1931年 ミュンヘン時代10 プフィッツナー「ヘルツ」を初演する

1931/01/01 ワーグナー/「ワルキューレ」 ミュンヘン
1931/01/10 R.シュトラウス/「サロメ」 オランダ デン・ハーグ新演出 Günther Lesnig’s DATA
1931/01/12 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1931/01/16 R.シュトラウス/「ヨゼフの伝説」「炎の災い」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1931/01/19 ベートーヴェン/ 交響曲第9番 ミュンヘン MAM
1931/01/26 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1931/01/29 モーツァルト:「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘン
1931/02/02 ジークフリート・ワーグナー/「平和の天使」前奏曲(ミュンヘン初演), レーガー/シンフォニエッタ op. 90, ブルックナー/交響曲第4番 ミュンヘン MAM
1931/02/08 J.シュトラウス II/「こうもり」 ミュンヘン
1931/02/09 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1931/02/18 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1931/02/20 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1931/02/22 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュンヘン
1931/02/26? R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘンGünther Lesnig’s DATA記載なし
1931/02/28 ワインベルガー/「美しき声」(初演)(”Knappertsbusch” by Rudolf Betz / Walter Panofskyによる)
1931/03/03 ワインベルガー/「美しき声」 ミュンヘン
1931/03/08 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1931/03/13 R.シュトラウス/「エジプトのヘレナ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1931/03/15 Jaromir ワインベルガー/「美しき声」 ミュンヘン
1931/03/16 ブラームス/セレナード op. 16, ブラームス/セレナード、ブラームス/ヴァイオリン、チェロのための二重協奏曲, 交響曲第4番 ミュンヘン MAM
1931/03/19 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1931/03/21,24,26,28 ワーグナー: 「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
1931/03/23 ワインベルガー/「美しき声」 ミュンヘン
1931/03/29 J.S.バッハ/マタイ受難曲 復活祭コンサート 放送も行われた ミュンヘン MAM
1931/03/30 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン
1931/04/04 ワーグナー/「パルジファル」(”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)による)
1931/04/06 ワーグナー/「パルジファル」(”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)による)
1931/04/07 R.リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1931/04/13 ハイドン/ 交響曲第100番, レーガー/ピアノ協奏曲, ベートーヴェン/交響曲第5番 ミュンヘン MAM
1931/04/17 R.シュトラウス: 「ヨゼフの伝説」、プッチーニ:「ジャンニ・スキッキ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA [Trémine doesn’t mention 「炎の災い」. He adds ellipsis (“…”) instead]
1931/04/21 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュンヘン
1931/05/02 ワインベルガー/「美しき声」 ミュンヘン
1931/05/09 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA Trémine DATAではワインベルガー/「美しき声」 ミュンヘンになっている。
[Trémineは約1ヶ月間のクナッパーツブッシュの活動記録を発見できていない]
1931/06/04 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1931/06/06 ワーグナー/パルジファル ミュンヘン
1931/06/12,14,16,20 ワーグナー: 「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)
1931/6/15,19 モーツァルト「イドメネオ」(ミュンヘン初演)(”Münchner Theaterzettel 1807-1982″、19日は”Knappertsbusch” by Rudolf Betz / Walter Panofskyによる)。

 6月15日と19日、クナッパーツブッシュには珍しいモーツァルト「イドメネオ」ミュンヘン初演を宮廷劇場(レジデンツ劇場)で指揮した。モーツァルトのオペラは初期のものは当時もそれほど演奏されていなかった。
 エリック・リーヴィー著「モーツァルトとナチス」(高橋宣也訳 白水社 2012/12/11)に、ニューヨークタイムスのパイザーの記事としてクナッパーツブッシュの「イドメネオ」のことが載っている。この「イドメネオ」はヴォルフ=フェラーリによるドイツ語の改訂版で、リヒャルト・シュトラウス版とともに話題になった。しかし、パイザーの批判は厳しく、特にクナッパーツブッシュについては「その手は鉛のようで、想像を絶するほど粗雑で退屈」とかなり手厳しい。合唱やオーケストラのバランスも悪く、まるで6ヶ月間、チューニングしなかったような荒っぽさだったとも書かれている。

1931/06/21 ワーグナー/「ワルキューレ」 ミュンヘン
1931/06/23 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1931/06/24 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン

