年初、レニングラードに客演
1929/01/02 シューベルト/イタリア風序曲第1番、第2番、モーツァルト/交響曲第41番「ジュピター」、フランケンシュタイン/「マイヤベーアの主題による変奏曲」、R.シュトラウス/「英雄の生涯」 レニングラード
1929/01/05 チャイコフスキー/「ロミオとジュリエット」序曲、ピアノ協奏曲第1番(P:ハインリッヒ・ノイハウス)、交響曲第5番 レニングラード
1929/01/06 ベートーヴェン/交響曲第8番、シューベルト/イタリア風序曲 ニ長調、チャイコフスキー/交響曲第5番 レニングラード
1929/01/09 ベートーヴェン/「エグモント」序曲、「レオノーレ」序曲第3番、交響曲第9番 レニングラード
1929/01/11 ヨハン・シュトラウス2世/「こうもり」序曲、クス・ワルツ、「芸術家の生活」、「加速度」、「浮気心」、「ドナウの乙女」、「人生を楽しめ」、「ウィーンの森の物語」、「ジプシー男爵」序曲、「南国のバラ」、「酒、女、歌」 レニングラード
1929/01/12 ヨハン・シュトラウス2世/「”こうもり」序曲、クス・ワルツ、「芸術家の生活」、「加速度」、「浮気心」、「ドナウの乙女」、「春の声」(ロサリア・ゴルスカヤ)、「ウィーンの森の物語」、「ジプシー男爵」序曲、「南国のバラ」、「酒、女、歌」、「”美しく青きドナウ」 レニングラード
1929/01/13 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」序曲、「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死、「タンホイザー」序曲、ヨハン・シュトラウス2世/「こうもり」序曲、「人生を楽しめ」、「ウィーンの森の物語」、「美しく青きドナウ」、「酒、女、歌」 レニングラード
(サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団 ARCHIVES)
1929/01/20 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/01/21 ブラームス/ハイドン-変奏曲, マーラー/「さすらう若人の歌」, モーツァルト/交響曲第39番 ミュンヘン MAM
1929/01/24 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1929/01/28 ベートーヴェン/交響曲第9番 ミュンヘン MAM
(René Trémine’s DATA)
1月28日にオデオン・ザールでアカデミーコンサート、ベートーヴェン/交響曲第9番を演奏した。
ところが「ミュンヘン最新報」にそのクナッパーツブッシュによる第9批判が掲載された。
「壮大な力のせめぎ合い、迫りくる雷雨のようなものは感じられなかった。(第4楽章に対して)感性的魅力の領域から精神的高貴さへの領域へと高まるような演奏は聞かれなかった」(奥波本)。
コンサートそのものは成功したようで、その記事の中にも「最後は奏者ともども激しい拍手喝采を浴びていた」とある(「音楽と政治」。
この記事を書いたのは、オスカー・フォン・パンダー(1883/4/12-1968/2/2)という音楽家兼評論家だった。
パンダーには、1922年5月1日、フレデリック・ディーリアスの「レクイエム」がフランクフルトで演奏されたときに指揮をして好評を得たという記録が残っているし、「ゲーテ・カンタータ」、「バラライカとピアノのための組曲ホ短調」、「Symphonie des Frauenlebens(交響曲「女の一生」)」という作品も残っているらしい。著作家としては1955年に出版された「ミュンヘンのクレメンス・クラウス」の著者でもある(邦訳はまだない)。パンダーはユダヤ人ではなく、生粋のアーリア人としてナチに重宝がられ、第二次世界大戦中のバイロイト公演の演奏評もいろいろと書いたという記録が残っている。
パンダーはフルトヴェングラーとも知己があった。パンダーは音楽家であり、単なる無責任な新聞記者による批評ではないわけである。
パンダーは、「ミュンヘン最新報」でクナッパーツブッシュの提灯記事を書いていたエーラースの後任だった。エーラースはこの前に「ミュンヘン最新報」の前編集長ゲルリヒによってクビにされていた。
1月31日、パンダーの批判に対してクナッパーツブッシュは怒り、音楽アカデミーに退任の意志を伝える。ただ、クナッパーツブッシュのミュンヘン着任以降、アルフレート・アインシュタインの痛烈な批判記事にもあまり怒らなかったクナッパーツブッシュが、なぜパンダーの批判記事にそれほど怒ったのか、よく分からない面がある。
1929/02/01 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1929/02/02 [アカデミーを辞任]
1929/02/04 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)
2月4日、音楽アカデミーの特別総会で「これまでの指導者(フェーラー)、音楽総監督クナッパーツブッシュへの支持」が満場一致で決議された。これに対し、ミュンヘン音楽批評家連盟は抗議声明を出す。同日、クナッパーツブッシュはバイエルン州立歌劇(国民劇場)、「さまよえるオランダ人」を指揮している。
