【クレメンス・クラウス】
クレメンス・クラウスは1893年3月31日、ウィーンで生まれた。ウィーン国立歌劇場のバレリーナ、クレメンティーネ・クラウスが17歳で産んだ私生児である。
クレメンス・クラウスの父親は王族や貴族ではないか?といわれるほどの貴族的な美貌の持ち主だった。クラウスはウィーン少年合唱団を経て、ウィーン音楽院で学び、さまざまな歌劇場で指揮者として活躍、1929年、リヒャルト・シュトラウス、フランツ・シャルクの後を継いでウィーン国立歌劇場音楽監督の座に着いた。
その音楽は今でも数多くの復刻盤で聞くことができるが、速めのテンポでしなやかに音楽を形作る特徴がよくわかる。ベートーヴェンやブラームスはあまり得意ではなかったようだが、モーツァルトやリヒャルト・シュトラウスでの独特の華やかでしなやかな音楽は現在聞いても、きわめて魅力的である。ワーグナーのオペラも、1953年バイロイトでの「ニーベルングの指環」と「パルジファル」の録音が残っているが、クラウスの手にかかると実に分かりやすく面白いオペラに変貌する。
クラウスは同時代音楽の紹介にも熱心で、シェーンベルクを筆頭とする新ウィーン楽派、ストラヴィンスキー、オネゲル、ラヴェル、プロコフィエフなど、そのレパートリーは広かった。
ただ、ウィーン国立歌劇場では、クレメンス・クラウスが独裁的であることや、客が入らない同時代音楽をプログラムに組みたがることへの不満がつのっていた。オーストリアもドイツと同じように、大恐慌のためにインフレに見舞われていたため、客が入らないと国立とはいえその経営に打撃を被る。そのようなマイナス評価が出るようになり、クラウスがウィーンにいづらくなっていたときに、1933年ドイツではナチが政権を掌握した。
ゲーリングが牛耳り始めたプロイセンのベルリン州立歌劇場では、1934年の「ヒンデミット事件」で首席のフルトヴェングラーが辞任、その後任である元首席のエーリッヒ・クライバーもフルトヴェングラーの肩を持つように辞任してしまう。ゲーリングはクラウスと契約した。ヒトラー意中の指揮者をまず自分が採用することによって、先鞭をつけておきたかったからかも知れない。
エーリッヒ・クライバーは1890年8月5日、クラウスと同じくウィーンで生まれたが、音楽の専門教育はプラハで受けた。1923年、ベルリン州立歌劇場音楽監督に就任、モーツァルトやベートーヴェンを得意とし、リヒャルト・シュトラウスのスペシャリストであるとともに、同時代音楽の紹介にも熱心で、ベルク「ヴォツェック」やヤナーチェク「イェヌーファ」をベルリンで初演した。1925年の「ヴォツェック」のベルリン初演は、州立歌劇場最大のスキャンダルで、なおかつ最も盛り上がったイヴェントであったと言われている。
クライバーは進歩的な指揮者で、今でも数多くの録音を聞くことができる。また、いつのことか分からないながら、クライバーのクナッパーツブッシュを評した言葉が残っている。
「ハンス・クナッパーツブッシュは、左袖のカフスボタンを上げるだけで、百人のオーケストラをクレッシェンドさせ、轟然たるフォルテシモへ引き上げることができる唯一の指揮者だ」(「ハンス・クナッパーツブッシュ 生誕百年に寄せて」)。
ただ、クライバーの妻はアメリカ系ユダヤ人で、クライバーはナチの台頭を警戒心をもって見つめていた。そのような不安定な情勢下、フルトヴェングラーが「ヒンデミット事件」で退任した後、オケピットに入ったクライバーを、ナチは陰険な手段で妨害し始める。クライバーもまたナチ・イデオローグにとっては不愉快な存在だったし、クライバーはナチに「頽廃音楽」のレッテルを貼られた音楽をコンサートにかけようとした。
アルバン・ベルクの未完のオペラから編曲された「ルル」交響組曲を1934年12月4日にコンサートにかけようとしたら、退廃音楽としてナチから禁止されてしまった。自分の妻がユダヤ人であることの不安定さ、音楽に関して不寛容なナチに対して嫌悪感を持つクライバーは、その5日後に州立歌劇場の辞任を申し出る。ゲーリングに引き留められたが、クライバーは1935年1月初旬に州立歌劇場で「タンホイザー」を二回振ったものの、夏にはザルツブルク音楽祭に出演、そのまま、妻、息子カール(カルロス)とともににドイツを離れる。
クラウスはクライバー退任に伴い、1935年にウィーンからベルリン州立歌劇場へと転出した。1935年1月15日の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」で、ベルリン州立歌劇場のクラウス時代は幕を開ける。