クナッパーツブッシュは、R.シュトラウスと共にチューリッヒ近郊バーデンで休暇を過ごす。

ミュンヘン 夏のモーツァルト・ワーグナー祭
1931/07/18 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1931/07/20 ワーグナー/「ラインの黄金」
1931/07/21 ワーグナー/「ワルキューレ」
1931/07/22 モーツァルト :「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘン(レジデンツ劇場)1931/07/23 ワーグナー/「ジークフリート」
1931/07/24 モーツァルト/「イドメネオ」(レジデンツ劇場)
1931/07/25 ワーグナー/「神々の黄昏」
1931/07/27 ワーグナー/「パルジファル」
1931/07/28 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン(レジデンツ劇場)
1931/08/01 モーツァルト/「魔笛」 ミュンヘン(レジデンツ劇場)
1931/08/03 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」
1931/08/05 ワーグナー/「パルジファル」
1931/08/07 ワーグナー/「ラインの黄金」
1931/08/08 ワーグナー/「ワルキューレ」
1931/08/10 ワーグナー/「ジークフリート」
1931/08/12 ワーグナー/「神々の黄昏」
1931/08/13 モーツァルト/「イドメネオ」 ミュンヘン(レジデンツ劇場)
1931/08/17 ワーグナー/「パルジファル」
1931/08/18 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン(レジデンツ劇場)
1931/08/19 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

[Trémineは約3週間のクナッパーツブッシュの活動記録を発見していない]
1931/09/10 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1931/09/16 モーツァルト/「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘン
1931/09/20 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1931/09/27 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1931/09/29 R.シュトラウス/「ヨゼフの伝説」「炎の災い」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
[Trémineは約10日間のクナッパーツブッシュの活動記録を発見していない]
1931/10/11 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1931/10/15 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1931/10/16 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1931/10/17 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1931/10/19 ブラームス/悲劇的序曲, セレナード op.11 , 交響曲第1番 ミュンヘン MAM
1931/10/27 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1931/11/01 モーツァルト/レクイエム 万聖節コンサート ミュンヘン MAM
1931/11/08 ワーグナー/「ローエングリン」 ミュンヘン
1931/11/11 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
(René Trémine’s DATA)

1931/11/12、バイエルン州立歌劇(国民劇場)でプフィッツナー/「ヘルツ 心(心臓)」を初演。ベルリンと同時初演だった。ベルリンでの指揮はフルトヴェングラーだった。[“Hans Knappertsbusch – Zum 100. Geburtstag des Dirigenten” by Gabriele E. Meyer,”Knappertsbusch” by Rudolf Betz / Walter Panofskyによる]

【「ヘルツ」のエピソード】
 1931年11月12日、プフィッツナーはオペラ「ヘルツ」のミュンヘン初演をクナッパーツブッシュに委ねた。「パレストリーナ」の大成功で、プフィッツナーの作品は大きな期待をもって待たれていた。「ヘルツ」はベルリンと同時初演で、ベルリン州立歌劇場での指揮者はフルトヴェングラーだった。プフィッツナーはクナッパーツブッシュの方のミュンヘンで練習から初演まで立ち会う。
 練習の時、客席に陣取ったプフィッツナーはたびたび練習を止め、あれこれ注文を出した。あまりにも頻繁に練習を止めたものだから、さすがのクナッパーツブッシュも怒った。「ハンス!(クナッパーツブッシュとプフィッツナーは同じ「ハンス」である)、このオペラの題名は間違っていますね!」
「え?どうしてだ?」
「『腸』にすべきでしたね、中にずいぶんたくさんのクソも詰まっているようですから」
 プフィッツナーは度肝を抜かれたが、クナッパーツブッシュのいつもの口の悪い冗談だと思ったのか何事もなく練習は終わり、ミュンヘン初演は成功した。
 もっとも、作品に関しては、ベルリンでもミュンヘンでもプフィッツナーの作風があまりにも保守的で、「パレストリーナ」ほど楽曲への熱狂的な賛辞は起こらなかった。クナッパーツブッシュにも、その後「ヘルツ」を指揮したと言う記録は、それほど多く残っていない。
 プフィッツナーの弟子であるクレンペラーはピーター・ヘイワーズとの「対話」の中で、「非常に出来の悪い作品」とにべもなく語っている。
 逆にフルトヴェングラーは「ヘルツ」をいたく気に入ったのか、翌1932年3月5日まで、10回も振るという気の入りようだった。ただし、その後の記録には見えないが。

