1934年 ミュンヘン時代14 クナッパーツブッシュに圧力がかかりはじめる

1934/01/01 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)

 1934年、1月11日から2月5日にかけて、クナッパーツブッシュはスペイン、バルセロナに客演している(Huntによる)。かなりハードなスケジュールだった。歌劇場では「トリスタンとイゾルデ」、「タンホイザー」、「パルジファル」を指揮、2月5日の最終日はオーケストラの演奏会で、ベートーヴェン/交響曲第3番「エロイカ」や、ワーグナーの管弦楽曲集が演奏された。

1934/01/11,14,20 バルセロナ ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」バルセロナ・リセウ大劇場
1934/01/24,28,30 バルセロナ ワーグナー/「タンホイザー」バルセロナ・リセウ大劇場
1934/01/27.2/01,03,04 バルセロナ ワーグナー/パルジファル」バルセロナ・リセウ大劇場
1934/02/05 バルセロナ ベートーヴェン/交響曲第3番, モーツァルト/セレナータ・ノットゥルナ , ワーグナー/「タンホイザー」序曲.「さまよえるオランダ人」序曲,「神々の黄昏」より「ジークフリートのラインへの旅」, 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲
(René Trémine’s DATA)

 この頃か前年の冬頃から、既にクナッパーツブッシュはトーマス・マンに対して自分が書いた「リヒャルト・ワーグナー都市ミュンヘンの抗議」を後悔し始めている。クナッパーツブッシュは純粋にマンのワーグナー論に噛みついたつもりで、ナチやハウゼッガーの目論見が成功してしまったことに不快感を持っていたのだろう。前項で2月2日の「トーマス・マン日記」を紹介した通りである。

1934/02/14 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 ミュンヘン
1934/02/15 レーガー/モーツァルト-変奏曲, ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第3番, 交響曲第7番 ミュンヘン MAM
1934/02/16 R.シュトラウス/「アラベラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1934/02/22 ワーグナー/「ラインの黄金」 ミュンヘン
1934/02/25 ワーグナー/「ワルキューレ」 ミュンヘン
1934/02/26 ブラームス/ハイドン-変奏曲, ヴァイオリン協奏曲, 交響曲第4番 ミュンヘン MAM
(René Trémine’s DATA)

 
3月3日、バイエルン州立歌劇(国民劇場)でプッチーニのオペラ「西部の娘」ミュンヘン初演を行う。クナッパーツブッシュの演奏記録を見ると、イタリア・オペラではヴェルディよりもプッチーニをたびたび指揮していたようである。

1934/03/03 プッチーニ/「西部の娘」 ミュンヘン(ミュンヘン初演)[“Hans Knappertsbusch – Zum 100. Geburtstag des Dirigenten” by Gabriele E. Meyer,”Knappertsbusch” by Rudolf Betz / Walter Panofskyによる]
1934/03/05 ライプツィヒに客演 ブラームス/交響曲第3番, ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」 前奏曲, 「神々の黄昏」 「ジークフリート」’s ラインへの旅, 「タンホイザー」 序曲 ライプツィヒ・ ゲヴァントハウス管弦楽団 (Messe-Konzert)
1934/03/11 ワーグナー/「神々の黄昏」 ミュンヘン
1934/03/12 R.シュトラウス/ドン・ファン, 町人貴族, 家庭交響曲 ミュンヘン MAM
1934/03/13 プッチーニ/「西部の娘」 ミュンヘン
1934/03/18 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
(René Trémine’s DATA)

3月31日と4月2日に「パルジファル」を指揮する。「マタイ受難曲」に関しては、この頃からナチの風当たりが強くなっていた。「マタイ受難曲」の出典がユダヤ系テキストであるという難癖を元に、ドイツ国内では徐々に演奏がしづらくなっていた。実際、1933年に、フルトヴェングラーはケーニヒスベルクで「マタイ受難曲」の演奏禁止を食らい、ゲッベルスに抗議している(リース本)。

