1932年 ミュンヘン時代11 ナチ政権誕生前夜

1932/01/01 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」ミュンヘン
1932/01/03 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1932/01/05 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1932/01/11 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュンヘン
1932/01/14 ウィーン演奏協会 ワインベルガー/美しき声 序曲, ハイドン/交響曲第95番, ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第4番 (Friedrich Wührer) R.シュトラウス/「英雄の生涯」 Wiener Symphoniker Archives
1932/01/25 ワーグナー/「タンホイザー」ヴェヌスベルクの音楽,シューマン/ピアノ協奏曲, ベートーヴェン/交響曲第7番 ミュンヘン MAM
1932/02/01 ベートーヴェン: 交響曲第9番 ミュンヘン MAM
1932/02/18 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA R.シュトラウス週間
1932/02/21 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA R.シュトラウス週間
1932/02/22 ベートーヴェン /交響曲第8番 , ヘンデル/コンチェルト・グロッソ第4番, ベートーヴェン/交響曲第6番「田園」 ミュンヘン MAM
1932/02/26 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1932/02/29 プフィッツナー/「ヘルツ」 ミュンヘン [Trémineは日付の後に疑問符を付けている]
1932/03/07 ハイドン/交響曲第95番, チェロ協奏曲op.101, ベートーヴェン/交響曲第5番 ミュンヘン MAM
1932/03/12 エルバーフェルトに客演 モーツァルト/アイネ・クライネ・ナハトムジーク, ヴァイオリン協奏曲 ニ長調(Julian Gumpert), チャイコフスキー/交響曲第5番 ヴッパータール市立管弦楽団 慈善公演(バルメンとエルバーフェルトは1929年に合併、1930年よりヴッパータール市となった) クナッパーツブッシュは44歳になった。
1932/03/20 J.S.バッハ/マタイ受難曲 復活祭コンサート 同時放送も行われた ミュンヘン
1932/03/26 ワーグナー/「パルジファル」 ミュンヘン プリンツレゲント劇場
1932/03/27 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1932/03/28 ワーグナー/「パルジファル」 ミュンヘン プリンツレゲント劇場
1932/04/03 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1932/04/12 フンパーディンク/「王様の子供たち」 ミュンヘン
1932/04/23 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1932/04/24 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1932/04/30 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1932/05/08 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1932/05/10 プフィッツナー/「ヘルツ」 ミュンヘン
1932/05/15 ヴェルディ/「アイーダ」 , 放送も同時に行われた ミュンヘン
1932/05/16 ワーグナー/「ジークフリート」 ミュンヘン
1932/05/17 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1932/05/29 ワーグナー/「ラインの黄金」 ミュンヘン
1932/06/05 ワーグナー/「ワルキューレ」 ミュンヘン
1932/06/09 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1932/06/12 ワーグナー/「ジークフリート」 ミュンヘン
1932/06/18 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1932/06/19 ワーグナー/「神々の黄昏」 ミュンヘン
1932/06/20 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン

ミュンヘン 夏のモーツァルト・ワーグナー祭
1932/07/18 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1932/07/20 ワーグナー/「ラインの黄金」
1932/07/22 ワーグナー/「ワルキューレ」
1932/07/24 ワーグナー/「ジークフリート」
1932/07/26 ワーグナー/「神々の黄昏」
1932/07/27 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘン(レジデンツ劇場)
1932/07/30 ワーグナー/「パルジファル」
1932/07/31 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ミュンヘン(レジデンツ劇場)
1932/08/03 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」
1932/08/06 ワーグナー/「パルジファル」
1932/08/07 モーツァルト :「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘン(レジデンツ劇場)
1932/08/08 ワーグナー/「ラインの黄金」
1932/08/10 ワーグナー/「ワルキューレ」
1932/08/12 ワーグナー/「ジークフリート」
1932/08/13 モーツァルト/「魔笛」 ミュンヘン (レジデンツ劇場)
1932/08/14 ワーグナー/「神々の黄昏」同時放送も行われた
1932/08/20 ワーグナー/「パルジファル」
1932/08/21 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