【この当時までのハンス・プフィッツナー(1869/5/5-1949/5/22)】
 プフィッツナーはリヒャルト・シュトラウスに次ぐ当時の作曲家として人気が高かった。シェーンベルクの始めた新ウィーン学派とは異なるドイツ・オーストリアの作曲家の流れでは本流ともいえる。
 プフィッツナーは、クレンペラー、ワルター、フルトヴェングラーとも密接な関係があり、1931年当時、ミュンヘン音楽アカデミーの教授としてミュンヘンに住んでおり、クナッパーツブッシュとも大きな関係を持つようになっていた。
 プフィッツナーに関しては、日本ではあまり知られているとはいえないので、少し詳細に追ってみた。日本語で読める文献もそれほど多くはないし、プフィッツナーの作品自体、日本では現在までにそれほど数多くリリースされていないという事情にもよる。その代表作ともいえる「パレストリーナ」でさえ、新しい録音にはなかなか恵まれていない。
 プフィッツナーは、1869年5月5日、モスクワで生まれた。モスクワで生まれたといってもロシア人ではなく、生粋のドイツ人である。父親はモスクワで活動していたドイツ人音楽家で、母親はナポレオン戦争の頃にロシアに定住したドイツ人の両親の家に生まれた。
 プフィッツナーが3歳の頃、家族はドイツに帰国する。プフィッツナーは両親に音楽を教わり、フランクフルト・アム・マインの音楽院に入学し、作曲家を志した。作曲家として活動する傍ら、音楽の教師として、ベルリンやシュトラスブルク、ミュンヘンで教職にも就いている。オットー・クレンペラーをマーラーの弟子のように書いてある文章をよく見かけるが、クレンペラーは、プフィッツナーがベルリンのシュテルン音楽院で教えていた頃からの弟子である。
 ところが、クレンペラーはプフィッツナーをあまり好んでいなかったようだ。実は、プフィッツナーは極端なドイツ国粋主義者で、ユダヤ人の友人が多かったにもかかわらず人種主義者だった。クレンペラーは、本人はそれほど強く意識はしていなかったが、ユダヤ人である。
 プフィッツナーの国粋主義者としての論客ぶりはナチよりも徹底していたといえる。人種主義者としては、以前にも書いたが、ワルターとプフィッツナーは日露戦争のときの日本人のことが話題にのぼり、プフィッツナーが日本人のことを「黄色いサル」、「日本には鞭打ちの刑」があると言ったことから、日本人を擁護するワルターと仲違いしている。もっとも、仲違いは1年間くらいで、その後はまた仲良くなっているが。(「ブルーノ・ワルターの手紙」)。
 ユダヤ人クレンペラーが極端な国粋主義者で人種主義者のプフィッツナーの弟子という立場より、後年のひとびとは同じユダヤ人マーラーの弟子と呼びたがったとしても不思議ではない。もっとも、クレンペラーは自分がユダヤ人であるということを意識せず、ナチから迫害を受け、初めてユダヤ人としての自分自身を自覚したという面はあるが。
 クレンペラーがプフィッツナーの弟子であったと自覚している話がある。ヒトラーが政権を取り、ユダヤ人の立場がますます悪くなったときのベルリン・フィル支配人ウォルフガング・シュトレーゼマンの回想である。
「わたしが1933年1月に、彼とフィルハーモニーで出会い、今後どうするのかとたずねたとき、かれはほとんどぶっきらぼうに、そっけなくこう答えた。『わたしはカトリック教徒で、プフィッツナーの弟子だ!』それでわたしは彼に、あなたは『第三帝国』では『好マシカラザル人物』と見なされていますよ、と言うと、明らかにびっくりした表情になって顔をそむけた」(「指揮台の神々」)。
原文の訳:「いったいクレンペラーは、このユダヤ人狩りをどれだけ深刻に受け止めていたのか、またナチの政権獲得後、自分の地位が危険去られているとすぐに察知したのかどうか、そのへんのところはどうもあやしいようだ。私が彼に1933年初頭、フィルハーモニー・ホールで会ったとき--ブルーノ・ワルターはすでにドイツを去っていたので--彼はどうするつもりなのかとたずねたところ、ほとんどつっけんどんなくらいに「私はカトリック教徒だし、プフィッツナーの弟子なんだよ!」と答え、「御母堂によろしく」といい残すとくるりと背を向けてしまった。私が彼のことを第三帝国にとっての”好ましからざる人物(ペルソナ・ノン・グラータ)だと決めてかかっていることを憤慨するとまではいかなくても、あきらかに不思議がっている様子だった。彼はたぶん、根っから政治には疎い人だったのだろう。」(ヴォルフガング・シュトレーゼマン著・香川檀訳「栄光の軌跡 ベルリン・フィルハーモニー」音楽之友社 1984/10/1)
 さらにプフィッツナーの性格がある。プフィッツナーは若い頃から直情的で、しかも神経質で狷介な性格だった。そのため、就職先である歌劇場や音楽院でたびたび問題を起こしたり、神経衰弱に陥り入退院を繰り返した。
 プフィッツナーはフルトヴェングラーとも馴染みが深い。プフィッツナーが1909年から音楽監督をしていたシュトラスブルク市立歌劇場に、フルトヴェングラーが第三指揮者として迎えられた時のことである。フルトヴェングラーは1910年から1911年まで、プフィッツナーの部下だった。一緒に歩くプフィッツナーとフルトヴェングラーは親子のような関係だったという。ところがフルトヴェングラーは女性によくもてる。非嫡出子13名と言われるほど、フルトヴェングラーは女性に対して魔力を秘めた誘惑ができた。ところが、プフィッツナーは女性にもてない。プフィッツナーは女性にもてるフルトヴェングラーに対して、大いに憤慨したそうだ(「フルトヴェングラー 悪魔の楽匠」)。