2月6日、クナッパーツブッシュは「ミュンヘン最新報」の代表パウル・ニコラウス・コスマン、バイエルン州立歌劇総支配人クレメンス・フォン・フランケンシュタインと3人で解決策を密談、善後策を講じた。
「ミュンヘン最新報」の代表コスマンは、何度も書いているようにプフィッツナー、ワルターの親友でもあった。コスマンはプフィッツナーの庇護者でもある。プフィッツナーは前に書いた通り極端な国粋主義者でゲルマン民族至上主義の人種主義者だった。恐らくドイツ化したコスマンには、プフィッツナーが好ましく映ったのだろう。ワルターも同じユダヤ人という視点ではなく、優れたドイツの音楽家としてコスマンは認識していたはずである。
どれくらいワルターとコスマンが親しかったのかは、「主題と変奏」でワルターが回想している。
「私の人生において精神的かつ友情的な関係を結ぶことになった、最も独特な人物のひとりは、パウル・ニーコラウス・コスマンである。彼は哲学者であり、音楽愛好家であり、学問的・文学的・音楽的な方向を持った高尚な姿勢の月刊雑誌『南独月報』の編集者であった。戦争が始まると、彼はまったく政治的に、それも民族主義的な意味で政治的になり、『南独月報』を去って、権威あるバイエルンの新聞『ミュンヘン最新報知』の経営に足をいれ、その指導的な地位についた。しかし彼の精神的存在の中心点は、いつも変わらずプフィッツナーの作品に対する愛情であった。そしてこの中心点のまわりに、闘争的な政治感情とか、しだいに深まるカトリックへの関係とか、溢れる慈善的な傾向とか、古典音楽に対する真の愛着といった、奇妙なほどさまざまな欲求ないしは衝動が、群れをなしているのであった。私たちは触れあう点がたくさんあったけれども、とりわけ私たちを結びつけたのはプフィッツナーの作品に対する愛情であった。私たちは喜んでたびたび会った。この価値溢れる独特な人間の本質が、完全に解ったことはついぞなかったけれども、私はいつも彼の思想家気質や道徳的純粋性やきわめて個性的なユーモアに、強い魅力を感じた」(「主題と変奏」)。
このクナッパーツブッシュの第9批判をめぐる騒動の発端は、バイエルン州立歌劇を離任後、ベルリンのふたつの歌劇場が統合されてできたベルリン市立歌劇場の音楽監督に就任していたワルターで、1929年に総支配人ハインツ・ティーティエンとの確執のために離任することになり、ミュンヘンへの返り咲きを狙った活動だったのではないか、という推測がある。コスマンはワルターの意向を受け、フルトヴェングラーとも面識のあったパンダーにクナッパーツブッシュ批判の記事を書かせたというものだ。
ただその後の展開を見ると、パンダーは誰かにそそのかされたのではなく、おそらくはパンダーの音楽家としての側面からの正直な批評だったのではないかと思える。
パンダーの記事を読むと、当時の演奏傾向の中で、第9の演奏が「壮大な力のせめぎ合い、迫りくる雷雨」を第一楽章や第二楽章で求め、第四楽章で「感性的魅力の領域から精神的高貴さへの領域へと高まるような演奏」を求められていたことはひじょうによく理解できる。最初は迫りくる嵐の中で苦悶し、最後は熱狂で終わるべきなのだ。その最大のお手本はフルトヴェングラーの演奏である。パンダーはフルトヴェングラーと面識があったが、そのようなフルトヴェングラーの演奏を至上とする心理が働いていたのかも知れない。ベートーヴェンを「苦悩から歓喜へ」を表現した作曲家であるというロマン的な見方をすれば、現在でもそうだが、フルトヴェングラー的な演奏の方が、聞き手にはひじょうに分かりやすい。
クナッパーツブッシュの第9観は明確で、「第四楽章は他の三つの楽章に比べてはなはだ劣っている」というものだった。クナッパーツブッシュはハンス・フォン・ビューローを引き合いに出し、第4楽章最後の合唱のプレスティッシモも気になるが、トルコ風マーチはビューローも「ベートーヴェン・ジャズ」と評し、第四楽章を演奏しなかったこともあるではないか、と「公表しないでくれ」という注文つきで1950年の手紙に書いている(奥波本)。
後年、クナッパーツブッシュによる第9の演奏映像(1943/4 ヒトラー生誕記念コンサート)が第4楽章終結部でほんの少し残されているが、熱狂とは少し異なり、クナッパーツブッシュの壮大ではあっても、むしろ淡々とした第9第代4楽章音の音楽作りを見ていると、パンダーの望む方向とクナッパーツブッシュの方向が違っていたことが分かる。
ワルターに関しては、「主題と変奏」や「ワルターの手紙」を読んでいるかぎりでは、当時のワルターにはそのようなクナッパーツブッシュ追い落としの陰謀を張りめぐらす余裕はなく、コスマンやミュンヘン音楽アカデミー教授にその年就任するプフィッツナーの「ワルターを呼び戻したい」という先回りした陰謀だったとも読めなくはない。もっとも、ワルターは市立歌劇場で立ちゆかなくなった自身の現状を、コスマンに訴えていたということは考えられるが。
むしろ、クナッパーツブッシュに「その記事に噛みつけ」と煽った背後があったと考えた方が、話が通じやすい。恐らく、音楽アカデミーの学院長であった親ナチのハウゼッガーや、ナチに近い理事、関係者がクナッパーツブッシュに火を点けたとも考えられる。「ミュンヘン最新報」はユダヤ主義の新聞ではなく、むしろ愛国主義的な新聞だったが、代表はユダヤ人である。そこまで考えてのクナッパーツブッシュへの煽りであるとすれば、かなり根深い反ユダヤ主義の策謀が感じられる。ミュンヘンで派手に反ユダヤ主義の火の手を上げたかった輩が多かったのは事実のようだ。もし煽られたのだとしたら、クナッパーツブッシュはナチに接近し、はからずもデッサウの二の舞を演じたことになる。