1932/09/07 モーツァルト/「魔笛」 ミュンヘン
1932/09/14 モーツァルト/後宮からの誘拐 ミュンヘン
1932/09/18 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1932/09/21 R.シュトラウス/「インテルメッツォ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1932/09/25 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1932/09/27,10/02,06,09 ワーグナー: 「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
1932/10/08 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1932/10/14 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1932/10/17 ハイドン/交響曲第88番, ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲, シューベルト/交響曲第6番 ミュンヘン MAM
1932/10/23 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1932/10/26 ジークムント・フォン・ハウゼッガー/交響詩「鍛冶屋ウィーランド」、「自然交響曲」
(René Trémine’s DATA)

 ハウゼッガーは、それまでフェルディナント・レーヴェの校訂による初版しか知られていなかったブルックナー/交響曲第9番を、1932年に原典版(オーレル版)で初めて指揮したことで有名である。さらに1938年には同曲の商業用録音も行っている。この演奏によって、レーヴェはもとより、他の交響曲を校訂して初版を出版したシャルク兄弟も悪者にされた。オーレル版はロベルト・ハースの第一次ブルックナー交響曲全集に繋がってゆく。第9番のオーレル版では、レーヴェ初版とかなり異なっていたからである。
 ただ、当時一般性を獲得しにくかったブルックナーの交響曲を、何とか演奏できるレベルまで持って行こうとしたレーヴェやシャルクの功績も認めなければならない。ブルックナーを聞く上では、本来ハース版か第二次全集であるノヴァク版かという議論より先に、レーヴェやシャルクの仕事を聞くべきなのである。そこから、ハース版やノヴァク版の差分を聞き取っていかないと、本当の意味でのブルックナー理解には繋がらない。できれば一番最後に世に出たさまざまな交響曲の第一稿も聞いて、初めてブルックナーの全体像が分かるようなところがあるが。
 ロベルト・ハースはかなりの親ナチだった。そのナチへの迎合ぶりはそうとうなもので、ノヴァク版ブルックナー/交響曲第8番スコアの前書きによると、ハースは自分の校訂版にナチ礼讃の文章を書いていたとある。
 ハウゼッガーもまた、かなりの親ナチだった。最近、ハウゼッガーの「自然交響曲」が録音されたことで(cpo)人気が復活しつつあるが、実はクナッパーツブッシュが1932年にハウゼッガーの作品を指揮をする前、ハウゼッガーの作品は「ワーグナーの亜流で頭でっかち」という理由で、一部では既に過去の作品とみなされていた(1922年、アドルフ・ワイスマン(Adolf Weissmann)の批評。名前からするとユダヤ人か?)。
 また、ハウゼッガーは翌1933年に起こる「トーマス・マン抗議声明事件」で重要な役割を担うことになる。ハウゼッガーはナチの熱狂的な信奉者だったからである。ナチとの関係が深かったため、第二次世界大戦後、長い間ハウゼッガーの業績は顧みられことがなかった。
 ハウゼッガーは、同じくナチの信奉者であったロベルト・ハースの校訂によるブルックナー/交響曲第4番、第5番の初演者でもある(ハース版初演は第5番が先だった)。
 クナッパーツブッシュはハース版などの原典版を一切指揮しなかったが、翌年「トーマス・マン抗議声明事件」でハウゼッガーの口車に乗せられて事件を引き起こしたことへの恨みがあったのかも知れない。その時のハースやハウゼッガーへの遺恨が尾を引き、「ナチ野郎の版なんか使用できるか」という、クナッパーツブッシュ独特の頑なな版の選び方につながったのかも知れない。ただこれはクナッパーツブッシュの言葉が残っていない以上、憶測である。
もっとも、この1931年頃は、クナッパーツブッシュ自身もナチにすり寄っていた時代ではあるのだが…。実際にはそれよりも、ウィーン音楽界の重鎮で、ブルックナーの弟子でもあったシャルク兄弟やレーヴェを尊敬し、そのスコアを大切にしていたと考える方が自然である。

