15 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1923/04/19 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1923/04/26 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1923/04/29 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1923/05/04 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1923/05/05 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1923/05/10 ウィーン演奏協会 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲, ブラームス/ハイドンの主題による変奏曲, チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」(see Neue Freie Presse (NFP) dated 1923/05/22, page 1)Wiener Symphoniker Archives
1923/05/13 J.シュトラウス II/「こうもり」 ミュンヘン
[15/05/23 not mentioned by Trémine]
1923/05/21 モーツァルト/「魔笛 ミュンヘン [Trémine doesn’t mention a performance of this or any other work on 20/05/23]
1923/05/22 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1923/05/27 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1923/06/04 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1923/06/13 ワーグナー/「ジークフリート」 ミュンヘン
1923/06/15 ワーグナー/「神々の黄昏」 ミュンヘン
1923/06/17 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1923/06/19 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1923/06/20 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1923/06/23 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1923/06/24 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1923/06/26 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン

[ミュンヘン夏のモーツァルト・ワーグナー祭]
(プリンツレゲント劇場、モーツァルトはレジデンツ劇場)
1923/08/01 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1923/08/04 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1923/08/11 ワーグナー/「パルジファル」 ミュンヘン
1923/08/13 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1923/08/15 ワーグナー/「パルジファル」 ミュンヘン
1923/08/17 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1923/08/23 モーツァルト/「魔笛」 ミュンヘン
1923/08/25 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1923/08/26 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1923/08/27 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1923/08/28 ワーグナー/「ラインの黄金」 ミュンヘン
1923/08/30 ワーグナー/「ワルキューレ」 ミュンヘン
1923/09/01 ワーグナー/「ジークフリート」 ミュンヘン
1923/09/03 ワーグナー/「神々の黄昏」 ミュンヘン
1923/09/10 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1923/09/23 ワーグナー/「パルジファル」 ミュンヘン
1923/09/25 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1923/09/27 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)
(ただし、ミュンヘン夏のモーツァルト・ワーグナー祭のワーグナーの記録は、”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)による)

 この年から、クナッパーツブッシュはワルターの作った伝統に即して(「主題と変奏」による)、ミュンヘン教員協会合唱団でのバッハ「マタイ受難曲」の演奏を踏襲する。「クナッパーツブッシュ生誕100年」を記念してドイツで発行された写真集の付録に、ミュンヘン州立歌劇場音楽総監督時代に「マタイ受難曲」を12回振ったという記録があったのだが、オデオン・ザールの記録と付き合わせると数が合わない。ガブリエレ・E・マイヤーの「生誕100年に寄せて」でクナッパーツブッシュは「復活祭の日」に「マタイ受難曲」を指揮したというということを書いてあるが、必ずしもクナッパーツブッシュだけが指揮をしたのではないようだ。
 記録ではこの年の3月25日にオデオン・ザールで「マタイ受難曲」は演奏されたが、指揮はフーゴー・レールだった。この最初の年、復活祭での「パルジファル」は3月29日だった。
 4月5日、ミュンヘンにあるもうひとつの有力なオーケストラ、カイム管弦楽団(1928年からミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団)を指揮する。オール・ブラームス・プログラムで、ヴァイオリンとチェロのための協奏曲、交響曲第3番、ヴァイオリン協奏曲だった。ソロ・ヴァイオリンをケルン音楽院時代の同窓生フリッツ・ブッシュの弟、アドルフ・ブッシュが担当した。アドルフ・ブッシュとはこの年の5月15日オデオン・ザールでバイエルン州立管弦楽団とのオール・モーツァルト・プログラム・コンサートでもヴァイオリン協奏曲第5番で協演している。
 なお、ミュンヘンには現在もうひとつ有力なオーケストラとして、バイエルン放送交響楽団があるが、このオーケストラは第二次世界大戦後の設立である。クナッパーツブッシュのこの当時にはまだなかった。
 5月20日には、オーディションで不出来だったモーツァルト「魔笛」を、再び国民劇場で指揮している。
 そしていよいよ7月から8月にかけては、ミュンヘンの一大イベント「夏のモーツァルト・ワーグナー祭」である。クナッパーツブッシュは摂政劇場における「ニーベルングの指環」チクルスを中心に、ワーグナーを11回指揮した。初日と最終日は慣例に従って「ニュルンベルクのマイスタージンガー」だった。