1934/03/31 ワーグナー/「パルジファル」(プリンツレゲント劇場)[“Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)]
1934/04/01 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1934/04/02 ワーグナー/「パルジファル」(プリンツレゲント劇場)[“Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)]
1934/04/05 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1934/04/08 プッチーニ/「西部の娘」 ミュンヘン
1934/04/16 R.シュトラウス/「アラベラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1934/04/22 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1934/04/23 ベートーヴェン/交響曲第9番 ミュンヘン MAM
1934/04/24 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュンヘン
1934/04/27,30,05/04 プッチーニ/「西部の娘」 ミュンヘン
1934/04/28 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
1934/05/12 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」 ミュンヘン
1934/05/22 プッチーニ/「西部の娘」 ミュンヘン
1934/05/31 ワーグナー/「ラインの黄金」 ミュンヘン
1934/06/02 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ミュンヘンGünther Lesnig’s DATA R.シュトラウス週間
1934/06/03 ワーグナー/「ワルキューレ」 ミュンヘン
1934/06/07 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA R.シュトラウス週間
1934/06/08 R.シュトラウス/「エレクトラ」 ミュンヘン ünther Lesnig’s DATA R.シュトラウス週間
1934/06/09 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
1934/06/10 ワーグナー/「ジークフリート」 ミュンヘン
1934/06/11 R.シュトラウス/「アラベラ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA(Trémine DATAではヴェルディ/「アイーダ」となっている)
1934/06/17 ワーグナー/「神々の黄昏」 ミュンヘン
1934/06/20 ワーグナー/「ラインの黄金」 ミュンヘン
1934/06/21 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)

 6月30日、ミュンヘン郊外の保養地、ヴァート・ヴィースゼーで突撃隊幹部の粛正が行われ、突撃隊最高幕僚長レームを始め、バイエルンに縁の深い多くの突撃隊幹部が虐殺された。「長いナイフの夜」と呼ばれる(後述)。

7月9日から8月20日まで「夏のモーツァルト・ワーグナー祭」。
ミュンヘン 夏のモーツァルト・ワーグナー祭
1934/07/09 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
1934/07/10 モーツァルト/「フィガロの結婚」(レジデンツ劇場)
1934/07/12 ワーグナー/「パルジファル」
1934/07/13 モーツァルト/「魔笛」(レジデンツ劇場)
1934/07/14 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」
1934/07/20 モーツァルト/「フィガロの結婚」(レジデンツ劇場)
1934/07/21 ワーグナー/「パルジファル」
1934/07/22 ワーグナー/「ラインの黄金」
1934/07/23 モーツァルト :「コシ・ファン・トゥッテ」(レジデンツ劇場)
1934/07/24 ワーグナー/「ワルキューレ」
1934/07/26 ワーグナー/「ジークフリート」
1934/07/27 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 (レジデンツ劇場)
1934/07/28 ワーグナー/「神々の黄昏」
1934/08/03 ワーグナー/「パルジファル」
1934/08/06 ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」
1934/08/09 ワーグナー/「ラインの黄金」
1934/08/11 ワーグナー/「ワルキューレ」
1934/08/14 ワーグナー/「ジークフリート」
1934/08/16 ワーグナー/「神々の黄昏」
1934/08/18 ワーグナー/「パルジファル」
1934/08/20 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
(ワーグナーの演目は、”Das Prinzregenten-Theater in München” Klaus Jürgen Seidel (1984)による)
(René Trémine’s DATA)

 「夏のモーツァルト・ワーグナー祭」が終わり、詳細な時期は分からないながら、この秋、勇退したフランケンシュタインに代わり、新しい劇場支配人としてオスカー・ヴァレック(1890-1976)がバイエルン州立歌劇に着任した。
 ヴァレックはナチ党員の演出家で、ヒトラーのクナッパーツブッシュ評を聞かされており、クナッパーツブッシュとさまざまな軋轢を起こした(ヴァレックはこの後の1937年、クレメンス・クラウスがクナッパーツブッシュに替わってバイエルン州立歌劇の音楽監督に就任した時、演出家として「トリスタンとイゾルデ」の演出を担当した)。
ヒトラーはミュンヘンでたびたびクナッパーツブッシュの演奏に接し、クナッパーツブッシュを「軍楽隊長」と嫌っていた。同じ軍隊にいながら、ヒトラーは自分が勇敢な最前線の兵士であったのに対し、クナッパーツブッシュはたかが軍楽隊のバンドマスターではないかと考えていたのかも知れない。
「奥波本」にヒトラーのクナッパーツブッシュに対する考えが紹介されている。
「クナッパーツブッシュはミュンヘンのオペラにふさわしい指揮者ではない。コンサートの方がましである」、「クナッパーツブッシュは指揮者としてミュンヘンにはふさわしくない。クレーメンス・クラウスのほうがはるかに適任である」。
 オーストリア生まれで、ウィーンでの流浪時代にウィーンの歌劇場に通ったヒトラーの音楽趣味と、クナッパーツブッシュの音楽性はかなり異なっていた。ヒトラーはウィーン風の演奏を好み、面白いのはウィーン時代にはワインガルトナー、ミュンヘン時代にはワルターという、ユダヤ人指揮者がそれぞれの都市の音楽監督で、ヒトラーはむしろそれらのユダヤ人指揮者によるワーグナーを聞いてきていた可能性がある。
 しかも、この頃のヒトラーの意中の指揮者は、ウィーンで生まれ、ウィーンで育ったクレメンス・クラウスだった。
 クナッパーツブッシュはアルフレート・アインシュタインに「二流指揮者」とか「二番手の指揮者」と揶揄され、その他にも「軍楽隊長」、「技術屋」、「勇ましいアーリア人」などと呼ばれたが、演奏に信念を持っていたクナッパーツブッシュはそれらの悪口にはビクともしなかった。
 面白いのは、ヒトラーがクナッパーツブッシュを嫌い、罵った言葉はそのままユダヤ人音楽評論家アインシュタインの言葉でもあることだ。ヒトラー、アインシュタインは同じような理由でクナッパーツブッシュを嫌っていたことは興味深い。
 ヴァレックとクナッパーツブッシュの軋轢に関しては、「第三帝国と音楽家たち」(マイケル・H・ケイター著明石政紀訳、アルファベータ)と奥波本に紹介されている。
「ヴァレックは一九三四年秋に着任すると、クナッパーツブッシュとあらかじめ取り決めていたオペラ新演出の合意をひっくり返し、クナッパーツブッシュの方も度重なる『手痛い処置』に不満を訴えている」(ケイター本)。
 その他、人事問題や収支報告、アカデミーコンサートのある日には大編成のオペラは上演しないなどの取り決めを無視するなど、ヴァレックはクナッパーツブッシュをスポイルしてゆく(奥波本)。
ヴァレックは徐々にクナッパーツブッシュの首を絞めていった。

