1925/01/01 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、もしくは「愛の園のばら」 ミュンヘン(おそらく「ニュルンベルクのマイスタージンガー」だったのではないかと思われる=Syuzo)
1925/01,4,6,8 ワーグナー/「パルジファル」(”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)”による)
1925/01/18 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1925/01/23 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1925/01/26 アカデミー・コンサート レーガー/セレナード op.95 ,ブラームス/交響曲第1番 [should be MAM]
1925/02/09 アカデミー・コンサート ベートーヴェン/交響曲第9番 ミュンヘン [should be MAM]
1925/02/18 ブラウンフェルス/「緑ズボンのドン・ギル」 ミュンヘン
1925/02/20 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン
1925/02/21 ワーグナー/「ローエングリン」 ミュンヘン
1925/02/25 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン
1925/02/28 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1925/03/06 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1925/03/07 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1925/03/09 アカデミー・コンサート ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」, ブラームス/交響曲第3番 ミュンヘン MAM
1925/03/10 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1925/03/14 ロッシーニ/「セビリアの理髪師」 ミュンヘン
1925/03/15 ワーグナー/「ワルキューレ」 ミュンヘン
1925/03/16 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1925/03/20 ロッシーニ/「セビリアの理髪師」 ミュンヘン
(3月23日、ロベルト・ヘーガーによる「マタイ受難曲」)
1925/03/25 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1925/04/03 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1925/04/05 アカデミー・コンサート ベートーヴェン/エグモント序曲, ピアノ協奏曲第3番,交響曲第7番 ミュンヘン MAM
1925/04/08 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン
1925/04/11 ワーグナー/「パルジファル」(”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)”による)
1925/04/13 ワーグナー/「パルジファル」(”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)”による)
1925/04/16 ロッシーニ/「セビリアの理髪師」 ミュンヘン
1925/04/26 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1925/04/28 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1925/04/30 フランケンシュタイン/「リー・タイ・ペー 皇帝詩人」 ミュンヘン(初演)(”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)”による)
1925/05/02 ロッシーニ/「セビリアの理髪師」ミュンヘン
1925/05/15 フランケンシュタイン/「リー・タイ・ペー 皇帝詩人」 ミュンヘン
1925/05/17 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1925/05/24 フランケンシュタイン/「リー・タイ・ペー 皇帝詩人」 ミュンヘン
1925/05/25 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1925/05/26 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン
1925/05/29 ロッシーニ/「セビリアの理髪師」 ミュンヘン