1923/10/04,05 ウィーン演奏協会 ベートーヴェン/交響曲第9番 (Klara Musil, Emilie Rutschka, Georg Maikl, Richard Mayr) Wiener Symphoniker Archives
1923/10/07 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1923/10/08 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1923/10/17 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1923/10/22 オデオンザールでアカデミーコンサート。ハイドン/交響曲第94番, モーツァルト/アイネ・クライネ・ナハトムジーク, ベートーヴェン/交響曲第2番 MAM
1923/10/23 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1923/10/27 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1923/11/01 オデオンザールでアカデミーコンサート。ベートーヴェン/ミサ・ソレムニス」 MAM
1923/11/08 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)

 忙しくバイエルン州立歌劇音楽総監督とミュンヘン音楽アカデミー教授の仕事をこなすクナッパーツブッシュだったが、ミュンヘンの政治情勢はにわかに騒がしくなり、11月9日、ヒトラー率いるナチはバイエルン反動政府に対し、イタリアのムッソリーニを真似てベルリン進軍を強要するが受け入れられず、ミュンヘン一揆(後述)を引き起こす。
 その日、クナッパーツブッシュには記録がなく、何をやっていたのかは不明だ。歌劇場ではベームがオーケストラと練習していた。
「ちょうどわたしは、後に文化的ボルシェヴィズムだという理由でナチの禁制リストにのせられたストラヴィンスキーの『鶯』をまたロビーで練習していた。とつぜん、数発の銃声が聞こえたが、まもなく負傷者や死者がマックス・ヨーゼフ広場に運ばれて来た。政府は歩哨線を張りめぐらし、公共の建物を保護するために封鎖していた。わたしたちはひどく昂奮していたが、それは外で起こっている事態がまったく分からないせいだった」(「回想のロンド」)
 当時、オーケストラの練習は国民劇場のロビーで行われていたらしい。
 また、バイロイト祝祭歌劇場のジークフリート・ワーグナーとその妻ヴィニフレートは、たまたまジークフリートがコンサートで指揮をするため、ミュンヘンに来ていた。ホテルで足止めされ、ホテルの窓からデモ行進の先頭を歩く右翼の大立者ルーデンドルフとヒトラーの姿を見ている。ヴィニフレートはヒトラーの熱烈な支持者だった。
 ミュンヘン一揆の直後、クナッパーツブッシュは音楽アカデミーの学生たちに向かって、「諸君の中には、あの馬鹿騒ぎに加わった不作法者はいないだろうな?そんな奴はつまみだすぞ!」と言ったという(奥波本)。
 クナッパーツブッシュにとって、共産主義者もナチもそれほどたいした変わりはなく、「騒々しい粗野な労働者の団体」くらいにしか映っていなかったようだ。クナッパーツブッシュは政治的には王党派だったが、それほど熱心な王党派とはいえず、ウィルヘルム一世とビスマルクの時代を懐かしむという程度であったのかも知れない。いわゆる単なる支持者である。もっとも、ウィルヘルム一世は、クナッパーツブッシュの生まれる3日前に没しているが。

1923/11/18 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1923/11/19(12) オデオン・ザールでアカデミーコンサート。ブラームス/交響曲第2番, ブルックナー/交響曲第4番[12日のデータはAbonnementkonzerte von 1922 bis 1932 による=Syuzo]
1923/11/25 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1923/11/30(28) ヘンデル/「ユリウス・シーザー」 ミュンヘン[“Hans Knappertsbusch – Zum 100. Geburtstag des Dirigenten” by Gabriele E. Meyer,”Hans Knappertsbusch zur Erinnerung” by Franz Braun, Japanese Edition (translated by Takeo Noguchi), “Knappertsbusch” by Rudolf Betz / Walter Panofskyなどでは11月28日となっている。可能性としては、28日と30日に「ユリウス・シーザー」の公演があったのかもしれない=Syuzo]
1923/12/10 オデオンザールでアカデミーコンサート。ハース/「昼と夜」, エミール・シェニッヒ/「ファンタジア・エクスタティカ」 – シューベルト/交響曲第8番「未完成」 MAM
1923/12/16 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1923/12/18 ヘンデル/「ユリウス・シーザー」 ミュンヘン
1923/12/19 マスカーニ/「道化師」, レオンカヴァレッロ/「カヴァレリア・ルスティカーナ ミュンヘン
1923/12/25,26,28,30 ワーグナー/「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
1923//12/27 プッチーニ/「トスカ」ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)