 ワルターは1900年にベルリンで「哀れなハインリヒ」を指揮したとき以来、親友になったプフィッツナーをシュトラスブルクに訪ね(「ブルーノ・ワルターの手紙」には、ワルターがプフィッツナーに出した親密感溢れた手紙が多数紹介されている。プフィッツナーの狷介な性格に、ワルターはだいぶ手こずっているようにも見えるが、ワルターのプフィッツナーに対する心情は細やかである)、そのときフルトヴェングラーを知った。ワルターはフルトヴェングラーの才能を認め、フルトヴェングラーにさまざまな助言を行う。
 プフィッツナーは1914年、構想中のオペラ「パレストリーナ」を本格的に書くために一年間休養したいと思い、その間の市立歌劇場の指揮を任せようと弟子クレンペラーをシュトラスブルクに呼び寄せた。まだ若いクレンペラーはバルメンやさまざまな歌劇場で成功していたが、生来の躁鬱病のためか、就任したケルンでの重責とドイツを襲ったインフレに段々と耐えられなくなり(クレンペラーには養うべき家族が多かった)、プフィッツナーの誘いを受け、シュトラスブルクに行き、プフィッツナーの代理を務めた。
 ところがシュトラスブルクで、指揮者クレンペラーはプフィッツナーよりも人気を博してしまう。そこから、プフィッツナーとクレンペラーの師弟は不幸な軋轢関係へと進んでしまう。
 1915年、プフィッツナーは「パレストリーナ」を完成、市立歌劇場に復帰する。ところがその狷介な性格が災いして、プフィッツナーは市立歌劇場を追われてしまう。その解任劇には、本人は強固に否定しているが、クレンペラーが介在していると噂された。クレンペラーは師匠プフィッツナーを、優れた音楽家だとは認めているが、指揮者としてはあまり評価していなかった(ピーター・ヘイワーズ「クレンペラーとの対話」白水社 1976)。
 折から、ドイツはフランスと戦争中で、第一次世界大戦の国民的熱気はプフィッツナーにも伝染した。プフィッツナーは兵役につこうとも考えたらしいが、当局から拒否された。食糧事情の悪化するドイツ国内で、プフィッツナーは妻と鉄道での仕事をしていたという資料もあるが(「ドイツ音楽の一断面」)、詳細はよく分からない。
 また、プフィッツナーはリヒャルト・シュトラウスに敵愾心とも呼べるライヴァル意識を燃やした。1900年、リヒャルト・シュトラウスとプフィッツナーの作曲家として同じ駆け出し時代、お互いの作品を持ち寄ったコンサートが企画された。
 ところが、大方はリヒャルト・シュトラウスの作品の方が好評で、その時からプフィッツナーはリヒャルト・シュトラウスに対抗心を持つようになる。さらに、リヒャルト・シュトラウスのオペラは次々とヒットするのに、プフィッツナーのオペラは不遇だった。
 そのプフィッツナーのオペラの作品に、「哀れなハインリヒ」や「愛の園のバラ」があるが、最大のヒット作は第一次世界大戦中に完成された「パレストリーナ」である。「パレストリーナ」はミュンヘンで1917年にワルターによって初演され、大成功をおさめた。「パレストリーナ」初演は、ワルターのバイエルン州立歌劇場音楽監督在任中の最も大きなハイライトだったと言われている。
 プフィッツナーは第一次世界大戦が終わるまでシュトラスブルクに住んでいたが、ドイツの敗戦によってシュトラスブルクはフランス領になってしまった。シュトラスブルクはストラスブールとフランス読みに変わり、そこに住めなくなった。プフィッツナーはシュトラスブルクを引き払った後、ミュンヘンで一時期「ミュンヘン最新報」のコスマンの庇護を受けた。プフィッツナーが職を得ようと、クナッパーツブッシュとデッサウの音楽監督の地位を争ったのはその頃のことだ。
 リヒャルト・シュトラウスと同じで、ワルターがミュンヘンを去っても、プフィッツナーのオペラはミュンヘンで継続して上演される。歌劇場とは密に接しなければならない。プフィッツナーは人種主義者にも関わらず親ワルターだったが、クナッパーツブッシュとの交際も始まった。なにより、プフィッツナーは第一次大戦後、ミュンヘンに住居を構え、一時期ベルリンのプロイセン音楽アカデミーに就任するために単身赴任するものの、ミュンヘン音楽アカデミー教授として、1929年からはミュンヘンに住んでいた。その間、1926年4月26日に駆け落ちまでして一緒になった最愛の妻ミミを失っている。
 クナッパーツブッシュとプフィッツナーは仲が良かったという説と、クナッパーツブッシュやバイエルン州立歌劇場支配人フランケンシュタインはプフィッツナーに手こずっていたという説の両方がある。
「(バイエルン)州立歌劇での指揮活動に関しては、フランケンシュタインとクナッパーツブッシュが、プフィッツナーが1929年から客演するようになってからというもの『資金面のみならず、特に芸術面で不都合な問題が山積みになった』と訴えた」マイケル・H・ケイター「第三帝国と音楽家たち」アルファ・ベータ)
 プフィッツナーはその性格から、歌劇場のスタッフに溶け込もうとはせず、過大な要求を歌劇場にし続けていたらしい。クナッパーツブッシュは「ヘルツ」の初演を行ったが、その他のオペラに関しては、それほど多く指揮したという記録が見えない。
 プフィッツナーは、自分の最も信頼する指揮者ワルターに頼んでも「ヘルツ」を舞台に乗せてもらえず、クナッパーツブッシュにもそれほど多くは自分のオペラを指揮してもらえなかった。

