1927/01/01 ワーグナー/ローエングリン」 ミュンヘン [Trémine doesn’t mention Leningrad]
1927/01/03 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン
1927/01/06 ワーグナー/「パルジファル」(“Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984))
0927/01/09 ワーグナー/「パルジファル」(“Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984))
1927/01/11 ウェーバー/「魔弾の射手」 ミュンヘン
1927/01/13 ウェーバー/「魔弾の射手」 ミュンヘン
1927/01/16.20 J.S.バッハ/ロ短調ミサ MAM
1927/01/22 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1927/01/23 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA プフィッツナー/「パレストリーナ」の代演
1927/01/24 マーラー/交響曲第4番, ブルックナー/交響曲第5番 ミュンヘン MAM
1927/01/25 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1927/01/30 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1927/02/03 ウィーン演奏協会 ウェーバー/「オベロン」序曲, チャイコフスキー/ピアノ協奏曲 第1番(Jascha Spiwakowsky), R.シュトラウス/アルプス交響曲 (作曲家が臨席した) Wiener Symphoniker Archives
1927/02/06 ワーグナー/ローエングリン ミュンヘン
1927/02/09 フンパーディンク/「王様の子供たち」 ミュンヘン
1927/02/12 ヴァルターシャウゼン: 「シャベール大佐」 ミュンヘン
1927/02/13 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1927/02/14 ベートーヴェン/交響曲第9番 ミュンヘン MAM
1927/02/16 ヴァルターシャウゼン: 「シャベール大佐」 ミュンヘン
1927/02/20,21 ブラームス/交響曲第3番?、フランケンシュタイン/マイヤベーアの主題による変奏曲, マーラー/「真夜中に」、 「私はこの世に忘れられ」 (Maria Basilides), ワーグナー/「タンホイザー」 序曲 ブダペスト オーケストラは不明
1927/02/24 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1927/02/26 ヴァルターシャウゼン/ 「シャベール大佐」 ミュンヘン
1927/02/27 J.シュトラウス II/こうもり ミュンヘン
1927/03/01 J . R.シュトラウス II/こうもり ミュンヘン
1927/03/02 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1927/03/03ベートーヴェン/「コリオラン」序曲, 交響曲第8番, 交響曲第3番 ミュンヘン MAM
1927/03/04 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1927/03/06 ワーグナー/ローエングリン ミュンヘン
1927/03/07 オデオン・ザールでアカデミー・コンサート ベートーヴェン/「コリオラン」序曲、ベートーヴェン/交響曲第8番、ベートーヴェン/交響曲第3番(not Trémine DATA.ODEON M&ÜNCHEN Emblem Musikalische Akademie Musikalische Akademie e.V.)
1927/03/08 ライプツィヒに客演、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽を指揮している。モーツァルト/交響曲第41番「ジュピター」、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「ローエングリン」よりアリア(t:ハインリヒ・クノーテ)、ベートーヴェン/交響曲第2番が演奏曲目だった。
クナッパーツブッシュがライプツィヒ時代にゲヴァントハウス管弦楽団を単体のオーケストラとして指揮したのかどうかは、現在記録に見あたらない。恐らく任期が短く、また病気を患っていた期間もあったことから、ゲヴァントハウス管弦楽団としては指揮していなかったのものと思われる。ただ、ゲヴァントハウス管弦楽団はライプツィヒ市立歌劇場の管弦楽団でもある。メンバーとは馴染み深かったのか。クナッパーツブッシュのライプツィヒ時代のゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督はアルトゥール・ニキシュだった。ニキシュの死後、1922年からニキシュと同様、ベルリン・フィルの地位と同時にフルトヴェングラーがゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督の地位に就いていた。