 フランス・ベルギーによるルール地方占領はかなり横暴だったようだ。ドイツ人への暴行、逮捕処刑も頻繁に起こったが、3月31日にフランス軍は「エッセンのクルップ工場に自動車没収のために来襲し、ドイツ人労働者に機関銃を発射。ドイツ人労働者死傷約40名」、という事件も起こっている(全記録)。
 ゼークトは対フランス戦に関してライヒスヴェーアだけではなく、民間軍事組織にも期待をかけ、ヒトラーとも協議している(3/11)。ヒトラーとナチは、警察の禁止令が出る中、1月27日から29日にかけてミュンヘンにおいて「ナチ党創設第1回全国党大会」を開催、エップ将軍に代わってバイエルン駐在軍(第7師団)司令官になっていたロッソウ将軍の「バイエルン防衛の見地から国民社会主義団体の弾圧は好ましくない」という主張を得て禁止令を撤回させている。これにより、ナチはひとつの勢力として認められた形となった。ただ、ロッソウも警察もこの時点ではナチが「危険な団体」であることを承知していた。暴発されては困るのだ。
 ヒトラーはフランス・ベルギーのルール地方占領に対して、工業地帯ルール地方の占領はドイツの国力を著しく殺ぐと演説した。また、対フランス戦に備えて、レームから多くの軍事物資や武器がナチ突撃隊に流れていたが、ヒトラーの関心はむしろバイエルンの対共産主義者、ユダヤ人に向けられたものだった。
 バイエルン州政府に向けても、ヒトラーはレームとともに、ロッソウ将軍に「共産革命切迫、武器貸与を!」と要請したが、ロッソウは左翼への攻撃やユダヤ人殺戮で流血騒ぎの混乱が起こることを怖れ、これを拒否している。
 ヒトラーの演説はますます先鋭化し、対共産主義、対ユダヤ人への攻撃を激化させた。ナチ突撃隊はことある毎に示威行進を行ったり街頭で暴力事件を引き起こし、たびたびミュンヘン警察と衝突していた。暴力による示威活動が民衆の人気を集めると考えていたようである。
 ただ、ヒトラーは5月1日のメーデーで失敗を犯す。共和国擁護法をバイエルンでは破棄するようヒトラーはバイエルン政府に要求したが拒否され、その報復として左翼労働者の祭典と同じ日に、ヒトラーはナチの大衆集会を計画した。左翼の襲撃を待ち、逆に攻撃するつもりだったが、現れたのは軍の制服を着た警察だった。レームは上官に命令され、ナチ鎮圧部隊に加わっていた。
 この集会の失敗により、ヒトラーは信頼を失い、支持者は少なからず離れていった。義勇軍の指揮官も「ヒトラーをもう信用しない」と言った。ヒトラーはその過激で攻撃的な演説のため、人気を集めていたが、少し飽きられていたと言うこともあるようである。「これでナチは衰退に向かう」と見る海外の報道関係者もいた。
 レームはこの後、5月3日に参謀本部を首になり、中隊長として左遷されてしまった。レームは9月26日に軍籍を離れ、ヒトラーと合流する。
 8月に入り、マルクはますます下落、1ドル500万マルクにまで落ち込んだ。8月11日、ベルリンでは共産党によるクーノ政権打倒のゼネストが発生、12日、クーノ政権は倒れてしまう。13日にはドイツ人民党のグスタフ・シュトレーゼマンが首相となり、マルク防衛とルール地方占領に対して、より具体的な解決法を探ろうとしている。
 このような国家的危機は、人気を失いつつあるヒトラーにとって追い風のように思えたのかも知れない。9月2日、ニュルンベルクで開催された極右団体が集結した「ドイツ記念日」で25000人の集会者を前に、ヒトラーは「我々は新しい独裁者を持つべきであり、現在のような議会や政府は必要がない」と、イタリアのムッソリーニのような独裁者の必要性を演説した。さらに、「突撃隊」、ナチ以外の「国旗団」、「オーバーラント同盟」とともに「ドイツ闘争同盟」を新結成、対共産主義者、対ユダヤ人を攻撃すべしと声明を出す。名誉総裁に右翼の大立者で元参謀総長エーリヒ・フリートリヒ・ヴィルヘルム・ルーデンドルフが就任した。バイエルン政府は、ますます増大するヒトラーの政治力に危惧している。
 9月26日、シュトレーゼマンはフランス軍への「消極的抵抗」中止を指示、賠償金支払いの再開を決定する。このことは国民感情と真っ向から衝突することになった。各地方で国防軍や右翼の反乱や一揆が続発し、ナチやその他の極右団体を抱えるバイエルンはひじょうに危険な状態に立ち至った。
 そのための処置として、9月26日、時のバイエルン首相オイゲン・クリニングは、右翼と繋がりの深い元バイエルン首相カールを「バイエルン邦総監」という執行権のある地位に就け、事態が急激に変化することを防ごうとした。