1925/05/30 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1925/05/31 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘンGünther Lesnig’s DATA
1925/06/09? R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘンGünther Lesnig’s DATA記載なし
1925/06/13 ロッシーニ/「セビリアの理髪師」 ミュンヘン
1925/06/18 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1925/06/21 ビゼー/「カルメン」 ミュンヘン
1925/06/24 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1925/06/26 モーツァルト/「魔笛」 ミュンヘン
夏のモーツァルト・ワーグナー祭
1925/08/01 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1925/08/02 モーツァルト/「魔笛」 ミュンヘン レジデンツ劇場
1925/08/05 ワーグナー/「ラインの黄金」
1925/08/07 ワーグナー/「ワルキューレ」
1925/08/08 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン レジデンツ劇場
1925/08/09 ワーグナー/「ジークフリート」
1925/08/11 ワーグナー/「神々の黄昏」
1925/08/13 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」
1925/08/14 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン レジデンツ劇場
1925/08/15 ワーグナー/「パルジファル」
1925/08/18 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1925/08/20 ワーグナー/「パルジファル」
1925/08/25 ワーグナー/「パルジファル」
1925/08/30 ワーグナー/「パルジファル」
1925/09/03 モーツァルト/「魔笛」 ミュンヘン レジデンツ劇場
1925/09/08 ワーグナー/「パルジファル」
1925/09/09 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
(ワーグナーの演目は、”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)”による)
1925/09/15 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン
1925/09/23 ヘンデル/「ユリウス・シーザー」 ミュンヘン
1925/09/27 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1925/09/30 ロッシーニ/「セビリアの理髪師」 ミュンヘン
1925/10/17 フランケンシュタイン/「リー・タイ・ペー 皇帝詩人」 ミュンヘン
1925/10/18 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1925/10/19 アカデミー・コンサート ヘンデル/コンチェルト・グロッソ第4番, ハイドン/チェロ協奏曲op.101,モーツァルト/交響曲 第40番, J/ R.シュトラウス II/「メトゥザレム王子」序曲,「南国のばら」ミュンヘン MAM
1925/10/20 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA R.シュトラウス週間
1925/10/28 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1925/11/01 アカデミー・コンサート ベートーヴェン/ミサ・ソレムニス ミュンヘン(万聖節) MAM
1925/11/08 ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)”による)
[14/ & 15/11/25 No concert mentioned by Trémine]
1925/11/14 アルベール・ノルテのオペラ「フランソワ・ヴィヨン」(ミュンヘン初演)(”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)”による)
1925/11/16 アカデミー・コンサート ツィルヒャー/12楽器のための喜劇組曲「頑固者たちの懐柔」(初演),ブラームス/ヴァイオリン協奏曲, ベートーヴェン/交響曲第2番 ミュンヘン MAM [Obviously the concert Hunt dated 14/ & 15/11/25]