1927/03/11 フランケンシュタイン/「リー・タイ・ペー 皇帝詩人」 ミュンヘン
1927/03/12 ベートーヴェン/「エグモント」序曲, 交響曲第7番, ヴァイオリン協奏曲 (Adolf Busch) ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 (BPO) マグデブルク (クリスタルパレス) (ベートーヴェン100年祭) [Trémine also mentions “CR”. No idea what it means]
クナッパーツブッシュとフルトヴェングラーの接点は分からない。フルトヴェングラーは1886年1月25日にベルリンで生まれているから、クナッパーツブッシュよりも2歳年長である。クナッパーツブッシュはレコーディングでベルリンを訪問したり、その他の機会を利用してさまざまな指揮者のコンサートに通っていたことが考えられる。ニキシュのコンサートはもちろん、ベルリン州立歌劇場のレオ・ブレッヒとも親交を結んでいたというクナッパーツブッシュ自身の言葉もある。ニキシュは、クナッパーツブッシュにとってあこがれの指揮者だった。おそらく、いずれかのコンサートでフルトヴェングラーのコンサートを聞き、楽屋を訪ねて、あるいは別の機会を捉えて親交を結んでいたのかも知れない。この年、クナッパーツブッシュがマグデブルクでベルリン・フィルを指揮していた時、フルトヴェングラーはニューヨークに招聘され、ニューヨーク・フィルを指揮していた。
ただ、クナッパーツブッシュのベルリン・フィルの定期演奏会への登場は遅かった。クナッパーツブッシュがベルリンでベルリン・フィルを振るのは、ナチ政権掌握、クナッパーツブッシュのバイエルン州からの追放などのさまざまなゴタゴタがあった後、なんと11年後の1938年になってからである。
1927/03/14 ヴァルターシャウゼン/ 「シャベール大佐」 ミュンヘン
1927/03/17 ウィーン演奏協会 ブラームス/ピアノ協奏曲第1番 (Severin Eisenberger), R.シュトラウス/4つの歌曲 (エリーザベト・シューマン) = 「聖なる三人の王」,「母のたわ言」,「すてきな幻」,「子守歌 」, チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」 Wiener Symphoniker Archives
1927/03/26 フンパーディンク/「王様の子供たち」 ミュンヘン
1927/03/27 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1927/03/28 ベートーヴェン :ミサ・ソレムニス ミュンヘン MAM
1927/04/03 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン
1927/04/06 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1927/04/10 J.S.バッハ/マタイ受難曲 ミュンヘン MAM
1927/04/11 フランケンシュタイン/「リー・タイ・ペー 皇帝詩人」 ミュンヘン
1927/04/18 ワーグナー/「パルジファル」(“Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984))
1927/04/17 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1927/04/19 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1927/04/21 ボルフ=フェラーリ/「天の衣」 (世界初演) ミュンヘン
ソヴィエト連邦、レニングラードに客演
1927/4/27 ベート-ヴェン:交響曲第2番、ヴァイオリン協奏曲(vn:シゲティ・ヨージェフ(Vn)、交響曲第5番 レニングラード
1927/4/30 ベートーヴェン:交響曲第4番、ヴァイオリン協奏曲(vn:シゲティ・ヨージェフ(Vn)、交響曲第3番「エロイカ」 レニングラード
1927/05/04 ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」、交響曲第7番 レニングラード
1927/05/06 ベートーヴェン:交響曲第5番、交響曲第9番 レニングラード(GRAND SLAMのCD、GS-2269にはこの日の記載はない)
1927/05/07,08 ベートーヴェン:交響曲第8番、交響曲第9番 レニングラード
(サンクトぺテルブルク・フィルハーモニー交響楽団 ARCHIVES)
1927/05/13 ベートーヴェン/交響曲第9番 デッサウ フリードリヒ劇場管弦楽団 (ベートーヴェン100年祭)
1927/05/18 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1927/05/22 ワーグナー/「ワルキューレ」 ミュンヘン
1927/05/24 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1927/06/01 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1927/06/03 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1927/06/06 ワーグナー/「ジークフリート」 ミュンヘン
