1933年のヒトラー政権誕生の年、さまざまな音楽家が怒濤のような状況に追い込まれた。
まずユダヤ人音楽家の表舞台からの追放である。4月7日の官吏法の成立は情け容赦なくユダヤ人を公職から追放していった。
ユダヤ人の有名な指揮者としてはオットー・クレンペラー、ブルーノ・ワルターがドイツでは活動できなくなった。他のユダヤ人指揮者は引き続きドイツ国内に残って細々と活動を続けているので、クレンペラーとワルターは「大指揮者」という器のため、追放に近い亡命をせざるを得なかったといえる。
クレンペラーはクロル・オペラを率いて、その同時代音楽の取りあげ方、斬新な演出方法でナチから嫌われていたし、ワルターは市立歌劇場離任後、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者に迎えられていたのが目障りだった。クロル・オペラは既に閉鎖されていたが、ワルターの代打で指揮をしたのはリヒャルト・シュトラウスだった。
クレンペラーはアメリカへ、ワルターはオーストリアに仕事場を求めた。ベルリン音楽アカデミーの作曲科教授アーノルト・シェーンベルクも、5月7日にアカデミーを追放され、まずフランスに亡命、アメリカに渡った。
しばらくドイツに残ったユダヤ人指揮者として、ゲーリングの庇護を受けたレオ・ブレッヒ、そしてヨーゼフ・ローゼンシュトック(後にナチの迫害を逃れて来日、新交響楽団の指揮者となりNHK交響楽団の基礎を作った)、ウィルヘルム・シュタインベルク(アメリカに亡命した後、ウィリアム・スタインバーグと呼ばれた)がいるが、結局ドイツを離れ、亡命を余儀なくされた。ウクライナ出身のヤッシャ・ホーレンシュタインも職を解かれ、亡命している。
シュタインベルクやローゼンシュトックは、ユダヤ人が自分たちの職と芸術を守るためにナチの許可の元結成したドイツ・ユダヤ人文化同盟のオーケストラに参加しているが、ドイツ・ユダヤ人文化同盟は、ユダヤ人迫害を海外のジャーナリストの目から逸らすためにナチに利用された。ただ、文化同盟の活動は、風圧の強まるドイツ国内のユダヤ人にとって、一縷の望みとはなった。
4月11日 ゲッベルスとフルトヴェングラーの往復書簡が、「ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥング」紙に掲載される。フルトヴェングラーのユダヤ人音楽家の保護願いに対して、ドイツにはユダヤ人音楽家は不要であるというゲッベルスの宣伝に使われた。
1933/04/20 クナッパーツブッシュはバイエルン州立歌劇(国民劇場)でヒトラー生誕記念公演の「ローエングリン」を指揮する(“Münchner Theaterzettel 1807-1982″による)。
この日はヒトラーの誕生日である。この頃から、バイエルン州立歌劇やコンサートは、非常に政治色の強いヒトラー礼讃の行事、公演が多くなって行く。また全国の公立学校などでは、ヒトラーの誕生日を祝うことが正規行事となった。
1933/04/21 ベルリン交響楽団とレコーディング。
グリンカ「ルスランとリュドミラ序曲」
モーツァルト「ドイツ舞曲」K.600
リスト交響詩「マゼッパ」
ヨハン・シュトラウス2世「わが家で」
ヨハン・シュトラウス2世「クス・ワルツ」
1933/04/23 バイエルン州立歌劇(国民劇場)、「ニュルンベルクのマースタージンガー」
ワーグナー没後50年記念公演だった。ナチの実力者が揃って観劇した(奥波本による)。
1933/04/30 ニュルンベルクで「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を指揮したという記録があるそうである。これもまた、ナチ政権奪取の記念公演だったのか?(Reply from Stadtarchiv Nuernberg.from Mr.Zepos)
1933/05/21 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1933/05/23 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1933/05/26? R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA記載なし