1925/11/19,20 ウィーン演奏協会 マーラー/「大地の歌」 (Rosette Anday, Laurenz Hofer) ,シューベルト/交響曲第6番 Wiener Symphoniker Archives
1925/11/23 アルベール・ノルテのオペラ「フランソワ・ヴィヨン」? ミュンヘン
1925/11/30 アカデミー・コンサート ベルリオーズ/「ベンヴェヌート・チェリーニ」序曲,R.シュトラウス/「ドン・キホーテ」,ベートーヴェン/交響曲第4番 ミュンヘン MAM
1925/12/06,07 アカデミー・コンサート ヴェルディ/レクイエム ミュンヘン MAM
1925/12/06 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1925/12/09 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュンヘン
1925/12/10 フランケンシュタイン/「リー・タイ・ペー 皇帝詩人」 ミュンヘン
1925/12/13 ビゼー/「カルメン」 ミュンヘン
1925/12/14 アカデミー・コンサート チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」,ワーグナー/ウェーゼンドンクの歌,ベルリオーズ/「イタリアのハロルド」 MAM
1925/12/15 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン
1925/12/16 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1925/12/26 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1925/12/27 ワーグナー/「ラインの黄金」ミュンヘン[翌年にかけての「ニーベルングの指環」チクルス]
1925/12/28 ロッシーニ/「セビリアの理髪師」 ミュンヘン
1925/12/29 ワーグナー/「ワルキューレ」ミュンヘン[翌年にかけての「ニーベルングの指環」チクルス]
(René Trémine’s DATA)
1924年から、バイロイト州立歌劇場ではワルター時代にも総支配人であったクレメンス・フォン・フランケンシュタインが総支配人に返り咲いていた。
クナッパーツブッシュはフランケンシュタインへの敬意もあるのか、4月30日、フランケンシュタインの作曲したオペラ「リー・タイ・ペー、 皇帝詩人」のミュンヘン初演を指揮している。
クナッパーツブッシュのレコーディングは、1925年か前年の1924年から始まっているが、その初めてのレコーディングにも、ハイドン「オックスフォード」と、フランケンシュタイン「ジャコモ・マイアベーアの主題による変奏曲」を取りあげた。
この年、いつのことか分からないながら、エレンと離婚した。ただ、エレンとは離婚後も行き来はあったらしい。奥波本によると、エレンはエルバーフェルトに帰り、看護婦として活躍したとある。
リヒャルト・シュトラウスの知己を得て親しくなったのもこの頃で、『指揮者十箇条(十箇条の黄金律)』はクナッパーツブッシュのために1925年頃、書かれたものであるという。当時、最大のオペラ作曲家であったリヒャルト・シュトラウスは、自身のオペラを舞台にかけるよう、クナッパーツブッシュに働きかけての親切だったものと思われる。
『指揮者十箇条(十箇条の黄金律)』
若い指揮者の記念帳のために
1.自分自身が楽しむのではなく、聴衆を喜ばせるために音楽をすることを心がけよ。
2.指揮するとき、君が汗をかくべきではない。ただ聴衆だけが暖かくなるべきだ。
3.『サロメ』や『エレクトラ』をメンデルスゾーンの「妖精の音楽」であるかのように指揮したまえ。
4.金管楽器は決して励ますように見つめるな。重要な出だしの合図をするためにちらと見やるだけにせよ。
5.それとは逆に、ホルンや木管楽器からは決して眼を離すな。総じて聞こえる時にはもう強すぎるのだ。
6.金管楽器が充分強く吹いていないと思うなら、さらに二段階ほどそれを弱めよ。
7.君が暗記している歌手の言葉ひとつひとつを自分で聞くだけでは足りない。「聴衆」が難なく追うことができなければならない。歌詞がわからないと聴衆は眠ってしまう。
8.歌手の伴奏は常に、歌手が苦労せずに歌うことができるようにせよ。
9.極度に速いプレスティッシモに達したと思うなら、テンポをさらに倍の速さにせよ。
10.以上のすべてをすなおに心がけるなら、君のりっぱな才能と大きな能力があれば、君は常に、君の聞き手を完全に魅惑することになるだろう。(カール・バンベルガー編「指揮者の領分」福田達夫・訳 春秋社 1998/11/10)
(6.は「間違いではないか」といろいろな方からご指摘をいただいたが、訳文のままである。リヒャルト・シュトラウス独特の自作に対する考え方があるのだろう)
【1925年の録音】
この年、データは不明ながら初めてレコーディングをした。ベルリンにおもむいての録音だった。ただし、他のレコーディングとクナッパーツブッシュによる初レコーディングのマトリックス番号の整合性を調べた人がおり、録音は1924年であった確率が高いという報告もある。