1931/11/15 プフィッツナー/「ヘルツ」 ミュンヘン
1931/11/16 ベートーヴェン/交響曲第1番 , モーツァルト/ピアノ協奏曲第23番 (Jascha Spiwakowski) , ベートーヴェン /交響曲第4番 ミュンヘン MAM
1931/11/20 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1931/11/21 プフィッツナー/「ヘルツ」 ミュンヘン
1931/11/26 ブルックナー: 交響曲第8番 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 トーンハレ
[Trémineはこのコンサートについて疑問を持っていた]
1931/11/27 R.シュトラウス/「ヨゼフの伝説」「炎の災い」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1931/11/28 プフィッツナー/「ヘルツ」 ミュンヘン
1931/11/29 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1931/11/30 ベートーヴェン/交響曲第2番 , ビゼー/「子供の遊び」組曲(ミュンヘン初演), チャイコフスキー/交響曲第5番 ミュンヘン MAM
1931/12/06 プフィッツナー/「ヘルツ」 ミュンヘン
1931/12/09 ヨーゼフ・ハース/「神聖なエリーザベト」放送用録音 ミュンヘン
1931/12/11,13,15,20 ワーグナー/「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
1931/12/14 コーネリウス/「シッド」序曲, モーツァルト 交響曲第三3番 , ベートーヴェン 交響曲第3番 ミュンヘン MAM
1931/12/26 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1931/12/29 ヨハン・シュトラウスII・コンサート ミュンヘン MAM [doubtful]
1931/12/31 ガルミッシュのR.シュトラウス邸で過ごす
(René Trémine’s DATA)