2月14日、音楽アカデミー会員集会で、「コンサートを訪れた聴衆の圧倒的多数の判断といつも違う批評」、「その形式や内容からして、芸術政策的な目的を追求しているとの疑いを抱かせる批評」を断固拒否するとの声明が発表される。これにはクナッパーツブッシュはもとより、音楽アカデミーの理事達も出席していなかった。
その集会で、ナチの古参党員であり、ヒトラーの信頼も厚く、「フェルキッシャー・ベオバハター」の主幹で、できたばかりのドイツ文化闘争同盟の代表者アルフレート・ローゼンベルクがクナッパーツブッシュ支持を表明、ドイツ文化の一般問題への取り組みを呼びかけた。文化闘争同盟は、1928年にできたまだ新しいナチの団体で、暴力的な支配というより、「文化を理解している団体」として音楽界にナチ的視点での批評の力を強めようとしていた。ヒトラーもローゼンベルクも、自称ドイツ音楽の理解者だった。
「ドイツ文化の一般問題への取り組み」とは、簡単に言ってしまえば、ドイツ文化からのユダヤ人の追放である。ローゼンベルクにとって、「ミュンヘン最新報」はドイツ愛国主義者とはいえ、憎むべきユダヤ人コスマンが代表を務める新聞であり、社会的に影響力もあり、排撃されるべきミュンヘンの代表的な新聞のひとつだった。
1928/2/7「ミュンヘン最新報」は音楽アカデミーの批評を差し控えると発表、クナッパーツブッシュは音楽アカデミー留任の意志を明らかにする。
1929/02/08 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1929/02/13 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/02/17 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/02/21 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
(René Trémine’s DATA)
1929/02/25 オデオン・ザールでアカデミーコンサート レーガー/ベックリンの絵画による4つの音詩、ドヴォルザーク/チェロ協奏曲、ベルリオーズ/「ローマの謝肉祭」序曲(ODEON MÜNCHEN Emblem Musikalische AkademieMusikalische Akademie e.V.による)
クナッパーツブッシュはこのコンサートの前に、自分を支持者してくれたひとたちに感謝のスピーチをする。このスピーチの内容は「フェルキッシャー・ベオバハター」に掲載された。
1929/02/28 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/03/04 ベートーヴェン/ミサ・ソレムニス ミュンヘン MAM
1929/03/06 モーツァルト :「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘン
1929/03/12 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1929/03/14 バイエルン州立歌劇場(国民劇場)ワインベルガー(ヤロミール・ヴァインベルゲル) 「バグパイプ吹きシュヴァンダ」ミュンヘン初演”(Knappertsbusch” by Rudolf Betz / Walter Panofskyによる)
(René Trémine’s DATA)
3月18日、音楽アカデミーの3人の理事と新聞各社代表が会談。パンダーの名誉回復については物別れに終わる。
1929/03/21 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン
1929/03/23 ワインベルガー/「バグパイプ吹きのシュワンダ」 ミュンヘン
1929/03/24 J.S.バッハ/マタイ受難曲 ミュンヘン MAM
1929/03/26 フンパーディンク/「王様の子供たち」 ミュンヘン
1929/03/30 ワーグナー「パルジファル」(“Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)による)
1929/03/31 ワインベルガー/「バグパイプ吹きのシュワンダ」 ミュンヘン
[31.03 No Saint Matthew Passion mentioned by Trémine]
1929/04/01 ワーグナー「パルジファル」(“Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)による)
1929/04/04 ウィーン演奏協会 ベートーヴェン/交響曲第7番, ファリャ/「スペインの夜の庭」(Harriet Cohen), R.シュトラウス/ティル・オイレンシューゲルの愉快ないたずら,ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲 Wiener Symphoniker Archives