1934/09/23 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1934/09/28 モーツァルト/「後宮からの誘拐」 ミュンヘン
1934/09/30 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1934/10/07 ワーグナー/「タンホイザー」 ミュンヘン
1934/10/16 ブラームス/運命の歌, ハイドン/交響曲第95番, ブラームス/交響曲第3番 ケルン・ギュルツィニヒ管弦楽団
1934/10/19 フンパーディンク/「王様の子供たち」 ミュンヘン
1934/10/20 ヴィットリオ・ジャンニーニ/「リュシディア」 (世界初演) ミュンヘン PRT
1934/10/22 モーツァルト /「皇帝ティートの慈悲」よりアリア, セレナード第11番 K 375, 交響曲第38番 ミュンヘン MAM
1934/10/27 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1934/10/28 プッチーニ/「西部の娘」 ミュンヘン
1934/10/29 ワーグナー/「ワルキューレ」[“Münchner Theaterzettel 1807-1982″による。歓喜力行団主催の公演だった]
(René Trémine’s DATA)

 ミュンヘンに来ていたヒトラーは「ワルキューレ」でナチへの協力体制が鮮明なウィルヘルム・ローデの歌うヴォータンを所望した。もともとは大歌手ハンス・ヘルマン・ニッセンがヴォータンを歌う予定だった。クナッパーツブッシュは歌手を変えるつもりはまったくなく、「私自身も出席の予定である。ついては出演予定のヴォータンでまったく申し分ない」とヒトラーに伝えさせた。ヒトラーはもちろんその日の上演には来なかった(「指揮台の神々」「クナッパーツブッシュの想い出」)。
 もっとも、クナッパーツブッシュは1933年と1934年の「ミュンヘン・モーツァルト=ワーグナー祭」でも「ワルキューレ」を指揮しており、その時のことだったとも考えられるが、歓喜力行団の栄えある催しにヒトラーが臨席する予定だったとしても不思議ではない。
 11月頃、ミュンヘンに新歌劇場計画が持ち上がり、ベルリン、ミュンヘン、ドレスデンなどの大劇場間で配置転換計画が発表される。クナッパーツブッシュ離任の噂が広まり、クナッパーツブッシュ・ファンのナチ党員や音楽関係者から、クナッパーツブッシュ留任の請願書が出され、残っているそうである(奥波本)。
 ヒトラーはミュンヘンに世界最大の歌劇場を造る計画だった。建築好きのヒトラーのことだから、歌劇場の模型かデッサンは示されていたと思われる(結局、その歌劇場は建設されることはなく終わった)。
 その計画を見てクナッパーツブッシュは、
「そんなバカでかい建物で歌える歌手、100年たってもいるかどうかわからなんな」
 と皮肉をもらしていた。
 ただ、ヒトラーの新歌劇場の意中の指揮者はクレメンス・クラウスで、ヒトラーからその音楽や人物を嫌われていたクナッパーツブッシュは、ミュンヘンから追い出される予定だった。