 1月5日、一時ナチを離れてボリビアにいたエルンスト・レームがヒトラーによって呼び戻され、SA(突撃隊)の最高幕僚長に任命される。大恐慌下、職とどこかの組織への帰属意識からか、突撃隊は人気があり、その構成人数が膨れあがり、突撃隊を統率する時間と指揮官としての仕事に忙殺されることを嫌ったヒトラーは、レームという優れた統率者を必要とした。
 ただ、レームの突撃隊最高幕僚長への就任は、新たな突撃隊員への意識の高揚をもたらし、暴力による共産主義者、ユダヤ人排斥を強めてゆく結果になった。レームはヒトラーに任命されたとはいえ、まだ突撃隊を準国軍にしたいという考えを捨てていなかったようだ。そのことが、正式な軍隊であるライヒスヴェーア(ヴァイマル共和国軍)との軋轢を生んだ。
 また、レームは同性愛者(本人は両刀使いだと言っていたが)としての独特の雰囲気を突撃隊にも持ち込み、翌年の選挙戦の時、対立陣営やマスコミから問題視された。
 突撃隊の対共産主義者、対ユダヤ人への暴力的な活動に業を煮やしたブリューニング首相は、3月28日「政治的過激運動撲滅のための命令」を発令し、ナチを押さえ込もうとした。ヒトラーは合法的な活動を続けるため、党員にその大統領令の厳守を命じている。
 ところが、騒動と新たな革命騒ぎを欲するベルリンの突撃隊員は大いに不満で、そのヒトラーの命令への反抗として「シュティンネス・プッチ」が起こる。黒幕はベルリンで騒動を起こし、ナチの宣伝力を高めたかったゲッベルスだったと言われている。レームが最高幕僚長に就任したことへの対抗意識があったのかも知れない。ヒトラーはシュティンネス・プッチに加わった党員の除名を命令、ゲッベルスは何食わぬ顔で党員を片端から除名していった(全記録)。
 「政治的過激運動撲滅のための命令」が出ても、共産党によるデモや暴動が頻発し、突撃隊との騒擾が各地で繰り広げられた。双方の犠牲者も多く、「内戦状態」になっていたと言う言葉もある。
 7月13日、相次ぐ大企業、銀行の破綻でドイツ金融恐慌が勃発する。地方によっては食糧暴動も起こった。ドイツに第一次世界大戦の賠償金支払を猶予する外国の方針が取られたが、焼け石に水だった。
 9月23日 ベルリン、ハンブルクの株式取引所は無期休業を決定する。
 この間、9月17日、ヒトラーの最愛の女性であった姪のゲリ・ラウバルがピストル自殺を遂げた。ハンブルク地方選挙で応援演説に向かう途中、ヒトラーはゲリの死を知らされた。
 ヒトラーは姪の自由を束縛したが、ゲリは自由に恋愛したいということを望んだらしい。ゲリは婚約まで考えた相手が何人もいたが、ことごとくヒトラーに別れさせられていた。ヒトラーはヒトラーで政治活動に忙しかったが、ミュンヘンでエーファ・ブラウンをオペラに招待している。ゲリが自殺を決心した背景には、そのエーファのヒトラーへのお礼の手紙を偶然読んだことがきっかけだったとトーランド本には紹介されている。女心は複雑である。
 ヒトラーの悲しみは大きかったが、激動する政治情勢はすぐにヒトラーを現実に向かわせた。
 10月10日には、ヒトラーはヒンデンブルク大統領と初めて会見するまでにその勢力を伸ばしていた。ただ、ヒンデンブルクのヒトラーに対する評価は低く「郵政大臣あたりがいいところだ。首相の器ではない」と評していたという。
 12月8日、政府が第4次にわたる「経済および財政確保のための大統領令」を出すほど、ドイツ経済は逼迫していた。失業者は570万人にまで膨れあがり、ナチは人気を集めた。この年の12月には党員数を806,294人にまで伸ばしている。

 昭和6年の日本、9月18日に中国東北部で関東軍による南満州鉄道の線路を爆破した柳条湖事件が発生する。いわゆる満州事変の発端となった。関東軍は表向き、張学良軍の仕業であると発表した。
 一方、日本国内では10月には錦旗革命事件と呼ばれる軍事クーデターが発覚、立案者は処分されている。軍隊内部に政府に対する不満が鬱積していることのひとつの現れだった。

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