ただ、クラウスのベルリン州立歌劇場時代は実質一年間だけだった。記録では1935年12月27日の「ばらの騎士」が、クラウスがベルリン州立歌劇場で連続して指揮をした最後である。クラウスの名前は翌年3月13日「ばらの騎士」まで記録が飛ぶ。クナッパーツブッシュの後釜としてミュンヘンに赴いた後は、1937年9月ベルリン州立歌劇場パリ公演で「ばらの騎士」と「ナクソス島のアリアドネ」の指揮者としてくらいしか名前が見あたらない(「フルトヴェングラー 悪魔の楽匠」、菅原透著「ベルリン三大歌劇場」アルファベータ 2005/5/1)。
「ヒンデミット事件」で州立歌劇場音楽監督を辞任したフルトヴェングラーは、1934年12月2日の「トリスタンとイゾルデ」以降、記録に名前が見えなくなるが、1936年6月1日「ニュルンベルクのマイスタージンガー」で一度復活、クラウスがミュンヘンに去った後、1937年4月10日から全面復活した様子が見て取れる。
1936年春、フルトヴェングラーがリヒャルト・シュトラウスに宛てたクラウスを誹謗する手紙が残っていて、ケイターが「第三帝国の音楽家たち」で一部紹介しながら論評を加えている。
「フルトヴェングラーは、ヴィーンでさえクラウスの指揮する公演は『大したことのない水準で』、耳の肥えたベルリンのオペラ聴衆に受けるはずがないとし、クラウスはロンドンやパリでの客演でも成功せず、『クールな優雅さと、専門家には興味がないとは言えないテクニック以外には彼は何も持っていないし、何も与えることができないのです。彼には迫力と暖かさがまったく欠けているのです』と記している。そのうえフルトヴェングラーは、ナチスが多用した語彙を用いながら、クラウスが『偉大なるドイツ音楽に対する心的関係をまったく持っていない』のは最悪だとし、だから彼にはベートーヴェンやヴァーグナーや古典派が指揮できない、『その独自の流儀からしてクラウスをドイツ本来の音楽家と呼ぶことはまったくできません』などと書いているのだ。これが、フルトヴェングラーが、ドイツ中で自分の後を襲う者になるやもしれぬと見なした人物(当たっているかどうかは別にして)に下した宣告だった」(ケイター「第三帝国の音楽家たち」アルファベータ)。
確かにフルトヴェングラーの言葉通り、ヒトラーに好まれてもクラウスはベルリンの聴衆からは思うような評価を得られなかった。
なお、クラウスはヒトラーの意中の指揮者でナチの協力者ではあったが、クラウス自身ナチ党員であったことはない。もっとも、官吏法の制定でナチ党員になった方が仕事をする上で圧倒的に有利となったとき、1933年4月に一度夫人とともに入党を申し出たが、ナチの隆盛は凄まじく、また職を求める人でナチ入党希望者が殺到していたときである。クラウスも他の入党希望者と同様、「見え透いた日和見行為」として入党を拒否されたという(「第三帝国と音楽家たち」)。ケイターはクラウスに同情的だが、クラウス個人に対する入党拒否というより、クラウスはオーストリア人だし、ナチ党本部に入党希望者の殺到を処理できるだけの能力がなく、入党停止の煽りを食らったものだと考えた方が自然である。
余談ながら、マイケル・H・ケイターとヒトラーの音楽趣味は皮肉にも極めてよく似ている。「ドイツのウドの大木」クナッパーツブッシュよりも、貴族的な「南国の優雅な棕櫚の木」(いずれもケイター本)クラウスの方がふたりとも好みで、趣味が合っている。
クラウスのバイエルン州立歌劇就任は1937年1月1日である。ところが、ヴァレックの報告によると、ミュンヘンの聴衆はクラウスに反発した。
「…ヴァレックの説明によれば、クラウスの就任からほぼ1年後の段階でも『クナッパーツブッシュ退任の失望はまだ広範に存在しており、ミュンヘンの劇場観客の大多数はクレーメンス・クラウスに対して反感を抱いていた』。クラウスが指揮台に立つと妨害行為があるほどで、劇場収入も落ち込み、ここままでいくと『破滅』も避けられないという有様だったらしい」(奥波本)
出自が分からない者はユダヤ人の血が混じっている可能性があり、「彼が『半ユダヤ人』であるとの根強いうわさのせいでもある」(ヴァレックの付言。奥波本)。
それでもクラウスはヒトラー意中の指揮者であり、莫大な国家の支援を受けながらミュンヘンのバイエルン州立歌劇でのクラウス時代が始まっていた。
1937年の年が明けて早々、クナッパーツブッシュは帝国劇場院から許可の降りたロンドンでの客演に向かっている。
1937年01月11日、15日、20日の3回、コヴェント・ガーデンでイギリス・ロイヤル・オペラを指揮、演目はリヒャルト・シュトラウスの「サロメ」新演出だった。プッチーニ/「ジャンニ・スキッキ」が併演されという情報もある(Günther Lesnig’s DATA)。
このときコヴェント・ガーデンの副指揮者に、レジナルド・グッドオールがいた。グッドオールは、1929年から35年まで、バリトン歌手の伴奏ピアニストとして毎年夏にドイツを訪問しており、クナッパーツブッシュの指揮する摂政劇場での夏のワーグナー・モーツァルト祭を聞いていたらしい。
山崎浩太郎著「クライバーが讃え、ショルティが恐れた男」(洋泉社 2002/11/27)に、クナッパーツブッシュがロンドンに行ったときの記述がある。