1934/11/01 ヘンデル/メサイア ミュンヘン MAM
1934/11/03 R.シュトラウス/「ヨゼフ伝説」、マスカーニ/「カヴァレリア・ルスティカーナ」  ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA [Trémine mentions just “Joseph …” without name of composer]
1934/11/04 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
1934/11/09 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ミュンヘン
1934/11/11 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1934/11/12 ブラームス 悲劇的序曲, ピアノ協奏曲第2番, 交響曲第1番 ミュンヘン MAM
1934/11/17,18 ウィーン ブルックナー/交響曲第4番, チャイコフスキー/交響曲第6番 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1934/11/24 R.シュトラウス/「サロメ」 ミュンヘン Günther Lesnig’s DATA
(René Trémine’s DATA)

11月25日 フルトヴェングラーは「ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥング」紙に「ヒンデミットの場合」と題したヒンデミット擁護の論評を載せる。

【ヒンデミット事件】
 フルトヴェングラーは、ナチにとってドイツ音楽の象徴のような存在に祭り上げられていた。ヒトラーがその音楽や人物を好んでいたからである。「ヒンデミット事件」の前哨戦として、1933年の「ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥング」紙に掲載されたフルトヴェングラーのゲッベルスへの手紙と、ゲッベルスからの回答がある。ユダヤ人の処遇をめぐり、フルトヴェングラーの優秀なユダヤ人音楽家の流出を嘆く手紙に対し、ゲッベルスのドイツ国民のための音楽にユダヤ人は不要だという宣伝に利用されてしまっていた。
 さらにベルリン・フィルの運営をめぐり、どちらが実権を握るかで、ゲッベルスとフルトヴェングラーは対立していたが、ユダヤ人問題に関してはゲッベルスの方が狡猾だった。
 フルトヴェングラーは、ゲッベルスの知らない間にムッソリーニと会見するなど問題は起こしたが、政治的にはフルトヴェングラーはゲッベルスの庇護を必要とした。
 ベルリン州立歌劇場はゲーリングの管轄だが、ベルリン・フィルはゲッベルスの管轄である。
 ヒンデミットの新作オペラ「画家マチス(マティアス)」は「非アーリア的」ということで、ゲーリングが管轄するベルリン州立歌劇場ではオペラは上演できなかった。ヒンデミットはユダヤ人ではなかったが、ユダヤ社会で活躍しているとされ、その妻はユダヤ人だった。ヒンデミットのオペラの作風が退廃的で「ユダヤ化」しているとして、ナチの攻撃目標になっていたのだ。
 ヒンデミットは「画家マチス」を管弦楽用組曲に編曲しており、これはオペラではないため、ゲーリングの管轄をはずれる。フルトヴェングラーは、オペラが演奏できなくても、管弦楽曲は演奏できると考え、ベルリン・フィルのコンサートで交響組曲「画家マチス」を演奏した。演奏は大好評を持って迎えられ、ゲッベルスの主宰する機関紙「デア・アンゲリフ」も好意的な論評を載せた。
 ところが、思わぬところから横やりが入る。ローゼンベルクと「フェルキッシャー・ベオバハター」だった。ローゼンベルクは1934年1月にヒトラーから「ナチ党精神・世界観の全学習・教育全権」に任命され、実権こそ持たなかったが、ナチのご意見番的な位置にいた。それまでも、ローゼンベルクはヒンデミットの音楽に対して執拗な批判を繰り返していた。
 まず「フェルキッシャー・ベオバハター」が「ユダヤ化」されたヒンデミットを容認できない人物と位置づけ、ヒンデミットと交響組曲「画家マチス」をコンサートに乗せたフルトヴェングラーをも激烈に批判した。
 次いでローゼンベルクは、そのころ音楽雑誌を主宰していたが、そこでも激烈な批判記事を載せた。ヒンデミットはユダヤ人女性と結婚していたため、ローゼンベルクにとって、そのヒンデミットの作風とともに、トーマス・マンと同様、血を汚すヒンデミットの行為が許せなかったのか。ユダヤ人と交合すると、ドイツ人の血は汚されるとローゼンベルクは病的に考えていたことは前にも触れた。
 フルトヴェングラーは1934年年11月25日の「ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥング」紙に「ヒンデミットの場合」と題したヒンデミット擁護の論評を載せる。
 この論評は民衆には大きな効果があった。ドイツが誇る最大の指揮者が公然とナチに反抗したのである。新聞はまたたくまに売り切れ、増刷するほどだった。オペラやコンサートにフルトヴェングラーが登場すると、大きな拍手喝采が巻き起こった。ゲーリングが臨席したベルリン州立歌劇場での「トリスタンとイゾルデ」のときには、オペラが終わって40分も拍手が鳴りやまなかった。この民衆の過剰ともいえる反応を危惧したのはゲーリングである。ゲーリングには容認できない事態に陥ってしまった。
 あまりに騒動が大きくなってしまったため、フルトヴェングラーは一切の公職から手を引き、ドイツで一指揮者として活動したい旨、とりあえずゲーリングに申し出る。ゲーリングは了承したが、ヒトラーは承諾しなかった。ナチに反抗したのだから、フルトヴェングラーにドイツで指揮をする資格はない、という頑ななものだった。フルトヴェングラーは、ベルリン州立歌劇場音楽監督、ベルリン・フィル常任指揮者、帝国音楽院副総裁、プロイセン枢密院顧問官、すべての地位から退くべく辞表を書く。
 ところが、ゲーリングに呼び出され、フルトヴェングラーに与えられた「プロイセン枢密院顧問官」は称号であって反逆罪か泥棒でも働かないかぎりは辞任できないことを教えられる。フルトヴェングラーは「銀のスプーンを盗んだ犯人よりもひどい」罵倒をゲーリングから浴びせられた(リース本)。ゲッベルスも手のひらを返すようにゲーリングに倣ってフルトヴェングラーを批判、フルトヴェングラーは、とりあえず指揮活動から遠ざかることになる。フルトヴェングラーはむろん外国に行くことも考えたが、ヒトラーに国外へ出ることを禁止されてしまった。ヒトラーはフルトヴェングラーの行為を許さなかったが、やはりフルトヴェングラーの創り出す音楽を評価し、ドイツ最高の指揮者だと考えていたからだ。ヒトラーはドイツ最大の指揮者の外国流出を避けると同時に、ドイツの文化政策が外国で評判を落とすことも避けたかった。そのため、ヒトラーは外国に出るためのフルトヴェングラーのパスポートを取りあげるかっこうになった(リース本)。
 一時期は作曲だけして生きようと決めたフルトヴェングラーだったが、結局すぐに指揮台に復活する。
 1935年4月25日、ナチ全閣僚が出席した慈善コンサートでベルリン・フィルを指揮、さらに6月10日には、バイエルン州立歌劇でヒトラーが臨席した「トリスタンとイゾルデ」初演60周年記念公演を指揮し、1936年50歳の誕生日には、ナチから「象牙と金で装飾をほどこした指揮棒」を受け取るまで、その地位と権威を回復している。
 クナッパーツブッシュはフルトヴェングラーを支持していたようで、奥波本の脚注によると、「ヒンデミット事件」、翌年の「リヒャルト・シュトラウス失脚」の時に、ナチ当局と一悶着起こしていたとある。