1929/04/06 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/04/07 ワインベルガー/「バグパイプ吹きのシュワンダ」 ミュンヘン
1929/04/08 トッホ/幻想的夜曲, チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲, ヴォルフ/イタリア風セレナード, ベートーヴェン/交響曲第3番 ミュンヘン MAM
1929/04/17 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/04/18 モーツァルト :「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘン
1929/04/21 ワインベルガー/「バグパイプ吹きのシュワンダ」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)
1929/04/22 パンダーは音楽アカデミーの3人の理事に対し、名誉毀損で訴訟を起こす。いわゆる「批評家裁判」が始まる。この裁判は、クナッパーツブッシュの演奏に対する批評が元とはいえ、全く違った側面を持つことになった。クナッパーツブッシュは蚊帳の外に置かれ、「ミュンヘン最新報」の編集方針や「文化政策」が問題となる。
裁判の開廷にはまだ間があり、裁判が実際に行われたのは翌1930年だった。
1929/04/23 ワインベルガー/「バグパイプ吹きのシュワンダ」 ミュンヘン
1929/04/24 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/04/29 ワインベルガー/「バグパイプ吹きのシュワンダ」 ミュンヘン
1929/05/11 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA ワインベルガー/「バグパイプ吹きのシュワンダ」の代演
1929/05/12 ワーグナー/ローエングリン ミュンヘン
1929/05/12,13 ベートーヴェン/交響曲第7番, K. Prestele/詩編第129番 (世界初演) ミュンヘン MAM
1929/05/16 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1929/05/21 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/05/30,06/02,05,08 ワーグナー/「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
1929/06/09 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/06/14 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/06/15 ワインベルガー/「バグパイプ吹きのシュワンダ」 ミュンヘン
1929/06/16 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/06/20 ワインベルガー/「バグパイプ吹きのシュワンダ」 ミュンヘン
1929/06/24 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
ミュンヘン 夏のモーツァルト・ワーグナー祭
1929/07/23 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1929/07/24 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン(レジデンツ劇場)
1929/07/28 ワーグナー/「パルジファル」
1929/07/30 モーツァルト/「魔笛」 ミュンヘン(レジデンツ劇場)
1929/08/07 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン(レジデンツ劇場)
1929/08/08 ワーグナー/「ラインの黄金」
1929/08/10 ワーグナー/「ワルキューレ」
1929/08/12 ワーグナー/「ジークフリート」
1929/08/14 ワーグナー/「神々の黄昏」
1929/08/18 ワーグナー/「パルジファル」
1929/08/24 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン (レジデンツ劇場)
1929/08/25 ワーグナー/「パルジファル」
(René Trémine’s DATA)
(ワーグナーの演目は”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)による)
1929/08/29 ザルツブルク音楽祭デビュー モーツァルト/アイネ・クライネ・ナハトムジーク, ファリャ/「スペインの夜の庭(MagDATAgliaferro), フランケンシュタイン/舞踏組曲, ベートーヴェン/交響曲第3番 ウィーン・ フィルハーモニー管弦楽団
