1926年 ミュンヘン時代5

1926/01/01 ワーグナー/「ジークフリート」「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
1926/01/03 ワーグナー/「神々の黄昏」「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
1926/01/06 ワーグナー/「パルジファル」(”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)”による)
1926/01/10 ワーグナー/「パルジファル」(”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)”による)
1926/01/24 サリヴァン/「ミカド」 ミュンヘン
1926/01/31 サリヴァン/「ミカド」 ミュンヘン
(ただし、”Münchner Theaterzettel 1807-1982″,”Knappertsbusch” by Rudolf Betz / Walter Panofskyでは1月23日となっている)
1926/02/01 モーツァルト/ディヴェルティメント KV 334 , アリア「娘よ,私と離れている間に」,モーツァルト/アリア「彼に目を向けて下さい」, 交響曲第41番 ミュンヘン MAM
1926/02/02 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン
1926/02/03 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1926/02/08 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1926/02/12 サリヴァン/「ミカド」 ミュンヘン
1926/02/15 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1926/02/18 ウィーン演奏協会 コルンゴルト/「ひとつの喜劇」序曲, マーラー/「さすらう若人の歌」 (Max Klein), R.シュトラウス/「ツァラトゥストラはかく語りき」, ワーグナー/「リエンツィ」序曲 Wiener Symphoniker Archives
1926/02/22 ベートーヴェン/交響曲第9番 ミュンヘン MAM
1926/03/01 グレーナー/ロシア民謡による変奏曲, ハイドン/交響曲第96番 , シューベルト/交響曲第9番「ザ・グレート」 ミュンヘン MAM
1926/03/03 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1926/03/15 ブラームス/交響曲第4番, ブルックナー/交響曲第4番 ミュンヘン MAM
1926/03/18 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1926/03/19 ワーグナー/「ラインの黄金」 ミュンヘン [part of a complete Ring ?]
1926/03/23 ワーグナー/「ジークフリート」 ミュンヘン
1926/03/25 ワーグナー/「神々の黄昏」 ミュンヘン
1926/03/28 J/S/バッハ/マタイ受難曲 ミュンヘン MAM
1926/03/29 ロッシーニ/「セビリアの理髪師」 ミュンヘン
[04/04/26 not mentioned by Trémine]
1926/04/03 ワーグナー/「パルジファル」(”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jü;rgen Seidel (1984)”による)
1926/04/05ワーグナー/「パルジファル」(”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)”による)
1926/04/13 フランケンシュタイン/「リー・タイ・ペー 皇帝詩人」 ミュンヘン
1926/04/20 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1926/04/23 ウェーバー/「魔弾の射手」 ミュンヘン
1926/05/02 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1926/05/09 ウェーバー/「魔弾の射手」 ミュンヘン
1926/05/09,10 バッハ/ロ短調ミサ ミュンヘン MAM
1926/05/13 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1926/05/21 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 (ミュンヘン初演 with Elisabeth Feuge) Günther Lesnig’s DATA
1926/05/27 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 デッサウ、フリードリヒ劇場(Gustav Hahn, “Geschichte des Dessauer Landestheaters”, in: Dessauer Kalender, 18 (1974) & 19 (1975)による)
1926/06/01 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1926/06/04 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1926/06/06 ウェーバー/「魔弾の射手」 ミュンヘン
1926/06/08 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1926/06/11 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1926/06/12 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1926/06/21 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1926/06/22 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1926/06/23 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1926/06/24 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1926/06/25,26 ベートーヴェン/交響曲第9番 MAM

夏のモーツァルト・ワーグナー祭
1926/08/01 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1926/08/02 モーツァルト/後宮からの誘拐」(レジデンツ劇場)
1926/08/03 ワーグナー/「パルジファル」(レジデンツ劇場)
1926/08/04 モーツァルト/「フィガロの結婚」
1926/08/06 モーツァルト/「魔笛」(レジデンツ劇場)
1926/08/07 ワーグナー/「ラインの黄金」
1926/08/08 ワーグナー/「ワルキューレ」
1926/08/10 ワーグナー/「ジークフリート」
1926/08/12 ワーグナー/「神々の黄昏」
1926/08/14 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」(レジデンツ劇場)
1926/08/15 ワーグナー/「パルジファル」
1926/08/17 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1926/08/22 ワーグナー/「パルジファル」
1926/08/25 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1926/09/04 ワーグナー/「パルジファル」
1926/09/05 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
(Trémineのデータには(すべての年において、モーツァルトの記載がある年はあるものの、ワーグナーの全記録が抜けている)、夏のモーツァルト・ワーグナー祭の記載がなく、”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984),Festspiele (1.8 bis 5.9.1926) / Inszenierung: Max Hofmüllerによった)(Trémine DATAには、上記に含まれない9/2の「さまよえるオランダ人」、9月1日「神々の黄昏」、3日「ドンジョヴァンニ」に言及している)