1932/11/01 ヘルマン・ゲッツ/歌劇「じゃじゃ馬馴らし」序曲, クレメンス・フォン・フランケンシュタイン/セレナード, R.シュトラウス/バレエ組曲「ホイップクリーム」, 「ティル・オイレンシューゲルの愉快ないたずら」 ミュンヘン MAM [11/17にもコンサートが行われた可能性がある。18日にバレエ組曲「ホイップクリーム」の成功をR.シュトラウスにあてた手紙が残っているという記録がある]
1932/11/24 ルードヴィッヒスブルクに客演 モーツァルト/アイネ・クライネ・ナハトムジーク, クレメンス・フォン・フランケンシュタイン/舞踏組曲, J.シュトラウス II/皇帝円舞曲, 「こうもり」序曲, チャイコフスキー/交響曲第5番 放送も行われた ミュンヘン・フィル?
1932/11/26 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1932/11/28 モーツァルト/「アダージョとフーガ」KV 546,協奏交響曲KV 297b, 交響曲第40番 ミュンヘン MAM
1932/12/04 ワーグナー/「リエンツィ」 ミュンヘン
1932/12/08,11,13,18 ワーグナー/「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
1932/12/12 ブルックナー/交響曲第8番 ミュンヘン MAM
1932/12/15 ワーグナー/「リエンツィ」 ミュンヘン
1932/12/26 ワーグナー/「リエンツィ」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)