「夏のモーツァルト・ワーグナー祭」が開催されている期間中、8月29日にクナッパーツブッシュはザルツブルク音楽祭に初登場する。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して、モーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、ファリャ「スペインの庭の夜」、フランケンシュタイン「管弦楽のための舞踏組曲」、ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」というプログラムだった。
ウィーン・フィルの楽団長だったオットー・シュトラッサーは「栄光のウィーン・フィル」(芹澤ユリア訳 音楽之友社)という、ひじょうに優れた資料を残してくれているが、シュトラッサーはこの時のクナッパーツブッシュを覚えていた。
「1929年8月、私たちは初めて彼の指揮で演奏した。彼はどうしても必要な箇所だけを練習したが、それは専らミュンヘン歌劇場支配人フランケンシュタインの作品であった。しかし夕べには、人々を魅惑するコンサートで私たちを驚かしたのである。そのコンサートの主な曲目はベートーヴェンの『エロイカ』であった。彼は『君たちはこの作品を私と同様によく知っている』と言って、リハーサルでは、ほとんど通して弾かせなかった……」(「栄光のウィーン・フィル」)。
クナッパーツブッシュは即興を重要視する指揮者で、オーケストラがよく知っている楽曲の場合、リハーサルをあまりしなかった。フランケンシュタインの楽曲はオーケストラには馴染みがない。そのため練習をしたが、「エロイカ」では本番での緊張感とオーケストラとの即興こそがクナッパーツブッシュにとっては全てだった。そのオーケストラの力を引き出すクナッパーツブッシュに、シュトラッサーをはじめとするオーケストラのメンバーは驚いたのである。
ミュンヘン 夏のモーツァルト・ワーグナ祭
1929/08/31 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1929/09/15 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1929/09/21 ワインベルガー/「バグパイプ吹きのシュワンダ」 ミュンヘン
1929/09/22 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1929/09/23 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/09/26 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(“Münchner Theaterzettel 1807-1982″による)
(René Trémine’s DATA)
1929/10/01 ベルリンに向かい、ベルリン州立歌劇場管弦楽団とレコーディングを行った。
1929/10/03 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/10/06 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/10/08 フランケンシュタイン/「リー・タイ・ペー 皇帝詩人」 ミュンヘン
1929/10/12 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/10/20 ワインベルガー/「バグパイプ吹きのシュワンダ」 ミュンヘン
1929/10/21 シュターミッツ/シンフォニア ニ長調, J.S.バッハ/協奏曲 ニ短調 BWV 1052, ヘンデル/「メサイア」より「アリア」 , ベートーヴェン/交響曲第4番 ミュンヘン MAM
1929/10/25 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1929/11/01 ベルリオーズ/レクイエム(万聖節コンサート) ミュンヘン MAM
1929/11/08 ワインベルガー/「バグパイプ吹きのシュワンダ」 ミュンヘン
1929/11/11 ハイドン/交響曲第94番「驚愕」, ブラームス/ヴァイオリン協奏曲, 交響曲第2番 ミュンヘン MAM
1929/11/15 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1929/11/16 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
(René Trémine’s DATA)
1929/11/19 クナッパーツブッシュはもう一度ベルリン州立歌劇場管弦楽団とレコーディングを行っている。
ベートーヴェン交響曲第7番1929/11/23 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/11/25 バウスネルン/子供の時に過ごした国」(初演), マーラー/「なき子をしのぶ歌」, R.シュトラウス/英雄の生涯 ミュンヘン MAM