1934/11/26 アドルフ・サンドベルガー/「リッチオ」 序曲, レスピーギ/古風なアリアと舞曲,グリニョン/アンダルーサ, ベートーヴェン/交響曲第5番 ミュンヘン MAM
(René Trémine’s DATA)

 12月1日、クナッパーツブッシュはモーツァルト/「フィガロの結婚」を指揮するため、オランダ、デン・ハーグに客演する。
 ところがこのとき、ナチの外交官ファーバーを相手に舌禍事件を起こしてしまう。ファーバーはこのときのやりとりを、翌年2回目の報告で詳細に書いて提出した。奥波本に全文が訳出されているので、問答部分だけを抜き出してみた。
 ファーバーが本国の様子を尋ねると、クナッパーツブッシュは答えた。
「バイエルンには生粋のナショナル・ボルシェヴィズムがあって、民衆は満足しています。おかげで大衆は、好き勝手ができるわけですから」
「それはしかし、せいぜいのところ急進的と呼ぶべき、党内の小グループのことでしょう。政府の方でも状況は把握していますし、危険ではないと思いますが」
「政府にいるのは夢想家たちで、あらゆる方面から欺かれているので、周りでなにが起きているのか知らないのです」
「そうした考えは不謹慎です」
「あなたは、ナチですか?」
「そうです」
「しかたなしのナチですか?」
「『しかたなしのナチ』とはいったいなんですか、わたしは確固としたナチです。どうしてそのようにお考えになるのですか?」
「まあ、役人の多くが党員にならねばならないですし」(奥波本より)
 ヴァレックとの軋轢、共産主義の官僚制と君主制での官僚組織が変に混じり合ったようなナチの官僚機構に、クナッパーツブッシュは大きな不満を抱えていたのかも知れない。