1927/06/16 ワーグナー/「ラインの黄金」 ミュンヘン
1927/06/19 ワーグナー/「ワルキューレ」 ミュンヘン
1927/06/21 フランケンシュタイン/「リー・タイ・ペー 皇帝詩人」 ミュンヘン
1927/06/24 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1927/06/28 モーツァルト: 「フィガロの結婚」 or ワーグナー: 「神々の黄昏」
夏のモーツァルト・ワーグナー祭
1927/07/26 ワーグナー/ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1927/07/28 ワーグナー/「パルジファル」
1927/07/30 モーツァルト/「魔笛」(レジデンツ劇場)
1927/08/02 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」(レジデンツ劇場)
1927/08/03 ワーグナー/「パルジファル」
1927/08/06 ワーグナー/「ラインの黄金」
1927/08/07 ワーグナー/「ワルキューレ」
1927/08/09 ワーグナー/「ジークフリート」
1927/08/11 ワーグナー/「神々の黄昏」
1927/08/13 モーツァルト/「後宮からの誘拐」(レジデンツ劇場)
1927/08/14 ワーグナー/ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1927/08/15 ワーグナー/「パルジファル」
1927/08/16 モーツァルト/「フィガロの結婚」
1927/08/20 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」(レジデンツ劇場)
1927/08/21 ワーグナー/「パルジファル」
1927/08/23 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」
1927/08/26 ワーグナー/ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1927/09/04 ワーグナー/パルジファル ミュンヘン
1927/09/10 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1927/09/16 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1927/09/19 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1927/09/24 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1927/09/25 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1927/09/29 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1927/10/10 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1927/10/17 ヘンデル/「アグリッピーナ」序曲, タルティーニ/ヴィオラ協奏曲 , シューマン/交響曲第3番, ブラームス/交響曲第2番 ミュンヘン MAM
1927/10/24 ヴァルターシャウゼン: 「シャベール大佐」 ミュンヘン
1927/10/26 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン [クナッパーツブッシュの手紙によるデータあり]
1927/11/01 ヴェルディ/レクイエム(万聖節コンサート) ミュンヘン MAM
1927/11/05 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン[クナッパーツブッシュの手紙によるデータあり] Günther Lesnig’s DATA
1927/11/07 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン [クナッパーツブッシュの手紙によるデータあり] Günther Lesnig’s DATA
1927/11/10 R.シュトラウス/「ナクソス島のアリアドネ」 ミュンヘン[クナッパーツブッシュの手紙によるデータであり未確認]
1927/11/11 バイエルン州立歌劇場(国民劇場) プッチーニ/オペラ「トゥーランドット」ミュンヘン初演(“Hans Knappertsbusch – Zum 100. Geburtstag des Dirigenten” by Gabriele E. Meyerによる)
1927/11/12 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン[クナッパーツブッシュの手紙によるデータあり] Günther Lesnig’s DATA
1927/11/14 モーツァルト/ディヴェルティメント第2番, カッセーラ/ピアノと管弦楽のための「パルティータ」(初演), R.シュトラウス/ドン・ファン ミュンヘン MAM