1933/05/28 ワーグナー/「ジークフリート」 ミュンヘン
1933/06/05 ワーグナー/「神々の黄昏」 ミュンヘン
1933/06/07 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)
6月9日 トスカニーニはファシズムの国では指揮をしないことを理由に、予定されていたバイロイトへの出演を拒否する。代役はワルター離任のライプツィヒの時と同じく、リヒャルト・シュトラウスだった。トスカニーニは、1930年と1931年にバイロイトに参加(1932年は開催されていない)、バイロイトの名物公演になりつつあった。
1933/06/19 モーツァルト :「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘン
1933/06/20 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1933/06/21 ブラームス/悲劇的序曲, ベートーヴェン/交響曲第3番 ミュンヘン リレー形式で各州で放送された。
(René Trémine’s DATA)
7月1日 リヒャルト・シュトラウスとクナッパーツブッシュの関係が疎遠になる元となった「アラベラ」が、ザクセン州立歌劇(ドレスデン)においてクレメンス・クラウスの指揮で初演される。
【アラベラをめぐって】
仲の良かったはずのクナッパーツブッシュとリヒャルト・シュトラウスだったが、オペラの初演権を巡って、1933年を境に徐々に疎遠になって行く。1933年の「アラベラ」初演をめぐる一件は、クナッパーツブッシュのケルン音楽院時代からの友人、フリッツ・ブッシュが絡んでいた。
フリッツ・ブッシュは1890年3月13日、ヴェストファーレンのジーゲンに生まれた。ジーゲンはヴッパータールの東南に位置し、クナッパーツブッシュとはほぼ同郷と言ってもいい。ブッシュはクナッパーツブッシュよりも2歳若い。ケルン音楽院のシュタインバッハからクナッパーツブッシュとともに「無能だ。音楽をやめるべきだ」と言われながらも、ブッシュは才能があり早熟で、シュタインバッハの言葉とはうらはらに優秀な指揮者になった。指揮者としての出世は、クナッパーツブッシュよりも、むしろブッシュの方が早かった。
ブッシュはケルン音楽院を修了したすぐ後の1909年に、リガのドイツ劇場の指揮者に雇われた。アーヘンの音楽監督を経験した後、1918年にはシュトゥットガルト市立劇場の音楽監督、1922年からはドレスデンのザクセン州立歌劇場(ドレスデン国立歌劇場。通称ゼンパー・オパー。ゼンパーは建築家の名前)音楽監督に就いていた。1933年当時もザクセン州立歌劇場の音楽監督で、プロイセンで権力をふるっていたヘルマン・ゲーリングのお気に入り指揮者でもあった。
リヒャルト・シュトラウスのオペラの初演権を巡る争奪戦は過熱する一方だった。1932年に完成した『アラベラ』は、1933年7月1日に、ドレスデンでブッシュが初演をする予定だった。
ところが、「アラベラ」初演の4ヶ月前、1933年3月7日、ブッシュが「リゴレット」(「フルトヴェングラー 悪魔の楽匠」の訳注に、ブッシュの「ある音楽家の生涯における大事件」の記載として紹介されている。山田由美子著「第三帝国のR.シュトラウスでは「トロヴァトーレ」で、出典はケネディ「リヒャルト・シュトラウス」となっている)を指揮しているときに、ナチのデモ隊が歌劇場に乱入、騒ぎを引き起こした。ブッシュは指揮を降りざるを得なかった。ブッシュはユダヤ人ではない。しかし、ブッシュによると、ナチへの寄付金を断ったりナチに入党しなかったため、ナチ党員の副指揮者が扇動したもののようである。副指揮者はブッシュの退場を正装して待ち受けていた。
ブッシュは後に、歌劇場で働くユダヤ人たちを擁護したと語っているが、そのような姿勢もブッシュ排斥の要因になったのかも知れない。ブッシュはナチのような「反ユダヤ人主義者」ではなかった。さらにブッシュは仕事に厳格で歌劇場のスタッフに嫌われていたことや、客演を多くこなしていたため、ドレスデンを留守にしがちなブッシュに対する反発もあったようだ。
さらに、ブッシュの弟で優秀なヴァイオリニスト、アドルフ・ブッシュの妻がユダヤ人だった。アドルフはナチへの嫌悪感を露わにした。鉄道の列車食堂でフリッツとアドルフのブッシュ兄弟は非礼なナチ高官と一悶着起こしている。