 1月27日、ヒトラーはドイツ鉄工業の中心地、デュッセルドルフの工業クラブの有力者を対象に、パーク・ホテルでボリシェヴィズムの恐怖を説く演説を行う。最初はよそよそしかった有力者たちはしだいにヒトラーの演説に引き込まれていった。富裕層の私有財産を保全し、共産主義を打倒するというヒトラーの演説は大成功し、大工業資本家たちから莫大な資金がナチに流れる契機となった。富裕層に共産主義の台頭は大きな危惧の念を持たれていた。ドイツ鉄鋼業界の大物たちは、ナチも私有財産を認めない共産主義を極右に衣替えした一派だと考えていたが、このヒトラーの演説によって流れは大きく変わる。
 折から、大統領選挙が近づいていた。ヒトラーは「自分は大統領の器ではない。首相になりたい」と側近に語り、大統領選挙への出馬を躊躇していたが、2月22日、ゲッベルスに説得され、ベルリンでナチ党員に対し、大統領選挙への出馬を表明する。ヒンデンブルク大統領はすでに極右政党、共産主義政党の台頭を認めないという立場から、再出馬を決意している。
 2月25日、この日までヒトラーは信じがたいことに無国籍者で、国会議員にはなれなかったが、ナチが浸透していたニーダーザクセン州のブラウンシュヴァイクで、ブラウンシュヴァイク工科大学の社会学と政治学の講義とセミナーを行うということで参事官となり、自動的にドイツ国籍を取得することとなった(「ヒトラー全記録」より)。そのことによってヒトラーは正式にドイツ国籍を取得、選挙権と被選挙権を得る。2月27日、ヒトラーは大統領選挙への出馬を正式に発表する。
 3月13日、大統領選挙。どの候補も過半数を獲得できず、法律に基づいて再選挙となる。再選挙に向けて、ヒトラーは飛行機を使用した選挙戦で、猛烈な遊説を行う。
 4月10日 大統領再選挙。ヒンデンブルクが大統領に再選されるも、ヒトラーは得票率36.8%を獲得、その人気の上昇振りは凄まじいものがあった。ヒンデンブルクもヒトラーを無視できなくなってゆく。
 ただ、大統領選挙の直後、ブリューニング内閣によって4月13日に「屋外での集会、行列の禁止」、「SA(ナチ突撃隊)、SS(ナチ親衛隊)禁止の緊急指令」が大統領令として出される。ナチと共産党に対する処置だった。
 4月24日、大統領選挙に続いて、ドイツ各邦の地方議員選挙で、ナチはバイエルン州を除いて第一党になる。バイエルンではバイエルン人民党が第一党だった。ミュンヘンはナチ揺籃の地であるにも関わらず、バイエルン分離主義が根強く残っていることの結果だった。
 5月30日、ブリューニング首相は土地の活用問題でヒンデンブルクやユンカー(大地主層)の反発を食らい退陣、ヒンデンブルク大統領はクルト・フォン・シュライヒャー国防相の推薦でフランツ・フォン・パーペンを首相に指名し、6月1日に就任する。
 6月16日、パーペン内閣はヒトラーの圧力に屈し、大統領緊急令で、SA、SS禁止令を解除する。パーペンにはヒトラーを懐柔して自分の陣営に引き入れ、内閣の基盤を確保したかったが、ことはそう、うまく行かなかった。
 中央で禁止令が解かれても、ナチのお膝元であるバイエルンとバーデンでは引き続き、ナチ党員の制服着用を禁止した。このことが元で、各地で混乱が起こった。その最大の事件が7月17日、ハンブルクの港町アルトナで起こったナチ対共産党の本格的な市街戦だった(「アルトナの血の日曜日)。
 パーペンはナチを味方に引き入れ、政権を安定したものにしようとしたが、ヒトラーは自らの政権担当にこだわり物別れに終わる。7月14日、パーペンは国会を解散、総選挙が行われることになる。
 7月15日から総選挙のため、ヒトラーは飛行機を使った選挙戦術で、超人的な遊説を行う。
 7月27日、ヒトラーはベルリンで12万人を集めて演説。
 7月30日、国会議員選挙。ナチは608の議席に対し230の議席を確保、第一党にのし上がる。
 8月13日 ヒンデンブルク大統領はヒトラーに対しパーペン内閣の副首相として入閣を要請するが、ヒトラーは議会第一党の党首であることを盾に首相就任にこだわり、首班指名を要求する。ヒンデンブルクはヒトラーの要求を拒否する。
 8月30日 国会議長選挙で、ナチ・ナンバー2であるヘルマン・ゲーリングが議長に当選する。徐々にヒンデンブルクとパーペンは外堀を埋められつつあった。
 9月12日 ナチと共産党から圧力をかけられたパーペン首相は国会を解散する。ヒトラーは再び空の人となり、遊説を行う。
 11月2日から ベルリンの交通労働者のストを皮切りに、ナチと共産党の不思議な共闘関係が築かれ、ヒトラーは困惑する。
 11月6日 解散に基づく国会総選挙が行われる。
 ところが、ナチは第一党は確保したものの34の議席数を減らし、得票数も33.1%に後退した。多くの知識人の中には「これでナチは終わった」と思った者も少なくなかった。ワルターもそのひとりだった(主題と変奏)。逆に、選挙戦でナチと共闘した共産党が躍進、89の議席を100に増やす。このことが、ヴァイマル政府や産業人を大きく刺激した。
 11月17日、パーペンは再度ヒトラーに副首相に就くよう要請するが拒絶され、この日、総辞職する。
 11月18日から24日 ヒンデンブルク大統領からヒトラーに、パーペンと協力体制を採るか、ナチが国会で多数派を占めればヒトラー内閣もあり得ると示唆される。ヒトラーは第一党ではあっても国会で多数派になるのは無理と考え、大統領の首班指名にこだわるがヒンデンブルクから再び拒否される。
 12月3日 ヒンデンブルク大統領の首班指名を受け、クルト・フォン・シュライヒャー国防相(陸軍大将)が首相となり組閣。ヴァイマル共和政最後の内閣となった。
 シュライヒャーはナチの分裂を謀り、北部ドイツでナチの実力者であったグレゴール・シュトラッサーを副首相兼プロイセン首相として入閣を要請する。シュトラッサーはその気になったが、ヒトラーを始めナチ内で猛烈な反対に遭い、イタリアに逃れる。ドイツに帰国したシュトラッサーは後にゲシュタポに逮捕され、SA粛正(「長いナイフの夜」)の時に、銃殺される。
12月の統計によると、ナチ党員1,415,000人。失業者は600万人に達していた。

 昭和7年の日本、1月28日に 第一次上海事変が勃発する。背景に関東軍による中国東北部支配があり、関東軍は傀儡国家の建設を急いでいた。その目前に、国際的な注目を中国東北部から逸らさせる必要があり、仕組まれた戦闘行為だった。
 関東軍による中国東北部-満州国建国は3月1日に行われている。世界大恐慌下で、満州は日本の生命線と言われた。
 5月15日、ロンドン海軍軍縮会議に不満を持つ海軍将校たちによって犬養毅首相が暗殺される。五・一五事件と呼ばれる。

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