1927/11/17 プッチーニ/「トゥーランドット」 ミュンヘン
1927/11/18 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン [クナッパーツブッシュの手紙によるデータであり未確認]
1927/11/28 ウェッツラー/シェークスピア「お気に召すまま」序曲, ヒンデミット/管弦楽のための協奏曲(ミュンヘン初演), チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番, コルンゴルト/「劇的序曲」(ミュンヘン初演) ミュンヘン MAM(”Hans Knappertsbusch – Zum 100. Geburtstag des Dirigenten” by Gabriele E. Meyerでは27日になっている)
1927/11/30 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1927/12/04 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン [クナッパーツブッシュの手紙によるデータあり] Günther Lesnig’s DATA
1927/12/05 ストラヴィンスキー/「春の祭典」, R.シュトラウス/4つの歌曲,アルプス交響曲 ミュンヘン MAM (Odeon)
1927/12/11,12 R.シュトラウス/「ドン・キホーテ」, シューベルト/交響曲第6番, ウェーバー/「オベロン」序曲. ブダペスト, ブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団(ブダペスト国立歌劇場管弦楽団)
1927/12/23 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1927/12/25 プッチーニ/「トゥーランドット」 ミュンヘン
1927/12/26 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1927/12/28 フンパーディンク/「王様の子供たち」 ミュンヘン
1927/12/29 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)
「ミュンヘン最新報」の編集長であったフリッツ・ゲルリヒは、「ミュンヘン最新報」を辞した後1926年に大病を患い、サナトリウムで静養した。翌1927年、ゲルリヒは不思議なカトリックの女性と出会い、その人生を大きく転換させる。
ゲルリヒが属していた宗派はプロテスタントのカルヴァン派で、クナッパーツブッシュと同じである。1927年に出会った女性はカトリックのテレーゼ・ノイマンと言う。テレーゼは1898年に生まれた。テレーゼは1918年頃(20歳の時に)事故に遭い、失明し歩行も困難になった。テレーゼはフランス・カルメル会の修道女で聖女とも呼ばれ、若死にしたリジューの聖女テレーズ(マリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタン 1873/1/2-1897/9/30)に熱心な祈りを捧げる。病気の治癒を祈るわけではなく、神への信頼とイエスへの共苦がその祈りであったようだ。
すると、不思議なことにテレーゼは目が見えるようになり、歩けるようになった。さらにテレーゼは25歳を過ぎた頃から聖別を受けた聖餅しか口にしなくなり、毎週金曜日にイエス・キリストが十字架上で受けた傷(すなわち釘を打たれた両手、両足、槍を突き刺された脇腹)と同じ箇所や眼から出血をし、不思議な神との合一を果たすようになった。
ゲルリヒは「そんなカトリックのインチキなペテンを見破ってやる」と勇んでテレーズの聖痕の儀式のギミックを暴きに行ったが、逆にシーツを鮮血で真っ赤に染めたテレーゼの凄惨な姿を見て大感動し、プロテスタントからカトリックに宗旨替えをしてしまう。
さらにゲルリヒは「ミュンヘン最新報」の代表パウル・ニコラウス・コスマンをもカトリックに誘う。コスマンは何度も書いているが、ユダヤ人嫌いのユダヤ人で、ユダヤ教とは離反していた。
ゲルリヒはテレーゼの伝記を雑誌(多分)にした「まっすぐな道」の編集長に就任、一時はその考えと行動を支持したヒトラーとは逆の立場を取るようになる。ゲルリヒは1934年にナチに惨殺されてしまうが、テレーゼ・ノイマンは1962年まで生きた。テレーゼの聖痕が真実なのかギミックなのかは、今ではもう分からないが、1927年頃には、まだそのような奇蹟への信仰が生きていた。
ゲルリヒとコスマンは、この後も登場する。
ミュンヘンとは異なり、1927年当時のベルリンは、景気の上昇で市民生活は豊かになり、ヴァイマル文化と呼ばれる、自由かつ退廃的で、刺激の強い芸術やショービジネスが盛んだった。黄金の20年代とも呼ばれる時期である。映画や演劇の質も高かった。
ベルリンの音楽界も百花繚乱の雰囲気があり、ベルリン・フィルをウィルヘルム・フルトヴェングラーが率い、ベルリン州立歌劇場ではエーリッヒ・クライバーやレオ・ブレッヒが活躍、州立歌劇場では別メニューとして革新的なクロル・オペラが開始され、オットー・クレンペラーが指揮を行っていた。さらに、ふたつの歌劇場が統合されてシャルロッテンブルクに市立歌劇場がオープン、ブルーノ・ワルターがその指揮を担っていた。現代でも名前やその録音を聞くことができる大指揮者たちがベルリンを拠点に活動を行っていたわけだ。また、都市部の繁栄にはつきものの左翼革命運動も盛んで、ベルリンは文化都市として大いに栄えていた。