優れた指揮者ではあっても公演が途中でストップするような騒ぎが起こり、ブッシュは降板せざるを得なかった。3月12日、歌劇場管理者を中心としたメンバーがブッシュ排斥の決議書を提出している。
「我々はブッシュ氏を、音楽的にも人間的にもドレスデン州立歌劇場で働く資格がないとみなすものである。同氏が復帰すれば崩壊を招き、歌劇場の芸術活動を重大な危機に陥れるであろう」(「フルトヴェングラー 悪魔の楽匠)。
ブッシュはドレスデンにはいられなくなった。同情したゲーリングに呼ばれ、ドイツに残るよう慰留されている。ゲーリングはベルリン州立歌劇場音楽監督(通称リンデン・オパー)の座を、フルトヴェングラーとの契約を無視してまでブッシュに与えようとさえした。このとき、フルトヴェングラーはいきなりゲーリングから新しく制定された「プロイセン枢密院顧問官」の称号を授けられている。ブッシュにベルリン州立歌劇場のポストを明け渡す変わりに、契約の残っているフルトヴェングラーには名誉称号を与え、その退任を懐柔しようというゲーリングの腹だった。
ところが、フルトヴェングラーの契約は破棄できず、ブッシュは強固にドイツ国内にいることを拒否したため、「プロイセン枢密院顧問官」の称号だけがフルトヴェングラーに与えられることになった。二人の指揮者が自分の思い通りにならず、ゲーリングは困惑した。フルトヴェングラーは新しいその称号のことを知らず、「何のことだか分からなかった」と語っている(リース本)。自分が州立歌劇場を追い出される可能性があったことを何も知らないフルトヴェングラーは、ブッシュをベルリン・フィルへ誘ったりもした。
しかし、結局ブッシュはドレスデンを辞任、ナチの組織したオペラ引っ越し公演で、アルゼンチン、ブエノスアイレスのテアトロ・コロンに出演、その翌年にはデンマークやスウェーデンで活躍をしながら、イギリスのグライドボーンで音楽監督に就任している。グライドボーンは反ナチの牙城になった(クルト・リース著「フルトヴェングラー 音楽と政治」八木浩、芦津丈夫・訳 みすず書房、「フルトヴェングラー 悪魔の楽匠」)。
ドレスデンを辞したブッシュは、自分が初演をできなくなった以上、「アラベラ」はミュンヘンでクナッパーツブッシュが指揮すべきものだと考え、その旨をリヒャルト・シュトラウスに進言したとクナッパーツブッシュに連絡した。クナッパーツブッシュはてっきり、「アラベラ」の初演が自分のところに回ってくるものと考えていた。リヒャルト・シュトラウスのオペラを初演できることは、自分にとっても歌劇場にとっても大きなイベントである。
ところが、1933年7月1日、「アラベラ」はドレスデンでリヒャルト・シュトラウスの愛弟子クレメンス・クラウスによって初演されてしまう。おそらく歌劇場との契約が生きていたからだろうし、愛弟子クレメンス・クラウスのためでもあった。怒ったクナッパーツブッシュは「今後、距離を置きたい」と、リヒャルト・シュトラウスに手紙を送った(奥波本)。クナッパーツブッシュがミュンヘンで「アラベラ」を演奏したのは、遅れて11月23日だった。後年、クナッパーツブッシュはもう一度、リヒャルト・シュトラウスのオペラの初演を巡り、対立する。
1933/07/23 モーツァルト/「魔笛」 ミュンヘン
ミュンヘン 夏のモーツァルト・ワーグナー祭
1933/07/26 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」
1933/07/28 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1933/07/30 ワーグナー/「ラインの黄金」
1933/08/01 ワーグナー/「ワルキューレ」
1933/08/02 モーツァルト :「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘン(レジデンツ劇場)
1933/08/03 ワーグナー/「ジークフリート」
1933/08/05 ワーグナー/「神々の黄昏」
1933/08/07 ワーグナー/「パルジファル」
1933/08/12 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ミュンヘンレジデンツ劇場)