1926/09/07 ウェーバー/「魔弾の射手」 ミュンヘン
1926/09/09 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1926/09/12 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1926/10/20 ワーグナー/「」トリスタンとイゾルデ」(これはTrémineのデータにはなく、フランツ・ブラウン「クナッパーツブッシュの想い出」の、クナッパーツブッシュが個人的に所有していたファクシミリ版スコアに書かれているフランケンシュタインの献辞の日付によっている。「この日のトリスタン指揮者、ハンスクナッパーツブッシュに」)
[20/10/26 Not mentioned by Trémine/ “Karl Boehm an der Bayerischen Staatsoper” mentions that he was conducting Rigoletto that day]
1926/11/07 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1926/11/09 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン

ソヴィエト連邦、レニングラードに客演
1926/11/17 ウェーバー:歌劇「オベロン」序曲、シューベルト:交響曲第6番、R.シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」 レニングラード 
1926/11/20 ブラームス:悲劇的序曲、ハイドンの主題による変奏曲、交響曲第3番 レニングラード
1926/11/24 シネガーリャ:ピエモンテ舞曲第1番 作品31 レニングラード初演、モーツァルト:セレナード第13番、ドヴォザーク:交響曲第9番「新世界より」 レニングラード
1926/11/26 チャイコーフスキー:交響曲第6番「悲愴」、シューベルト:交響曲第6番、ヨハン・シュトラウス2世/「ドナウの乙女」 レニングラード
1926/11/27 レーガー:モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ、カゼッラ:ピアノと管弦楽のためのパルティータ アルフレート・カゼッラ(Pf) レニングラート初演、ハイドン:交響曲第6番、R.シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」 レニングラード
(サンクトぺテルブルク・フィルハーモニー交響楽団 ARCHIVES)

1926/12/12 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1926/12/13 モーツァルト/交響曲第38番, ピアノ協奏曲第20番, ハフナー・セレナード ミュンヘン MAM
1926/12/15, 16, 18, 20 ワーグナー: 「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
1926/12/22 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1926/12/26 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1926/12/28 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
(René Trémine’s DATA)

 5月21日にはリヒャルト・シュトラウスの「インテルメッツォ」ミュンヘン初演を指揮している。
 前年の1925年頃から、リヒャルト・シュトラウスと親しくなったからか、また元々「ばらの騎士」が好きでよく指揮していたからか、クナッパーツブッシュとリヒャルト・シュトラウスはよく行き来するようになった。当時の映像が残っていて、ガルミッシュの中庭で仲良く昼食、リヒャルト・シュトラウスの孫(たぶん)と遊ぶ若いクナッパーツブッシュがほんの少し映っていた(Richard Strauss)。鼻をレロレロやっているのが若き日のクナッパーツブッシュ。リヒャルト・シュトラウスの孫とは、いかにも「気安いひと」のような雰囲気で、クナッパーツブッシュは笑顔でいたずらっぽく対応していた。リヒャルト・シュトラウスの居館は、「家」というより「城」という雰囲気だった。映像を見る限りにおいては、その雰囲気からクナッパーツブッシュはよくガルミッシュに行っていたことが伝わってくる。クナッパーツブッシュとリヒャルト・シュトラウスはカード仲間でもあり、よく一緒にカードに興じたという話も伝わっている。
リヒャルト・シュトラウスと台本を提供していたオーストリアの劇作家フーゴー・フォン・ホフマンスタールとの往復書簡の中で、「町人貴族」のミュンヘン初演をクナッパーツブッシュに任せようとリヒャルト・シュトラウスがホフマンスタールに持ちかけている手紙や、「エジプトのヘレナ」のミュンヘン初演(1928/10/08)で、クナッパーツブッシュはよくやっているというリヒャルト・シュトラウス手紙が見える。リヒャルト・シュトラウスのクナッパーツブッシュに対する評価は高かった(「リヒャルト・シュトラウス、ホーフマンスタール往復書簡全集」中島悠爾訳 音楽之友社 2000/1/1より)。
 ただどういうわけか、リヒャルト・シュトラウスはクナッパーツブッシュに自作のオペラの本当の初演を任せなかった。初演は行ったのはたいがいクレメンス・クラウス、フリッツ・ブッシュ、カール・ベームで、リヒャルト・シュトラウスは、クナッパーツブッシュを常に「ミュンヘン初演」という二番手の立場に置いていたことがその初演リストを見ているとわかる。リヒャルト・シュトラウスに初演をさせてもらえない鬱積が徐々にクナッパーツブッシュの内に溜まっていったのではないかとも思える。その鬱積が、のちにクナッパーツブッシュとリヒャルト・シュトラウスの2度に渡る確執に繋がり、結局、離反にまでいってしまう。リヒャルト・シュトラウスはワーグナー以降最大のオペラ作曲家として、自作が劇場にかけられることを望んだ。リヒャルト・シュトラウスの薫陶を受けた指揮者はひじょうに多く、クレメンス・クラウスを筆頭に、フルトヴェングラーやワルター、ブッシュ、ベーム、フリッツ・ライナーともやりとりは頻繁だった。後年には、カラヤン、ジョージ・セル、ゲオルグ・ショルティ、ルドルフ・ケンペにも、自作の指揮の仕方をさまざまに教えている。
 5月27日、クナッパーツブッシュは火事から修復がなった古巣デッサウ・フリードリヒ劇場に客演、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を指揮した。この件から見ると、クナッパーツブッシュのミュンヘンへの流出は、ある程度デッサウでは理解をしていたということだろう。この後も、クナッパーツブッシュはデッサウに客演している。