「その男は曲頭のクラリネットが響くと同時に、幕がサッと上がることを要求した。微妙なタイミングが難しいので、副指揮者のグッドオールが隙間からのぞき、その指揮者の異様に大きな右手が動き出すと同時に、舞台係に合図をおくることにした。
『それはまるで、神につかえる儀式のようだった』
と、グッドオールは回想している。
その指揮者の名は、クナッパーツブッシュだった」。
クナッパーツブッシュは後年までこの時のグッドオールのことを覚えていて、第二次大戦後バイロイト復活で指揮をしているときに、コヴェント・ガーデンから派遣されてきていたグッドオールにいろいろと教えることになる。
後年から考えれば、このロンドン客演時がクナッパーツブッシュ亡命の最大のチャンスだが、クナッパーツブッシュに亡命する気は頭になかったということは前に書いた通りである。しかも、マリオンとアニータはおそらくドイツに残したままだった。
ドイツは国土が荒廃しているわけではなく、逆にますます隆盛を見ているわけだし、「ナチ運動の首都」ミュンヘンはさらにますます栄えていた。ナチ当時の建築物が今でもミュンヘンに残っているが(総統官邸、ナチ党本部、美術館などなど。むろん現在は他の施設に転用されている建築物が多い)、その壮麗さには目を見張るばかりである。クナッパーツブッシュはミュンヘンの楽壇を追放されただけで、家族にユダヤ人がいないことから国外に出る理由はなかったのである。
後述するように、ヒトラーやナチ幹部は戦争の準備を始めていたが、一般市民にはそのことを知る由もなかった。もちろん、クナッパーツブッシュも知らなかった。
ロンドンからウィーンに戻ったクナッパーツブッシュは1月24日からウィーンに戻り、指揮を行った。
1937/01/11,15,20 ロンドンに客演 R.シュトラウス / 「サロメ」 コヴェント・ガーデン
1937/01/24 ワーグナー/「神々の黄昏」 ウィーン, ウィーン国立歌劇場
この時の録音の断片が残っている。
1937/01/27 ワーグナー/「タンホイザー」 ウィーン.
1937/01/29 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」 ウィーン
1937/01/31 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ウィーン
1937/02/08 ブダペストに客演 ウェーバー / 「オベロン」序曲, グラズノフ/ヴァイオリン協奏曲 (Laszlo Szentgyörgi), ザダル・イェネ (オイゲン)フバイ?/交響的舞曲、 モーツァルト /交響曲第38番、R.シュトラウス /「ドン・ファン」 ブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団.ライヴ放送あり
[Trémineは、15日から24日までブダペストでオペラを指揮していたという資料を”Wiener Zeitung”で得ている。2月16日「タンホイザー」がクナッパーツブッシュ指揮の下、ラジオ放送された]
1937/02/27 ワーグナー/ ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ウィーン.
1937/03/01ベートーヴェン/「フィデリオ」 ウィーン
(René Trémine’s DATA)
1937/03/04 ウィーン演奏協会 グリンカ/「ルスランとリュドミラ」序曲 ,ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番(Henry Jackson), R.シュトラウス / アルプス交響曲, WTO, ウィーン. Reichspost dated 06.03 page 10. Neues Wiener Journal dated 07.03 page 25 [concert not mentioned in the Vienna Symphony Orchestra’s website] Wiener Symphoniker Archives
1937/03/06 ワーグナー/「ローエングリン」 ウィーン.
1937/03/13,14 ベートーヴェン/交響曲第1番, オイゲン・ザダル/交響的舞曲,ブラームス/交響曲第4番 ウィーン, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団. Reichspost dated 16.03 page 6. Wiener Zeitung dated 16.03 page 9. NFP dated 16.03 page 9
1937/03/14 ワーグナー / 「タンホイザー」 ウィーン.