1934/12/01 デン・ハーグに客演 モーツァルト/「フィガロの結婚」
1934/12/03 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)

 12月4日、ファーバーはドイツ宣伝省への報告の中で、クナッパーツブッシュについてコメントを書いた。
「彼との会話と通して得た個人的な印象ですが、芸術的な質の良し悪しはともかく、外国における新生ドイツの代表としてふさわしいとはいえません。こうした経験もあることですので、私としては、外国での客演旅行の機会を再び与える前に、国家社会主義に対する彼の態度を適当な方法で管理することを提言いたします。」(奥波本)
 クナッパーツブッシュは、もともとバイエルン分離主義傾向の強い民衆の気分を語ってしまったのだ。実際には「統合法」によって、バイエルンはその分離主義の芽を摘まれている。ヒトラーがクナッパーツブッシュを人物的に嫌っていたことと、ミュンヘンの聴衆に人気のあったクナッパーツブッシュがこの時にバイエルン分離主義について語ったことが、多少とも危険人物になりつつあるとの中央の認識が生まれたのかも知れない。
 ただし、ミュンヘンで「白ばら」通信の運動が起こり、組織化されたとはいえない小規模なナチへの抵抗を示す学生が現れ、悲惨な最期を遂げる事件が起こるが、それは十年近く後のことで、クナッパーツブッシュの話はあくまで1934年当時のバイエルン民衆の気分を反映したものだった。
 「義務ナチ」という言葉に対する「そうではない」というファーバーの言葉は、保身の意味が含まれている。実際に「義務ナチ」が多い官吏の中で、自分を差別化して正当化する言葉だ。クナッパーツブッシュに「ハーグで、ファーバーとかいう義務ナチに会ってね」なんて誰かに話されたらたまらない。自分が失脚する。ナチは「見え透いた日和見行為」での入党希望者に神経質になっていたのは確かだが……。「ナチ党内に『義務ナチ』などいない、みな党に忠節をつくし、義務をまっとうする覚悟である」というのは立派でその通りだが、それより、「バイエルン分離主義」の方が、中央政府にとって危険な考えであったともいえる。
 このファーバーのクナッパーツブッシュ批判は、すぐにミュンヘンのナチ党員の行動となって現れた。

1934/12/07,09,16,23 ワーグナー/「ニーベルングの指環」チクルス ミュンヘン
16日はワーグナー/「ジークフリート」[奥波氏の情報による]
(René Trémine’s DATA)

 12月16日、クナッパーツブッシュはバイエルン州立歌劇(国民劇場)で「ジークフリート」を指揮する。このとき、休憩時間にナチによる嫌がらせの示威行動が行われた。その騒ぎに、クナッパーツブッシュは第二幕で退場せざるをえなくなる。ハンス・ホッターはその時「ジークフリート」の「さすらい人(ヴォータン)」で出演予定があり、クナッパーツブッシュはホッターがナチで示威運動の手引きしたと考えたという(ホッターの回想録によると、ホッターは騒ぎがあることを事前に前日ミュンヘンの総監督(ヴァレック)から電報をもらって知らされており、実際には出演を見合わせたのだそうだ)。ホッターへの誤解が解けたのは遅く、第二次世界大戦後のことだった。ホッターによると、ヴァレックは示威行動があることを知っていたことになる。ホッターの代演は誰であったのかは分からない(以上、ハンス・ホッターへのインタビューより)。

1934/12/10 ブルックナー/交響曲第5番, R.シュトラウス/英雄の生涯 ミュンヘン MAM
1934/12/22 ヴェルディ/「マクベス」 ミュンヘン[“Hans Knappertsbusch – Zum 100. Geburtstag des Dirigenten” by Gabriele E. Meyerによる]
1934/12/25 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ミュンヘン
1934/12/26,28 ヴェルディ/「アイーダ」 ミュンヘン
(René Trémine’s DATA)