 「夏のモーツァルト・ワーグナー祭」が終わり、9月13日 前年、エレンと離婚したクナッパーツブッシュは、プロシアの貴族で軍人の家庭に生まれたマリオンと再婚する。マリオンもフランケンシュタインと同じように貴族であったため、名前が長い。クラーラ・マリーア・マリオン・パウリーネ・フォン・ライプツィヒという。マリオンはクナッパーツブッシュの生涯の伴侶となる。前妻エレンとの間に生まれたクナッパーツブッシュの一人娘アニータは、後の記録を見るとクナッパーツブッシュに引き取られていたようだ。
 10月20日 国民劇場で「トリスタンとイゾルデ」を指揮、その後、クナッパーツブッシュはソヴィエト連邦のレニングラードに向かった。10月と11月のアカデミー・コンサートはカール・ベームのほか、フーゴー・レール、ルドルフ・クラッセルト、ヴァルターハウゼン、ブラウスネルンがクナッパーツブッシュに替わって指揮をした。
 当時、ロシアはロシア革命後、1922年、全連邦ソビエト大会で国家樹立が宣言され、ソヴィエト社会主義共和国連邦となっていた。ヴァイマル共和国は共産化したソヴィエト社会主義共和国連邦と国交を樹立した世界で最初の国である。ヴァイマル共和国の外交・経済政策における苦肉の策だった。ソヴィエトとヴァイマル共和国は友好国だった。そのロシアの都市サンクトペテルブルクは、革命後ペトログラードと名前を変え、さらに1924年1月21日に死亡したレーニンにちなんで、レニングラードと名前を変えていた。

 2月14日 ヒトラーは急遽バンベルクにナチ党指導者を集め、「臨時党大会」を行う。ランツベルク刑務所に収監されていた間、北部ドイツのナチ党内で実力を持ちつつあったグレーゴル・シュトラッサーを圧倒するためだった。1月24日にシュトラッサーの率いる北ドイツ・ナチはハノーファーで大管区指導者会議を開き、左傾化を強めていた。2月14日は、このシュトラッサーの動きを封じ込める意味があった。ヒトラーは最初のことばを発する瞬間から、電撃のようにNSDAPはヒトラーの党であり、自分が指導者であることを集まった党指導者に徹底させた。
 4月、ビュルガーブロイ・ケラーの集会にゲッベルスを北ドイツ・ナチから演説者として招いたことを皮切りに、ヒトラーとゲッベルスは急接近してゆく。折しも、ヒトラーのナチでの対抗馬シュトラッサーは3月9日に自動車事故に遭って重傷を負い、長期入院中だった。シュトラッサーの入院中、ゲッベルスを味方に引き入れ、ヒトラーは党での独裁を確立してゆく。
 7月3日から4日、全国党大会がヴァイマルで開催され、ザクセンの地方組織であった「大ドイツ青少年同盟」が「ヒトラー・ユーゲント」に改称されて全ドイツに拡大、新たな組織作りが宣言された。ただ、この当時、ナチは目立ちはしたもののまだ弱小政党であり、全国に組織が出来上がりつつあると行っても、その活動の中心はまだバイエルンだけだった。
 7月23から28日の間、ヒトラーは退院したシュトラッサーとゲッベルスをオーバーザルツベルクのベルヒテスガーデンに招待、ゲッベルスはヒトラーに心酔する。ヒトラーは亡くなったエッカートにオーバーザルツベルクの美しさを教わり、たびたびオーバーザルツベルクを訪れていたが、まだベルクホーフと呼ばれることになる私邸はなかった。「ホテル・プラッテンホーフ」に部屋を借りていた。
 ヒトラーは、対抗馬シュトラッサーとゲッベルスの扱いが実に鷹揚でうまかった。対抗馬シュトラッサーを党宣伝部長に任命、取り込むことによってシュトラッサーの反抗の芽を摘んでしまう。
 また、秋にはゲッベルスをベルリン・ブランデンブルク管区の大管区指導者に任命する。ゲッベルスがベルリンの指導者になることにより、ナチのドイツ全国への足がかりを、より強力なものにしてゆく。ベルリンはまだ共産主義の根強い地域で、ゲッベルスは独特の戦法でベルリンに根を張ってゆくことになった。

 1926年12月25日、日本の大正天皇が47歳という若さで崩御し、年号が昭和に改まった。
 中国では1925年に孫文が亡くなり、南京を拠点とする蒋介石が台頭して国民革命軍の最高司令官を引き継ぐ。袁世凱が死んだあと、混乱し、軍閥が割拠する中国北部に対して「北伐」が開始されている。

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