1937/03/15 バッハ/マタイ受難曲 (Luise Helletsgruber, Rosette Anday, Anton Dermota, Hans Duhan, Herbert Alsen), VPO, ウィーン・フィル. Reichspost dated 17.03 page 10. Neues Wiener Journal dated 18.03 page 14. Wiener Zeitung dated 18.03 page 10. NFP dated 23.03 page 8
1937/03/19 ヴォルフ=フェラーリ/ 「マドンナの宝石」 新演出(Norbert Ardelli, Kerstin Thorborg, Margit Bokor, Hermann Gallos), ウィーン.. Neues Wiener Journal dated 17.03 page 11. Review in Neues Wiener Journal dated 20.03 pages 10/11
(René Trémine’s DATA)
ヴォルフ=フェラーリの「マドンナの宝石」という、クナッパーツブッシュには珍しい演目を指揮した。この時の録音が断片ながら残っている。
ウィーンの雑誌「ビューネ」3月号に、有名なウィーンの音楽評論家でユダヤ人のマックス・グラーフによるクナッパーツブッシュに関する記事が掲載された(奥波本。以下引用文も)。
「この立派な指揮者は来年、ウィーンの音楽生活との結びつきを一層深めることになるだろう。国立歌劇場では50回も指揮する予定である。今年このオペラ・ハウスで異常なまでの成功を収めたわけだが、来年はほとんどつきっきりで出演することになる。[……]『トップにヴァイオリンのロゼーがいるオーケストラを指揮できるのは名誉なことだと思います』。クナッパーツブッシュがウィーンでまっさきに訪問した人物のひとりがロゼーだった。この訪問は彼自身が心から望んでいたことだった。非アーリア人との交友は好ましくないのではとの非難に対してクナッパーツブッシュは『尊敬してやまないロゼーとのつきあいがいけないというのでしょうか?』と答えた」
アーノルト・ロゼーはマーラーの妹婿でユダヤ人だった。
さらに奥波本には、グラーフのクナッパーツブッシュがナチに取った「政治的態度」のエピソードが紹介されている。
「ここケーニヒスベルクでは、オーケストラに向かって「『ドイツ式挨拶』をするのが慣例です」と役人が言うと、クナッパーツブッシュが「すばらしい!」と一言。リハーサルででの顔合わせのときにはさっそく、ズボンに手を突っ込んだまま--つまりドイツ式挙手をすることなく--『グーテン・モルゲン(おはよう)、みなさん』と快活に挨拶した」(奥波本)
クナッパーツブッシュが左遷される予定だったケーニヒスベルクに客演したのは、1933年と、この1937年11月21日に記録がある。
さらに奥波本によると、この記事に対しクナッパーツブッシュ本人か支持者が「直接取材を受けていない」と抗議をしたらしい。あまり不用意なことを書かれると、ウィーンでの活動許可を取り消される可能性もある。それに対しグラーフはジャーナリズムの慣例(「記事に口をさしはさむようなまねはさせません。これはジャーナリズムの慣例のようなものです」)からか釈明を拒否した。クナッパーツブッシュはグラーフに激しく抗議したことを帝国ドイツ同盟(オーストリア国内の団体)に報告、ナチのしかるべき部署に伝えるよう依頼した。
ただ、ナチ当局はそのことに対し、クナッパーツブッシュを全面的に信用し、信頼していたわけではないらしい。クナッパーツブッシュが「二重の芝居」をしていないかどうか、オーストリア帝国ドイツ地方団体に事件の再調査を要求、ベルリンで確認できるようにしておくようにというメモが残されているそうである(以上、奥波本による)。
1937/03/23 ワーグナー/「パルジファル」 ウィーン. NFP dated 27.03 page 8
1937/03/24 ワーグナー/「パルジファル」 ウィーン
1937/03/29 ヴォルフ=フェラーリ/「マドンナの宝石」 ウィーン Spielplan der Wiener Oper 1869 bis 1955
1937/04/02 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ウィーン
1937/04/03 ヴォルフ=フェラーリ/「マドンナの宝石」 ウィーン Spielplan der Wiener Oper 1869 bis 1955
1937/04/10 ヴォルフ=フェラーリ/「マドンナの宝石」 ウィーン Spielplan der Wiener Oper 1869 bis 1955
1937/04/15ヴォルフ=フェラーリ/「マドンナの宝石」 ウィーン Spielplan der Wiener Oper 1869 bis 1955
1937/04/16 ワーグナー / 「ローエングリン」 ウィーン
1937/04/19 ヴォルフ=フェラーリ/「マドンナの宝石」 ウィーン Spielplan der Wiener Oper 1869 bis 1955
[Trémine a hole of 3 weeks without info on Kna’s activity]
1937/05/10 ベートーヴェン / 交響曲第1番, ヴァイオリン協奏曲 (Joseph Szigeti), 交響曲第5番 ブダペスト Filharmoniai Zenekar. Broadcasted live.