1933/08/16 モーツァルト :「コシ・ファン・トゥッテ」 ミュンヘンレジデンツ劇場)
1933/08/20 ワーグナー/「ラインの黄金」
1933/08/22 ワーグナー/「ワルキューレ」
1933/08/24 ワーグナー/「ジークフリート」
1933/08/26 ワーグナー/「神々の黄昏」
1933/08/28 ワーグナー/「パルジファル」
1933/08/31 ワーグナー/「パルジファル」 ミュンヘン PRT [Trémineは31日の日付に疑問符を付けている]
1933/09/08 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1933/09/19 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1933/09/22 フンパーディンク/「王様の子供たち」 ミュンヘン
1933/09/23 ツェラー/「小鳥売り」 ミュンヘン
1933/09/25 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュンヘン
1933/09/27 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1933/10/03 ケーニヒスベルクで、J.シュトラウス・コンサート、Abend with Elisabeth Feuge and Julius Patzak,オストマルク放送局 Heilsberg送信機によって放送された
1933/10/05 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1933/10/10 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1933/10/15 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1933/10/21 ツェラー/「小鳥売り」 ミュンヘン
1933/10/22 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1933/10/23ブルックナー/序曲ト短調,交響曲第4番 スケルツォ(原典版初演), 交響曲第4番 放送あり ミュンヘン MAM
1933/10/27,29,11/02,05 ワーグナー: 「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
1933/11/01 ヴェルディ/レクイエム ミュンヘン MAM
1933/11/09 ワーグナー/ローエングリン ミュンヘン
1933/11/12 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1933/11/13 モーツァルト/13管楽器のためのセレナード, Aria(?), 交響曲第41番 ミュンヘン MAM
1933/11/19 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1933/11/23 問題のリヒャルト・シュトラウス「アラベラ」ミュンヘン初演 Günther Lesnig’s DATA
1933/11/26 R.シュトラウス/「アラベラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1933/11/27 フリードリヒ・クローゼ/人生は夢, R.シュトラウス/「ツァラトゥストラはかく語りき」 ミュンヘン MAM
1933/12/01 ドレスデンに客演 ブラームス/交響曲第4番, ベートーヴェン/交響曲第3番 シュターツカペレ・ドレスデン
1933/12/03 R.シュトラウス/「アラベラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1933/12/05 ミュンヘン フィルハーモニー管弦楽団 ワーグナー/「タンホイザー」 序曲, シューマン/ピアノ協奏曲 (allegro aafetuoso only) (Emmy Braun), R.シュトラウスの二つの歌曲とフーゴー・ヴォルフの二つの歌曲(Hans Hermann Nissen), ベートーヴェン/交響曲第3番。