1929/11/26 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1929/11/28 モーツァルト :「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘン
1929/12/05 ウィーン演奏協会 シューベルト/イタリア風序曲,フランケンシュタイン/舞踏組曲, クルシュネク/小交響曲, シマノフスキ /ヴァイオリン協奏曲 (Hugo Gottesman), ブラームス/交響曲第2番 Wiener Symphoniker Archives
1929/12/09 オデオン・ザールでアカデミー・コンサート スクリャービン/「法悦の詩」(ミュンヘン初演)、リスト/ピアノ協奏曲第1番、チャイコフスキー/交響曲第4番(ODEON MÜNCHEN Emblem Musikalische Akademie Musikalische Akademie e.V.による)
1929/06,08,10,12/12 ワーグナー: 「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
1929/12/19 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1929/12/21 国民劇場でイギリスの作曲家兼指揮者アルバート・コーツのオペラ「サミュエル・ペピーズ」を初演した(“Hans Knappertsbusch – Zum 100. Geburtstag des Dirigenten” by Gabriele E. Meyer,”Knappertsbusch” by Rudolf Betz / Walter Panofskyによる)
(René Trémine’s DATA)
1月6日、ヒトラーは前任者エアハルト・ハイデンの後任としてハインリヒ・ヒムラーをSS国家長官(親衛隊全国指導者)に任命する。この時点では、親衛隊はまだ突撃隊の下部組織だった。
さらに1月9日、ヒトラーはグレゴール・シュトラッサーに替えて、ゲッベルスを党宣伝部長に任命する。徐々にナチ首脳部のそれぞれの役割が登場してくる。シュトラッサーは組織運営の方に廻された。
5月2日、ヴァイマル政府はドウズ案を発展させたヤング案受諾を決定する。ヤング案はドイツの賠償金を大幅に軽減したが、ドイツ国民にはあまり評判が良くなく「ヴェルサイユ(条約)の屈辱」を思い起こさせる結果になった。
ヒトラーはこの間も合法的にナチが政治の舞台に浸透する努力を重ね、コーブルク市の議会選挙で25席中13議席を獲得、同市議会の第1党になった。また、国家人民党党首フーゲンベルクとヒトラーは反ヤング案で共闘を組んだ。この時点では、ユンカーや大資本家の支持を得ているフーゲンベルクの方が力は強かった。「全記録」によると、フーゲンベルクはミュンヘンで反逆罪で実刑を受けたヒトラーとナチ党を軽蔑していたのだそうだ。ただ、産業界にとって、ヒトラーは政治的道具として使い物になると最初に考えた産業人はフーゲンベルクであったのかも知れない。ヒトラーにとっては、有力政党との連携ができたことになる。
またこの年の7月には、アメリカのロックフェラーやロイヤル・ダッチ・シェル社はドイツにおけるヒトラーの活動に共感、巨額の活動資金をナチに提供している。
10月24日、海外でも評判の高かったグスタフ・シュトレーゼマン外相が脳卒中で死去、ドイツ政界は徐々に右傾化の兆しを見せ始める。
10月は、ゲリとともにヒトラーに愛されたもうひとりの女性、エーファ・ブラウンとヒトラーがはじめてヒトラーのお抱え写真家ハインリヒ・ホフマンの事務所で出会った日だった。ホフマンはお抱え写真家と言うより、もともと写真館を経営し、かなりのやり手だった。ベルリン、ウィーン、フランクフルト、パリ、ハーグに出店し、常時100名の従業員を抱えていた(「全記録」)。写真館を経営する傍らヒトラーの支持者となり、ヒトラーの写真の独占発売権を持っていた。エーファはそのホフマンの事務所で働きはじめてすぐにヒトラーと出会った。ヒトラー40歳、エーファは17歳だった。ただ、すぐに恋愛に発展するということはなかったらしい。初期の頃は、なんとエーファの一方的な片想いだった。
10月24日、ニューヨーク株式市場大暴落、「暗黒の木曜日」と呼ばれ、世界大恐慌が始まる。弱小政党のナチ党が急激に勢力を拡大する転機となった。
12月、ヒトラーはミュンヘン市内で、狭いアパートから9室あるアパートに引っ越した。ヒトラーはゲリをそのアパートに住まわせ、歌や踊りを習わせた。ヒトラーの元の下宿の女主人とその母親まで一緒に住んだというのだから面白い。
12月末 ナチ党員176,426人。その中でSA(突撃隊)は10万人に膨れあがり、SAはライヒスヴェーアと同勢力になるまで成長した。
この当時、日本は関東大震災の影響がまだ色濃く残っており、日本で第一の都市は大阪だった。大阪は東京の人口を上回り、世界でも有数の都市だった。
この年に開店した大阪駅前の京阪神急行電鉄(阪急)のデパート(阪急百貨店)が、日本で初めてとなるターミナル型デパートだった。カレーライスが食堂でメニュー化されたのは、東京の風月堂や中村屋が先だったが、一般的なメニューとして大食堂で廉価で提供されたのは、この阪急百貨店が最初だった。カレーライスはそれまでごく限られた人しか知らないメニューだったが、阪急百貨店のカレーライスによって、一般に浸透してゆく。