1937/05/27 ワーグナー / 「タンホイザー」 ウィーン
1937/05/30 ワーグナー / 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ウィーン
1937/06/06 ヴォルフ=フェラーリ/ 「マドンナの宝石」 ウィーンS pielplan der Wiener Oper 1869 bis 1955
1937/06/07 R.シュトラウス「エレクトラ」 ウィーン Spielplan der Wiener Oper 1869 bis 1955,Günther Lesnig’s DATA
1937/06/09 ウィーン演奏協会 ブラームス/交響曲第3番, チャイコフスキー/交響曲第5番 Wiener Sinfoniker [Trémine’s spelling],Wien Neues Wiener Journal dated 10.06 page 12 / “Knappertsbusch dirigiert die Sinfoniker“. Wiener Zeitung dated 11.06 page 8 Wiener Symphoniker Archives
1937/06/10 ワーグナー / 「ラインの黄金」(「ニーベルングの指環」チクルス ウィーン. 中継放送あり
1937/06/12 ウィーン国立歌劇場 ワーグナー「ワルキューレ」
1937/06/13 R.シュトラウス / 「ばらの騎士」 ウィーン Günther Lesnig’s DATA
1937/06/15 ベートーヴェン / 「フィデリオ」 ウィーン
1937/06/16 ワーグナー / 「ジーグフリート」 ウィーン
1937/06/19 ワーグナー / 「神々の黄昏」 ウィーン
1937/06/21 ワーグナー / 「タンホイザー」 ウィーン
(René Trémine’s DATA)
以下、夏までにクナッパーツブッシュがウィーン国立歌劇場で指揮をした録音の断片が残っているものは以下のとおりである。
- 6月10日 ウィーン国立歌劇場 ワーグナー「ラインの黄金」
- 6月12日 ウィーン国立歌劇場 ワーグナー「ワルキューレ」
- 6月13日 ウィーン国立歌劇場 リヒャルト・シュトラウス「ばらの騎士」
- 6月16日 ウィーン国立歌劇場 ワーグナー「ジークフリート」(1)
- 6月16日 ウィーン国立歌劇場 ワーグナー「ジークフリート」(2)
- 6月19日 ウィーン国立歌劇場 ワーグナー「神々の黄昏」 1月24日の「神々の黄昏」10曲目が6月19日の収録だったようだ。
ザルツブルク音楽祭
1937/07/27 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 (Lotte Lehmann, Jarmila Novotna, Fritz Krenn, Esther Rethy) ザルツブルク音楽祭.Reichspost dated 29.07 page 9. First opera performance of the festival
1937/07/28 ベートーヴェン/交響曲第4番、交響曲第7番 モーツァルテウム
1937/08/04 R.シュトラウス /「ドン・ファン」,「ツァラトゥストラはかく語りき」,「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」 モーツァルテウム Reichspost dated 06.08 page 9
1937/08/06 R.シュトラウス / 「ばらの騎士」(Hilde Konetzni, Margit Bokor, Fritz Krenn)
1937/08/08 R.シュトラウス / 「エレクトラ」 (Rosette Anday, Rose Pauly, Hilde Konetzni, Georg Maikl, Alfred Jerger) Reichspost dated 10.08 page 9
1937/08/22 R.シュトラウス / 「エレクトラ」 (Rosette Anday, Rose Pauly, Hilde Konetzni, Georg Maikl, Alfred Jerger)
1937/08/24 Strauss / 「ばらの騎士」 (Lehmann, Novotna, Rethy, Krenn, Rosette Anday)
(Rene Trémine data)
7月27日から8月24日にかけてはザルツブルク音楽祭の主軸指揮者として本格的に参加する。失脚したリヒャリュト・シュトラウスの後を継いだ帝国音楽院総裁ペーター・ラーベをウィーン・フィルの指揮台に立たせるという抱き合わせでの許可だったが(奥波本。ペーター・ラーベに関しては1938年に後述)。
ヒトラーはザルツブルク音楽祭の隆盛をあまり快く思っていなかったため、客演指揮者ではなく主軸指揮者になるということは、亡命指揮者になってしまうというドイツ国内での見方もあったそうだ(「栄光のウィーン・フィル」、奥波本より)。
クナッパーツブッシュはザルツブルク音楽祭でリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」3回と「エレクトラ」2回を担当、オペラ以外のシンフォニー・コンサートも2回指揮をしている。ただ、残念ながらこの時の録音は残っていないのか、まだ聞くことはできない。ちなみに、オペラ以外の演目は、7月28日ベートーヴェン/交響曲第4番、交響曲第7番、8月4日リヒャルト・シュトラウス「ドン・ファン」、「ツァラトゥストラはかく語りき」、「ティル・オイレンシューゲルの愉快ないたずら」だった。
クナッパーツブッシュの「エレクトラ」(ザルツブルク音楽祭だけではなく、国立歌劇場でも指揮をした)に関してオットー・シュトラッサーは
「エレクトラの激しい嘆きの場面で、アガメムノンのテーマが低いBからトランペットの高いCまで昇ってゆく時、クナッパーツブッシュがすっくと背筋を伸ばして指揮棒を上方に突き出すと、私たちの演奏は忘我の境に入っていった」
と書いている(栄光のウィーン・フィル)。
また、シュトラッサーは同じ文脈の中で、クナッパーツブッシュがオーケストラの演奏者を自分の共同者と見なし、「まさに思いやりのある感じやすい人間」だったこと、さらにクナッパーツブッシュもオーケストラもよく知っている楽曲でも、決して暗譜で指揮をせず、常にスコアを前に置きながらもその目はスコアには注がれずに、常に注意をオーケストラに向けていたことについて触れている。
トスカニーニは強度の近眼のためと言われているが、暗譜で指揮をした。それに対してクナッパーツブッシュは絶対にスコアなしでは指揮をしなかった。その理由を聞かれると「私は楽譜が読めるのだよ」という、人を食ったような答えが返ってきた。シュトラッサーによると「これは警句であるよりも確言である」そうである(前掲書)。
さらに、シュトラッサーはクナッパーツブッシュの口の悪さについても書いている。