SS親衛隊を率い、バイエルン警察長官ヒムラーが臨席、ヒムラー、ブラウン、クナッパーツブッシュは仲良く写真に収まった。ヒムラーはスピーチを行った(奥波本)。
1933/12/06 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1933/12/08 ワーグナー/「ラインの黄金」 ミュンヘン
1933/12/11 ヘンデル/コンチェルト・グロッソ 第16番(?) ,ハイドン/交響曲, ベートーヴェン/交響曲第1番 ミュンヘン MAM
1933/12/15 ケーニヒスベルクに客演 ケーニヒスベルク歌劇場管弦楽団 ブラームス/交響曲第3番, R.シュトラウス/ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら, モーツァルト/アリア (Julius Patzak), アイネ・クライネ・ナハトムジーク 放送あり
1933/12/17 ワーグナー/「神々の黄昏」 ミュンヘン
1933/12/22 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1933/12/25 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1933/12/29 R.シュトラウス/「アラベラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
(René Trémine’s DATA)
12月28日 ゲッベルスがローゼンベルクの文化闘争同盟に対抗して作った国家組織、帝国音楽院が活動を開始する。初代総裁にリヒャルト・シュトラウス、副総裁にフルトヴェングラーが指名され、就任した。
本来なら、帝国音楽院総裁はフルトヴェングラーの師でもあり、ナチへの協力姿勢が鮮明だったマックス・フォン・シリングスが就くはずだった。シリングスはプロイセン音楽院総裁を務めていた。しかし、シリングスはこの年の7月24日に急死してしまっていた。
4月26日、プロイセン首相ゲーリングは、プロイセン政治警察を改組、国家秘密警察(通称「ゲシュタポ」)が誕生する。後にヒムラーが「ゲシュタポ」を掌握するが、この頃はゲーリングが支配するプロイセンの組織だった。
5月1日、ナチは入党希望者の入党を停止する。日和見入党が相次ぎ、この時期党員は150万人以上で、なお100万人以上の入党希望者が待機していた。ナチに入党していなくては公職に就けないし、また大企業で働くためにはナチ党員の方が有利だった。
5月10日、ゲッベルスによる「非ドイツ的な書籍の焚書」が行われる。何が好ましい書籍なのか、官製による操作が行われることになった。当時のニュース映像を見ていると、夜に巨大な焚き火が行われ、その神秘的な光景の中で嬉々として書物を焚き火に放り込む大学生の姿が印象的である。どこか、勉強から解放される開放感のようなものが漂っているのだ。ゲッベルスの焚書はベルリンで行われたが、各地方でも焚書は行われた。言論の弾圧と言うより、ナチ思想以外の思想、生き方そのものの弾圧だった。
6月17日、ヒトラー、バルドゥーア・フォン・シーラッハを「全ドイツ青少年指導者」に任命する。それまで存在したさまざまな青少年政治組織の団体が「ヒトラー・ユーゲント」へ吸収合併される本格的な動きだった。子供達はナチの教育の元、ナチとしての思想教育、軍事教育を受けることになった。
6月19日、オーストリア首相ドルフスはナチを禁止し、オーストリア国内のナチを弾圧する。ドルフスもオーストリア・ファシズムを実践する独裁者だが、ナチを嫌っていた。ドルフスは同じファシストであるイタリアのムッソリーニと仲が良かった。
6月27日、ドイツ国家人民党のフーゲンベルクは経済・食糧大臣として入閣していたが、ヒトラーの圧力で辞任する。ナチの友好党であったドイツ国家人民党はほぼ解散状態になる。7月5日にはドイツ国内の残っていた他の政党もヒトラーの威嚇に合い、すべて消滅する。ドイツ国内での一党独裁が確立した。これにより、7月6日にヒトラーは「ドイツ革命完了」を宣言した。