 12月31日 クナッパーツブッシュは、翌年2月のウィーン国立歌劇場客演許可を帝国劇場院に申請する。

 トーマス・マン抗議声明事件でクナッパーツブッシュと共犯者になったプフィッツナーのこの頃の情況についても触れておかなければならない。
【プフィッツナーのこの頃】
 1934年、プフィッツナーは定年を理由に、バイエルンのすべての地位を失った。高名な芸術家は定年後の名誉職に就くことが多かったが、ヒトラーのプフィッツナーに対する悪い印象からか、プフィッツナーは強制的に引退させられてしまう。
 ところが引退後に受け取る年金額が思っていたよりも少なかった。年金額の少なさに腹を立てたプフィッツナーは、ゲーリングに不満をぶつけた手紙を送る。
 ゲーリングはさっそくプフィッツナーの年金額を算定、翌年1935年1月8日付で「充分」だとプフィッツナーに返信した。その手紙の中でゲーリングはプフィッツナーのことを「詐欺師」と書いたらしい。
 このことに、プフィッツナーは怒った。プフィッツナーは1月17日に抗議の電信を送ったが返信を得られなかったため、さらに激高した。プフィッツナーは、
「[……]そして、わたしを詐欺師扱いした1935年1月8日付けのあなたの手紙も保管しておこう。これらの写しや手紙は、計り知れぬ価値を持った文化的なドキュメントとして、また、ザルツブルクの司教がとがめなく、かつてモーツァルトに与えた侮辱に匹敵するものとして、保管されよう。しかしながら、その不名誉はモーツァルトの罪ではない」(道下京子、高橋明子著「ドイツ音楽の一断面」芸術現代社 2000/5/6)
と、自分とゲーリングを、仲の悪かったモーツァルトとザルツブルク大司教の関係になぞらえる手紙ゲーリングに送った。
 これに対し、ゲーリングは凄まじく怒った。さっそくプフィッツナーをベルリンに召喚し、さんざんプフィッツナーを罵倒した。「強制収容所に送ってしまうぞ」と脅しもしたそうだ(「第三帝国の音楽家たち」)。
 そのプフィッツナーとゲーリングとの会見は、プフィッツナーの恭順を示す言葉で終わったが、ゲーリングは執念深くそのことを覚えていたのか他に理由があったのか、2年後の1937年にプフィッツナーの年金を取りあげてしまう。