「特に舞台上でミスが行われたときには、往々彼の口から全く無遠慮な言葉が発せられた。下手に歌う女性歌手たちには、最も失礼な言葉”Ziege”(訳注=「あま」とか「薄のろ女」という意味の女性蔑称の言葉)が常に使われ、彼が男に対して吐いた言葉は、平土間席の全部に聞こえるほどであったにせよ、文字で再現するのは適当ではない」(前掲書)。
よほどクナッパーツブッシュの悪口雑言は活字にするのがはばかれるほど下品だったのだろう。その後、シュトラッサーはアインザッツが揃わなかった場合、クナッパーツブッシュがどのようにその破綻を救ったかを書き、「彼の口から出るすべての悪い言葉は全く独特の響きを持っていて、人に嫌悪感を感じさせず、そのようなことを口にしても、彼はやはり紳士であった」と結んでいる。
この時のザルツブルク音楽祭の指揮者陣は豪華で、トスカニーニを筆頭に、ワルター、クナッパーツブッシュ、ワインガルトナー、ロジンスキー、そしてさらにフルトヴェングラーがザルツブルク音楽祭初登場になった。折から、ウィーン・フィルはトスカニーニとの蜜月期間で、トスカニーニはナチを激しく嫌い、ドイツ国内での演奏を拒否していたことは前述した。フルトヴェングラーはベートーヴェン/交響曲第9番を指揮している。
ただ、フルトヴェングラーはオーストリアにとって敵性国家ドイツのプロイセン枢密院顧問官であり、この時の批評家、聴衆の受けはあまり良くなかった。「栄光のウィーン・フィル」でオットー・シュトラッサーは「トスカニーニを凌駕できるほどの」演奏だったと回想しているが、批評家はフルトヴェングラーに冷淡であったことも書いている。
ザルツブルクの街中でトスカニーニとフルトヴェングラーがばったり出くわし、「なぜドイツを出国しないのか」で口論になったのはこの年のことである。クルト・リース「フルトヴェングラー」(みすず書房)にその顛末が載っているが、リースのフルトヴェングラー擁護のバイアスがかなりかかっており、正確なものかどうかは分からない。
ザルツブルク音楽祭のこの頃の音楽総監督はシュトラッサーの「栄光のウィーン・フィル」によるとワルターである。曲目やリハーサルの日程など、クナッパーツブッシュと打ち合わせをしているはずだが、ワルターの「主題と変奏」にはその時の自分の演目にいかに没頭したかが書いてあるだけで、クナッパーツブッシュの名前は出てこない。「ブルーノ・ワルターの手紙」にもクナッパーツブッシュの名前はまったく出てこない。まるでワルターとクナッパーツブッシュにには接点がなかったかのようである。
1937/09/01 R.シュトラウス / 「ばらの騎士」 ウィーン. Neues Wiener Journal dated 02.09 page 14 / “Rosenkavalier mit Lehmann”
1937/09/04 R.シュトラウス / 「エレクトラ」 ウィーン
1937/09/14 ベートーヴェン / 「フィデリオ」 ウィーン
1937/09/18 モーツァルト / 「ドン・ジョヴァンニ」 ウィーン
1937/09/19 ワーグナー / 「タンホイザー」 ウィーン
1937/10/03 R.シュトラウス / 「エレクトラ」 ウィーン
1937/10/04 ワーグナー / 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ウィーン
1937/10/08 ベートーヴェン / 「フィデリオ」 ウィーン
1937/10/27 VPO, ウィーン. Broadcasted by RAVAG at 19/25
1937/10/31 ワーグナー / 「パルジファル」 ウィーン
1937/11/01 ワーグナー / 「パルジファル」 ウィーン. Review in Neues Wiener Journal dated 02.11 page 10
1937/11/04 ワーグナー / 「ローエングリン」 ウィーン
1937/11/04 NFP page 10 “Die kuenstlerische Taetigkeit Hans Knappertsbusch’ ” (The artistic activity of Hans Knappertsbusch). [It is mentioned that he gave recently 2 concerts in Stuttgart and 1 in Koeln (Cologne). It’s also mentioned that he’ll also give one concert in Koenigsberg [obviously the one on 21.11] and from there he’ll go to his home in Munich. In December, he’ll conduct one concert in Amsterdam, “Rosenkavalier” and “「パルジファル」” in Antwerp, twice “Tristan” in Brussels and once in Liege. On 02.01.38, he’ll conduct ベートーヴェン Egmont overture and Symphonies no. 8 & no. 2 in Dresden. On 24.01.38, he’ll conduct a concert in Graz in which the emphasis will be on Brahms. In February, he’ll conduct two concerts in Florence / On 13.02.38 「パルジファル」, Tristan and Meistersinger preludes and Siefried’s Rhine Journey. In the second concert, Schubert’s overture in Italian style and Respighi’s Orchestral Suite. In the last week of February, he’ll conduct opera
and
concerts in Basel and Zuerich. In March, he’ll give 2 concerts with the ウィーン Philharmonic. Tremine confirms that the Koenigsberg, Dresden, Graz and Firenze performances took place (see below)]
1937/11/13 ベートーヴェン / 「フィデリオ」 ウィーン
1937/11/19 R.シュトラウス / 「ばらの騎士」 ウィーン
1937/11/20 ワーグナー / 「タンホイザー」 (Max Lorenz) ウィーン. Neues Wiener Journal dated 21.11 page 25 / “Tannhauser”.