8月20日 ベルリンの第10回放送展で「国民受信機(ラジオ)」が初めて展示される。以後、ナチは安価で国民に新しいメディアであるラジオを提供、ラジオはドイツ国民の間に急速に広まってゆく。
このことはひじょうに重要で、それまで主に公共施設や人の集まる場所、富裕層に普及していたラジオが各家庭に入り込むことによって、ナチはふたつのことを同時に行った。音楽やお喋り番組を各家庭に浸透させ、娯楽を与えることによって各個人の政治的な意見を封殺することと、ナチの政令や命令を素早く的確にラジオによって全ドイツ人に知らしめることができるようになるからである。マスメディアによる世論操作が大々的に行われることになった。
9月22日、ゲッベルスを総裁として「帝国文化院」が創設される。帝国音楽院、オペラを含めて統括する帝国劇場院はその下部組織である。ゲッベルスは帝国文化院の創設によって、完全にライヴァルであるローゼンベルクを出し抜いた。公示は11月15日。施行は12月28日である。
10月14日、ヒトラーは「国際連盟」と「ジュネーヴ軍縮会議」からの脱退をラジオで演説する。ドイツ再軍備への道が開かれた。また、国会を解散し、ナチ政策への信任投票を行うと発表する。11月12日に投票は行われ、ナチは95%の信任を得た。ナチの政策が信任されれば、議会制民主主義は完全に破壊されることになる。官製によって操作されたかもしれない投票結果とはいえ、いかに当時のドイツ国民がヒトラーとナチに賛意をもっているのかの証明だった。
11月27日 ロベルト・ライ指揮下の「ドイツ労働戦線」の下部組織として、イタリア・ファシスト党のドーポラボーロ(全国余暇事業団)をモデルに「歓喜力行団」(KdF)が設立され、「柔らかなファシズム」と呼ばれた。安価な海外旅行が有名だが、コンサートなども実施、多くの指揮者や演奏家、オーケストラも歓喜力行団の催しに参加することになった。
12月 ドイツの失業者、400万人に減少。SAはレームの活動により、300万人とその規模を膨張させていた。ナチ党への入党者は150万人で募集を停止していた。
昭和8年の日本。1月に関東軍が中国東北部山海関を占領、北京への通路を確保している。
3月27日、満州国建国と中国進出を外国から批判された日本は、国際連盟を脱退する。孤立化の進む日本は、同じように孤立化の進むドイツ、イタリアと接近を始めるきっかけとなった。ドイツは10月14日に国際連盟脱退宣言を出したが、国際連盟脱退では日本の方が先輩だった。
関東軍は4月に華北省に進出を開始する。ただ、関東軍の華北省進出は政府により長城線までの撤退を命令された。中国国民党との和平工作が進んでいたためである。蒋介石は対共産党掃討作戦を控えており、それ以上の日本との戦闘行為を望まなかった。
日本国内でも政府の共産党弾圧は激しさを増しており、この年の2月20日、「蟹工船」の小林多喜二は共産党再建の画策を疑われ、特高警察に逮捕されて拷問の上虐殺された。
4月、小学校1年生の国定教科書に「サクラ読本」が登場する。毎日新聞社版昭和大全集によると「『サイタサイタサクラガサイタ』で始まり、『ススメススメヘイタイススメ』『ヒノマルノハタバンザイバンザイ』がつづく。忠君愛国が強調され、国民学校が発足する前年の昭和15年まで使用された」とある。
日本とドイツとの関係では、後の日独防共協定や軍事同盟から、日本や日本人はドイツに認められていたと思われがちだが、全くそうではなかったことが10月4日の出来事から分かる。ドイツに留学していた左翼ジャーナリスト、勝本清一郎のドイツ人女性との結婚話である。
勝本とドイツ人女性(ドーラ・シンドラ)は恋愛の末結婚しようとしたが、ドイツ当局から「ドイツ人の血を守れ」、「外国人と結婚してはならぬ」と脅され、迫害された。ドーラの日本帰化も画策されたが、どうしても許可は降りなかった。在ドイツ日本人が日本帰化運動に協力、ようやくドーラの日本帰化の許可が降りる(「昭和史全記録」毎日新聞社より)。
ドイツでは、黄色人種との結婚はユダヤ人との結婚よりも迫害されていたと「昭和史全記録」にはある。日本人は黄色人種である。ドイツ人にとって、日本人、中国人、朝鮮人の区別はなかった。ドイツが日本を認めざるをえなくなるのは、その政治的・軍事的な協力関係が出来上がってからである。
この年の9月21日、宮沢賢治は38歳という若さで喀血し、亡くなった。