SPレコードは1904年には両面再生が可能な盤が開発され、すでに発売されていた。SP、LPは後年に考案された言葉で、SPとは”Standard Playing”の略で、片面4分ほど、両面で8分の再生が可能だった。ちなみにLPレコードのLPは”Long Playing”の略である。LPの発売は1947年が最初である。
まだ、アンプによって音の信号を電気的に拡大、大きな音で再生する方法は発明されておらず、SPレコードをかける蓄音機自体の音量しかなかった。音量の調整は、スピーカー部に当たるラッパ管や開口部を開いたり塞いだりして行われていた。名器と言われるクレデンザは1924年の開発である。また、電気式マイクロフォンの発明は1925年だった。クナッパーツブッシュの初レコーディングはアコースティック録音である。
ランツベルク刑務所を仮出獄したヒトラーの仕事は、まず党の合法化と再建だった。1925年1月4日には早くもバイエルン州新首相ハインリヒ・へルトと会い、破壊的な活動はしない、政府に協力する旨を約束している。発行禁止処分を食らっていた「フェルキッシャー・ベオバハター」の処分撤回の許可もその時得ている。政府との協力関係とは、「共産主義との戦い」が大きなテーマだった。「フェルキッシャー・ベオバハター」は2月26日に復刊され、「新しい始まり」というヒトラーの論文を掲載した。
また、突撃隊の褐色の制服もこの頃に決まった。褐色のシャツと制帽は、ドイツの東アフリカ植民地で軍が使用するために大量に作られていたが、それを卸値で買い取ることができ、突撃隊員用に流用された。
2月27日、ミュンヘン一揆のあったビュルガーブロイ・ケラーで党再建の第一歩が踏み出され、ヒトラーはそこで合法的政党への脱皮を宣言する演説を行う。ところが、この演説が成功したため、バイエルン政府のヒトラーに対する警戒心を起こさせることになった。3月9日には、ヒトラーはバイエルン州で公共の場での演説を禁止され、それがドイツ国内に波及し、一部の地域(ヴュルテンベルク、ブラウンシュヴァイク、チューリンゲン、メクレンブルク=シュヴェーリン)でしか演説会を開催することができなくなってしまった。
また、ヒトラーにとって頭の痛い問題は、国籍がドイツではなくオーストリアにあり、事態によってはオーストリアへの強制国外退去処分もあるということだった。バイエルン警察はヒトラーを警戒し、できればこの騒動のタネをミュンヘンから追放したいという欲求がくすぶり続けていたからだ。
そこでヒトラーはオーストリア大使館に国籍離脱の方法を問い合わせ、4月8日に国籍離脱を申請、30日にはオーストリア国籍を離れ、無国籍者になった。ヒトラーは1932年の大統領選挙出馬まで無国籍者のままだった。
ナチ党内での問題は、突撃隊を率いていたレームとの衝突だった。党は非合法化されていたため、レームは突撃隊を「戦闘団」として組織、30000人の勢力を有していた。ヒトラーが戻り、党の合法化が行われたため、当然の如く突撃隊はナチの組織であるはずだった。
しかし、レームの当初の目的は民間軍事組織を創り上げ、軍を援助する団体として自分がその指導者となることにあった。そのレームの考えに対してヒトラーは、バイエルン政府との衝突を避け、合法化路線に方針を転換したため、突撃隊をナチの政治の道具としてのみ考えていた。
レームはヒトラーと対立、突撃隊指揮官を辞任し、一時ナチを離れる。1928年には軍事教官として南アメリカのボリビアに赴いた。
ヒトラーが復帰最初の演説を行った1925年2月27日の翌日、2月28日にヴァイマル共和国初代大統領エーベルトは激務のために患っていた病気が悪化、54歳で死去した。
エーベルト死去に伴い大統領選挙が行われたが、どの候補者も規定得票数を確保できず、第二次選挙が行われることになった。高齢で隠棲中の第一次世界大戦の英雄パウル・フォン・ヒンデンブルク将軍が大統領選挙への出馬を承諾、4月30日の第二次選挙でヴァイマル共和国第二代大統領に選出された。
ヒトラーはバイエルン州や他の州での演説を禁止されていたため、草の根的な活動に精を出す。裕福な支持者の家で人を集め、そこで演説した。対ユダヤ人問題を過大に扱うと、支持者になりそうに人々は離れてしまう。ヒトラーは共産主義の恐怖、ドイツの誇りの復権を中心にバイエルン州で私設演説会を開いて回った。7月18日にはランツベルク刑務所で口述筆記によって書かれた「我が闘争」第1巻が刊行される。ただ、発刊された当時はそこそこ売れはしたものの、あまり評判は良くなかった。
この1925年の後半に、北ドイツ・ナチを率いるグレゴール・シュトラッサーのスタッフであった若者が初めてヒトラーに会い、心酔している。ヨーゼフ・ゲッベルスである。11月4日、ゲッベルスはヒトラーの演説が可能であったブラウンシュヴァイクでヒトラーに会い、「天にも昇る」気持ちになった。ただ、この頃のゲッベルスはシュトラッサーのスタッフであり、完全にヒトラーの虜になるまでにはまだ時間が必要だった。
ヒトラーの地道な勢力拡大、党としての地盤固めを行う隠忍自重の日々が始まった。この時期から、ヒトラーはバイロイトのヴァーンフリート館をたびたび訪れるようになっている。ヒトラーの支持者ヴィニフレートだけではなく、ヒトラーはワーグナー家の子供たちにもなつかれた。ヴィーラントやウォルフガングもむろんその中に入る。ヒトラーは、ヴァーンフリートでは「ヴォルフおじさん」と呼ばれた。