1937/11/21 ケーニヒスベルクに客演 ベートーヴェン / Egmont overture, Piano concerto no. 5 ([Alfred ?] Hoehn), Symphony no. 3. Orchester des Senders (Radio Orchestra),
1937/12/04 R.シュトラウス / 「エレクトラ」 ウィーン
1937/12/07 ワーグナー / 「ローエングリン」 ウィーン.
1937/12/10 Neues Wiener Journal page 10 / ” Kna geht ? ” (“Will Kna leave ?”) with a nice small drawing.
1937/12/11 ワーグナー / 「タンホイザー」 ウィーン
1937/12/21 アントワープに客演 R.シュトラウス / 「サロメ」 (Mimi Jost-Arden [same as Ruth Jost Arden ?]) ロイヤル・フランダース・オペラ
(Rene Trémine data)
全部ではないが、「パルジファル」、「タンホイザー」の録音が残っている。
1月7日、ドイツ軍はスペインのフランコ反乱軍支援のため、モロッコに侵入する。この前後、スペイン政府軍によるドイツ船の拿捕があり、その解放の問題を含めてスペイン内乱をめぐる各国の反応が急を告げ始めている。ドイツとイタリアはフランコ反乱軍への義勇軍派遣禁止案を事実上拒否した。
政府がフランコ政権を支持していても、ドイツの民衆の中には政府軍である人民戦線に同情的な者がいたことは興味深い。2月9日にはナチのお膝元ミュンヘンやアーヘンなどで人民戦線救援活動をしていた80名が逮捕されている(全記録)。
スペイン内乱を巡っては、各国の人民戦線に加担する者が義勇軍(国際旅団)に加わった。作家アーネスト・ヘミングウェイもそのひとりである。他に、後のフランス文化相になるアンドレ・マルローも国際旅団に参加している。ドイツ国内からも国際旅団に参加する者があったらしい。2月18日には国際旅団参加阻止のための法律が作られている。
1月27日、「ドイツ=オーストリア通商協定」調印。前年の「友好協定」に引き続き、オーストリアは独立を確保する変わりに、さまざまにドイツの圧迫を受けることになる。
4月26日、スペインに派遣されていたドイツ空軍は、スペインの古いバスク地方の都市ゲルニカを無差別爆撃する。バスク地方は言葉が独特で、また早くから人民戦線側につき、兵站の要衝だった。ゲルニカの住民7000人のうち1654人が死亡し、街は壊滅した。ドイツ空軍「コンドル軍団」による実戦経験のための作戦でもあった。翌1938年の日本軍による重慶無差別爆撃とともに、戦時下における都市に対する無差別爆撃の端緒となった。
5月1日、入党を一時停止していたナチ党は、一時的に停止を解除する(1939年5月1日に正式に解除)。
5月29日、ドイツ戦艦ドイチェラント号がスペイン政府軍の空軍に攻撃され、22名の死者、負傷者83名を出す。報復としてドイツ海軍はUボートをスペイン沖に配備する。ところが、さらに6月19日にスペイン政府軍の潜水艦がドイツ巡洋艦ライプツィヒを魚雷攻撃、被害はなかったもののヒトラーは態度を硬化させ、スペイン内乱への参入を検討する。
また、この前後からオーストリア大使パーペンや他の閣僚を交えて、オーストリア併合のタイミングも検討された。
7月19日、ゲッベルスの主導で、新しく建築されたミュンヘン「美術の館」において「頽廃美術展」が開催される。前日の18日、「美術の館」完成のための(落成式にはヒトラーも出席。「美術の館」は現在も残っている)「大ドイツ美術展」が開かれ、そのナチが賞揚する美術作品に対し、ナチによって「頽廃」と名付けられた作品群が見せしめのために展示された。シャガール、クレー、キルヒナー、ノルデ、ゴッホ、セザンヌ、ピカソなどの絵画が「頽廃美術」として展示されたが、ナチの賞揚する「大ドイツ美術展」よりも圧倒的に人気があり、「大ドイツ美術展」の約5倍の市民が「見せしめのためのさらしもの」鑑賞のためにつめかけた。
9月25~29日 イタリアのムッソリーニ、ドイツを訪問。ドイツの隆盛ぶりにムッソリーニが優位であった立場は逆転する。この時の首脳会談で「スペイン内乱でのフランコ反乱軍援助」、「日本との連携強化でドイツ・イタリア同盟に参加させる」ことなどが決定される。
当時の記録映画を見ると実に面白い光景に出くわす。ヒトラーとドイツに到着したばかりのムッソリーニは並んで歩くのだが、まるで競歩をしているようなのだ。閲兵中、走るわけには行かないが、どちらが元気で足が速いか競っている風である。両者とも歩き方や手の振り方を見ていると、無理をしているのが分かる。顔が笑顔のままというのがさらに面白い。