 ところがベルリンの中央政府は、カールの「バイエルン邦総監」就任を右翼クーデターと捉えた。カールを首謀者にムッソリーニを真似た「ベルリン進軍」があると考え、ドイツ全土に戒厳令を布いた。
 このような危機的な状況においても、ベルリンでは相変わらず政争が行われていた。労働者の労働時間を巡って社会民主党とドイツ人民党が対立、シュトレーゼマン内閣は総辞職、10月6日、エーベルト大統領によって再組閣を命じられている。
 この頃から、ザクセンでは共産党員が州政府の内閣に入閣したり、バイエルンではよりベルリン政府からの分離独立運動が促進されたりと、ドイツ国内の政治情勢は大きな混乱期にさしかかっていた。バイエルンでは、バイエルン邦総監カール、ベルリン中央政府から罷免されかかったところをカールからバイエルン国防軍最高司令官に任命された元バイエルン駐在軍司令官ロッソウ、警察長官ザイサーによる三頭政治が行われるようになった。右翼の期待は、右傾化したバイエルン政府によるベルリン進軍だったが、ルーデンドルフとヒトラーは排除された。バイエルン独裁を目論むカールにとって、ヒトラーは邪魔者だった。
11月7日、ヒトラーは独自に武力蜂起を決意し、ナチ党員に動員を司令する。この頃には、ナチ党員は55000人に膨れあがっていた。
11月8日、カール、ロッソウ、ザイサーが揃い、ビュルガーブロイ・ケラーで集会を開いているところに、突撃隊を率いたヒトラーが押し入り、国民革命を宣言して、3人にベルリン進軍を強要する。右翼の大立者ルーデンドルフも会場に現れ、3人を説得、一時は革命とベルリン進軍を約束させる。この時のビールの値段は、増大するインフレのため、1杯1億マルクだった。
 ところが、ヒトラーが外へ出た隙に(ヒトラーの反乱軍と工兵隊でいざこざがあり、ヒトラーはルーデンドルフに後を託し、調停に向かった)、ルーデンドルフは3人を解放してしまう。ルーデンドルフはお人好しにも3人を信じていた。
 カール、ロッソウ、ザイサーはヒトラーに協力する気はなく、11月9日未明、ラジオでヒトラーの一揆への反対と鎮圧を宣言する。それを知ったヒトラーとルーデンドルフは一揆の失敗を知り、もてあました力で独力デモ行進を計画、午前11時半、ルーデンドルフとヒトラーを先頭に、デモ行進がおこなれた。途中、ヒトラーとは別働隊で動き、第7師団司令部で動きが取れなくなっていたレームを救出しようと考えたルーデンドルフは、いきなりデモのコースを変える。ルーデンドルフは、よもや警察や国防軍が自分に銃を向けることはあるまいと考えていたが、コースを変えたデモ隊に向けて警察は一斉に発砲、ナチの中から銃撃による即死者13名を出し(負傷して後に死亡した者を入れると16名、警官隊3名が死亡した-村瀬本)、ヒトラーは撃たれて崩れ落ちるボディガードにつかまれて肩を脱臼、ゲーリングも撃たれて負傷した。
 ヒトラーはその場を離脱することができ、ヒトラーと友人付き合いをするようになっていたエルンスト・ハンフシュティングルの別荘に逃げる。ゲーリングは逃げ込んだユダヤ人の家に匿われ、後にオーストリアに脱出した。
 世に言う「ミュンヘン一揆」、「ビアホール・プッチ」である。
 ヒトラーは潜伏先のハンフシュティングルの別荘で11月11日に逮捕され、ミュンヘン郊外にあるランツベルク刑務所に送られた。11月23日、全ドイツで共産党とナチに解散命令が出され、ナチは禁止される。以後、別の名前でナチは活動せざるをえなくなる。
「フェルキッシャー・ベオハバター」はこの年の2月8日に週2回の発行から日刊紙に代わり、引き続きエッカートが編集主幹を務めていたが、過労で倒れ、ローゼンベルクが編集主幹を引き継いでいた。そのヒトラーの師とも言えるエッカートは、ヒトラーがランツベルク刑務所に収監されている間、過労と過度の飲酒が仇となり12月26日に死亡した。フェルキッシャー・ベオバハターはミュンヘン一揆のため、発行禁止処分を食らった。

 この年の9月1日、日本では相模湾沖を震源とした関東大震災が起こる。マグニチュード7.9と推定され、関東一円に被害が広がった。死者・行方不明者は14万2800人を数え、190万人が被災した。まだ耐震などという考えのなかった日本では、多くの家屋が倒壊・半壊し、火事の被害も広がった。
 さらに悲劇であったのは、被害を現実以上に拡大して伝えたり、「朝鮮人が井戸に毒を入れて回っている」というデマで、そのため暴動が頻発したことだ。新聞はそのような未確認の情報を流し、軍や警察もそのために治安を守るという名目で戒厳令が布かれた。

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