1928年のクナッパーツブッシュの録音として、データは不明ながら、ベルリン・フィルとワーグナー管弦楽曲集の録音が残っているが、様々な資料を突き合わせると1927年の録音であることが分かる。PreiserやArchiphonの復刻盤CDデータ、吉田光司著「Hans Knappertsbusch Discography」(第二版 平凡社「ハンス・クナッパーツブッシュ大全集」に収録)では1928年の録音となっているが、Huntではベルリン・フィルとのワーグナーは1927年の録音となっていて、マイケル・グレイ編「Berlin Philharmonic Orchestra Dsicography」(クラシック・プレス2000年夏号)でも、ベルリン・フィルとのワーグナーは1927年となっており、さらにグレイの記録では「ローエングリン」第三幕への前奏曲のみ、オットー・マリエンハーゲンの指揮となっている。吉田光司氏によると「音楽之友社のドイツ・グラモフォン完全データ・ブックによると、オットー・マリエンハーゲン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏であるとのこと」(「Hans Knappertsbusch Discography」)だそうである。
ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第3幕への前奏曲
ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」徒弟達の踊り
ワーグナー「タンホイザー」よりバッカナール
ワーグナー「タンホイザー」より入城行進曲
ワーグナー「ローエングリン」第三幕への前奏曲 (オットー・マリエンハーゲン指揮)
ワーグナー「パルジファル」第一幕より場面転換の音楽
ワーグナー「ワルキューレ」よりワルキューレの騎行
ワーグナー「さまよえるオランダ人」序曲
さすがにワーグナーのスペシャリストとしての評価が高かっただけに、その演奏はクナッパーツブッシュがまだ若い当時でも見事である。
この年の暮れ、バイエルン州立歌劇の第三指揮者だったカール・ベームはミュンヘンを離れる。ベームはダルムシュタットの歌劇場から呼ばれ、そこの音楽監督に就任した。ベームはミュンヘンでの在籍期間、オペラの指揮ばかりを行った。アカデミー・コンサートなど、交響曲のコンサートは、ほぼ音楽総監督であるクナッパーツブッシュの領域だったと語っている(「回想のロンド」)。
ヒトラーからベルリン大管区指導者に任命されたゲッベルスは、ベルリンで行動を起こし始める。ナチを市民に浸透させる宣伝方法として、暴力事件を引き起こすことを選んだ。ゲッベルスは共産主義者の影響力が強い労働者の街へ突撃隊を繰り出し、小競り合いや大規模な衝突を行った。2月11日には、共産党との軋轢を深め、大きな騒動を引き起こす。この日以降、ベルリンでのナチ対共産党の対立が激化し、流血騒ぎも何度となく引き起こされることになった。
またミュンヘンではランツベルク刑務所を出所したヒトラーに対し、バイエルン政府は警戒を強め、バイエルン州内での演説を禁止していたが、3月5日、公の集会での演説の禁を解く。ヒトラーは3月6日には演説を再開、9日には7000人の聴衆を集めてクローネ・サーカスで演説会を開いた。ヒトラーの政治ショーの人気は高く、さらに多くの聴衆を惹きつけてゆくことになる。
5月1日、ヒトラーは初めてベルリンで演説会を行う。プロイセンでもヒトラーの演説は禁止されていたが、バイエルンの禁止処分解除に倣った方針だったのか。ところがプロイセン政府は、ヒトラーの共産主義者やユダヤ人に対するあまりに過激な演説内容から騒動を怖れ、ナチのプロイセン内での活動を禁止し、ヒトラーとゲッベルスの演説を1年間禁止する。その時のベルリン警視総監代理ベルンハルト・ヴァイスはユダヤ人だった。ゲッベルスは7月4日に「デア・アングリフ」を創刊、文字でヴァイスを攻撃する。
8月19から21日 ニュルンベルクで第三回ナチ党全国大会。以後、ナチ党全国大会はニュルンベルクで開催されることになった。
11月7日、ベルリン株式市場が暴落し、金融恐慌が起こる。1929年の大恐慌の前哨となった。そのためか社会に対して反発する市民が増え、ナチ党員増加のきっかけとなった。1926年にはナチ党員49,523人だったが、この年72,590人まで増えた。ただ、勢力が増してきてとはいえ、まだまだナチは弱小政党だった。ナチが政党として巨大な勢力を築くためには、もう一段階大きな社会的ショックが必要だった。
昭和2年の日本は、蒋介石のますますの台頭のため、以後、中国と軋轢を強めている。南京事件、漢口事件、済南事変をはじめ、多くの日本軍の出兵が行われている。
さらに蒋介石は4月12日に革命政府に対して反共クーデターを起こし、4月18日、南京に国民政府樹立を宣言した。中国は共産党政府、国民政府、中国北部の軍閥による支配と、かなり混乱し始める。ただ、蒋介石は方針として親日政策を取り始め、中国統一の協力を日本に要請するため、この年の9月から11月まで日本を訪問した。
日本では、経済的な問題として、3月15日に金融恐慌が起こり、多くの中小銀行が破綻、取り付け騒ぎが起こった。そのため、大銀行(5行)への預金集中化が始まる。
この年、芥川龍之介が自殺(7月14日)、享年35歳という若さだった。
東京ではモボ、モガ(モダン・ボーイ、モダン・ガール)が闊歩していた時代でもあった。