ムッソリーニはバルト海でのドイツ海軍の実射訓練、軍事パレード、クルップの工場や化学工場を見学、隆盛するドイツ国力、ヒトラーの指導力に肝をつぶす。
10月13日、「ドイツ・ベルギー不可侵条約」が締結される。ヒトラーにとっては、単に外交上の欺瞞行為だった。
ヒトラーの目的は戦争とユダヤ人処理にあり、ドイツの「生活圏問題」を大管区指導者に語ることによって、戦争への準備を秘密裏に進め始めた。
11月3日、ゲッベルスは新聞界代表に集め、「全体戦争の向けての動員準備」を極秘指令する。戦争に向けてのさらなる世論操作が行われ始める。
11月5日 ヒトラー、軍・政府の最高首脳を集めて「生活圏獲得の戦争計画」を初めて開陳する。これは極秘事項だったが、ヒトラーの副官であったフリードリヒ・ホスバッハ海軍大佐が議事のメモと記憶から作成した「覚書」で、その会議の存在が明らかになった。
11月6日 「日独伊三国防共協定」がローマで調印。このとき、翌年外相に就任するリッベントロップはムッソリーニから、オーストリア併合に対する譲歩を得る。
12月11日、イタリアではムッソリーニが大群衆を前に、国際連盟脱退の演説を行った。
12月20日、1923年のミュンヘン一揆でヒトラーと肩を並べて歩いたルーデンドルフが死去、22日の葬儀にヒトラーも参列した。
この年から、ソヴィエトではスターリンによる赤軍大粛正が始まっている。ソヴィエト共産党一党独裁というより、スターリン独裁が始まろうとしていた。この粛正でソヴィエト軍の高級将校のほとんどが処刑され、革命の基盤を作った功労者たちも逮捕、処刑されてゆく。
昭和12年の日本、7月7日、中国で蘆溝橋事件が勃発、日中戦争への導火線となった。毎日新聞社刊「昭和全記録」によると、事件の発端は謎だそうである。中国軍の発砲が最初にあったことになっていて、日本軍駐屯部隊はやむを得ず応戦したとある。
この6月4日に成立し、国民に人気の高かった近衛文麿内閣は、陸軍の「一撃論(一撃を加えれば中国は屈服する)」を採用、5個師団の中国増援部隊の派兵を決定する。
中国側の蒋介石は日中開戦には国力がそこまで達していないということで反対だった。中国共産党の周恩来を交えた国防会議(蘆山会議)で蒋介石は日本との全面軍事衝突は国の存亡に関わり、極力避けたいという演説を行っている(「最後の関頭」ということばを蒋介石は使った)。
7月28日日本軍は華北で総攻撃を開始、7月30日には天津を占領した。日中開戦の緊迫度が増し、漢口、南京の日本人居留民は上海に引き上げることになった。
その上海で、8月9日、日本海軍特別陸戦隊の将校が車で走行中、中国保安隊に銃撃され、蜂の巣のようにされて死亡する事件が起こった。上海の共同租界越回路(各国の人々が自由に往来できた)での出来事で、蒋介石の意見に組みしない中国側保安部隊の極度の緊張状態にあった中で起こった事件だったと言われている。
ただ、軍事的駆け引きが続いている頃で、日本僧侶襲撃事件がこの前に起こっているが、それは日本軍が仕組んだ事件だったという見方もある。日本軍は戦争を望んでいたからだ。この上海での海軍陸戦隊の将校が殺された事件は、戦端を開きたい日本軍にとって、かっこうの口実となった。
8月13日、上海で日本海軍陸戦隊と中国軍の交戦が始まる。第二次上海事変と呼ばれる。
8月15日、蒋介石は対日抗戦総動員令を発令、宣戦布告なき戦争へと日本、中国は突っ走り始める。中国は国共合作で対日本戦を戦うことになった。
当時、日本は最初中国東北部で起こった戦争のため「北支事変」、中国の広範囲に拡大した戦争のため改称して「支那事変」と総称した。
さらに11月17日、大本営が設置され、日本における軍事独裁が確立された。大本営は天皇統帥権下にあり、政府とは独立した組織だった。近衛首相は11月27日に「南京を陥落させずに包囲し、中国の面子を保ったまま和平を結べ」という内容の進言を受けたが、「もはやそうする力なし」と返答せざるを得なかった。
12月12日、日本軍は南京に入城する。その時、中国軍兵士は戦線を離脱、あるいはゲリラ攻撃を行うため、軍服を脱ぎ、一般の市民の服装(弁衣)に着替えた。そのため、日本軍は目の前の中国人が兵士なのか一般市民なのかを区別できず、市民を大量に巻き込んだ大殺害事件が起こった。「南京大虐殺」と呼ばれる。今でもその真相について、日本、中国双方で議論が続いている。
中国での戦争のため、日本では国民精神総動員運動が展開されたが、その時の広告コピーが毎日新聞社刊昭和大全集に紹介されている。「空爆にキャラメル持って!」、「南京陥落、三楽(清酒)で乾杯」、「軍民一如、挙って家庭報国まず台所の無駄を省きませう!」(化学調味料)。
標語は「国民精神総動員」、「堅忍持久」、「享楽廃止」などで「パーマネントはやめましょう」というのも含まれている。