 1月14日 「断種法」(社会的不適正者子孫絶滅法)が施行される。
 4月20日 SS(親衛隊)長官ヒムラー、ゲシュタポを掌握。
 4月24日 「人民裁判所」(「人民法廷」)設置法を制定(8月1日開設)。反逆罪の名目で逮捕・告発・処刑が可能になる。
 6月30日 ヒトラーの指示で、ミュンヘン郊外ヴァート・ヴィースゼーのハンゼルバウアー・ホテルに集結していた突撃隊上級幹部を、ヒトラー率いる親衛隊が早朝に急襲、その多くを殺害する。「長いナイフの夜」と呼ばれる。
 突撃隊の軍事クーデターの風評が絶えず(ナチ第二次革命)、またライヒスヴェーア(ヴァイマル国軍)と突撃隊の軋轢が深まっており、街頭では突撃隊の暴力事件が絶えないことから、ヒンデンブルクから突撃隊への何らかの働きかけをヒトラーは要求されていた。ヒンデンブルクは6月21日に、突撃隊の緊張が解けなければ、戒厳令を布告するとフロンベルク国防相を通じてヒトラーに警告している(全記録)。
 突撃隊最高幕僚長レームは急襲の翌日、7月1日に自殺を強要されたが拒否したため銃殺された。
 ルキノ・ヴィスコンティの映画「地獄に堕ちた勇者ども」(1969年)ではハンゼルバウアー・ホテルで大量虐殺が行われたように描いてあるが、実際には突撃隊員たちはトラックで運ばれ、別の場所で射殺されたようである(トーランド本)。
 また、前日から7月1日にかけて、元首相シュライヒャー、元バイエルン州首相リッター・フォン・カール、ドイツ北部のナチ党実力者でシュライヒャーの誘いに乗って入閣しかけたゴレゴール・シュトラッサーたちはそれぞれの自宅や収容施設で銃殺された。
 その他「ミュンヘン最新報」の元編集長フリッツ・ゲルリヒもデッサウ政治犯強制収容所で銃殺され、壊れた血染めの眼鏡が夫人に届けられた。「ミュンヘン最新報」代表だったパウル・ニコラウス・コスマンは捕まって殺される寸前、プフィッツナーがヒンデンブルクに直訴、釈放される。
 パーペンはヒトラーの失脚を狙い、ヒンデンブルクに戒厳令の布告を進言したりマクデブルクで突撃隊の第二革命の危険を演説したため自宅拘禁に会う。パーペンの外出中、秘書は銃殺されたが、パーペン本人は利用価値があったためか、ゲシュタポの審理を受けたが自宅拘禁され、後に釈放される。パーペンはオーストリア危機のため、すぐにオーストリアに派遣されることになる。左遷という見方もあるが、ナチには織り込みずみの計画であったのかも知れない。
 7月20日 「長いナイフの夜」で果たした功績から、SS(親衛隊)はSA(突撃隊)の下部組織から完全に独立、ヒムラーの指導下、国家の中の国家、軍隊の中の軍隊へと強力な組織として変貌発展してゆく(全記録)。
 7月25日 オーストリアの反ナチの独裁者、ドルフスがオーストリアのドイツ系ナチ154名によって暗殺される。オーストリアは社会民主党とドルフスの与党キリスト教社会党の対立が深まり、かなり混乱していた。その中でオーストリアではナチは禁止されていたが、その混乱に乗じるつもりだったのかも知れない。この暗殺にドルフスと盟友関係にあったイタリアのムッソリーニは激怒し、2個師団を国境付近に配備、ドイツのオーストリア合併行動を阻止しようとした。この日、ヒトラーはバイロイトで「ラインの黄金」を観劇中だった。ドルフス暗殺は、ヒトラーの陰謀というより、オーストリア・ナチによる暴発であったという見方も多い。
 7月26日 ヒトラーは事態収拾とムッソリーニ懐柔のため、パーペンを総統特命大使としてウィーンに派遣する。
 7月30日 ドルフス暗殺を受け、クルト・フォン・シュシュニクがオーストリア首相となる。
 8月2日 ヒンデンブルク大統領死去。ヒトラー、ヒンデンブルクの死の直前に制定した「国家元首法」により、首相と大統領を兼任することになる。さらに「故人への敬意から、大統領の肩書きと地位は永久に廃止する」(全記録)。
 また同日、ライヒスヴェーアはヒトラーへの忠誠を誓い、ヒトラーは 突撃隊と対立関係にあった軍を掌握する。
 ヒンデンブルクの死により、ヒトラーには目の上のたんこぶがなくなった。ナチによる好き放題の改革やユダヤ人迫害、戦争への準備が本格化してゆく。
 8月19日 国民への信任投票で、ヒトラーは圧倒的多数の支持を得て「総統兼首相」に就任する(投票率96%、賛成88.9%)(全記録)。
 9月4日から10日 ニュルンベルクで開催された第6回ナチ全国党大会はライヒスヴェーアを含めた大規模な大会となり、レニ・リーフェンシュタルによって映画化された(「意志の勝利」)。
 10月16日 内閣書記官長によって、ヒトラーの「終身の大統領」制が発表され、国務省、地方閣員は議会にではなく、ヒトラーに忠誠を誓う宣誓形式が決定される。これにより官吏は国民に対してではなく、ヒトラーの方を向いて仕事をすることが義務化されることになった。
 ヒトラーの立場は、単に独裁者としての政治家という立場を大きく越え、ドイツ国民にとって神に近い存在へと変貌してゆく。
 12月20日、「ドイツ国および党に対する陰謀的攻撃取締及び制服保護のための法律」が制定され、党に対する反逆の刑罰が強化された。この法律により、ドイツ国内でのナチ反対派の芽はほぼ完全に摘み取られるかっこうになった。
 前年の政権掌握から、恐るべき速度でヒトラー独裁と神格化への道筋が作られ、強化されていったことが分かる。ドイツ国民には戸惑う者もあったが、ほぼ全国民を上げて「新生ドイツの救世主」ヒトラーに対して賛同した。
 クナッパーツブッシュは、……賛同しなかった。

 日本では10月1日に陸軍省発行のパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」が配布される。これは軍事独裁下での社会主義国家建設がその主眼とされた。陸軍内部の若手将校たちは、拡大する貧富の差の解消方法として、社会主義国家の建設を目指していたことは、現代から見るとひじょうに興味深い。この年は大凶作であることがそのことに追い打ちをかけた。当時、東北地方では家族の糧を得るために「身売り」する少女が数多く、そのような家族がいる陸軍兵士たちは政府や陸軍当局に対する不満を深めていた。
 「国防の本義と其強化の提唱」の元は北一輝「日本改造法案大綱」だった。このあたりの主張の在りかは錯綜していて、北一輝は後に皇道派将校による二・二六事件の思想的支柱と言われているだけに分かりにくい。「国防の本義と其強化の提唱」は陸軍の統制派の主張である。その幾分青臭い主張に、皇道派は「軍人は学徒ではない」と反論している。
11月20日には「陸軍士官学校事件」が起こり、軍事クーデターが未然に防がれた事件と言われている。陸軍内部での皇道派と統制派の対立は根深く、後の二・ニ六事件への布石ともなった。
 言論統制も厳しさを増しており、エノケンをはじめ喜劇役者や講釈師は決められた演出以外のアドリブを認められなかった。8月1日からは流行歌に対するレコードの検閲も始まっている。

タイトルとURLをコピーしました