1938年のあたりから、ドイツ国内の動き、ヒトラーの動きとクナッパーツブッシュの活動は時系列に並べないと訳が分からなくなる。第二次世界大戦が終わるまで年表の延長のような形式になってしまった。
1938/01/02 ドレスデンに客演 ベートーヴェン/「エグモント」序曲,交響曲第8番,交響曲第2番 ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団
1938/01/13 ワーグナー/「ローエングリン」 (Maria Müller (Elsa)) ウィーン. NFP dated 15.01
1938/01/24 グラーツに客演 モーツァルト/「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」,ブラームス/交響曲第3番 グラーツ市立管弦楽団, 同時放送あり
1938/01/31 アテネに客演 ベートーヴェン/「エグモント」序曲, モーツァルト/交響曲第38番, R.シュトラウス/「ドン・ファン」, ベートーヴェン/交響曲第7番
1938/02/07 アテネに客演 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲, シューマン/ピアノ協奏曲 (Spyros Farandatos), ワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死, ベートーヴェン/交響曲第3番 Athens
(René Trémine’s DATA)
1938年の新年早々、一時的にドイツ国内での指揮を許可されたのか、クナッパーツブッシュはドレスデンに客演した。ただ、客演先はシュターツカペレ・ドレスデンではなく、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団だった。オール・ベートーヴェン・プログラムで、「エグモント」序曲、交響曲第8番、交響曲第2番だった。クナッパーツブッシュがドイツ国内の指揮を本格的に許可されるまで、ドイツ国内で指揮をした記録があるのはこのドレスデンだけである。
また、Trémine DATAで、初めてアテネでの記録が出てきた。後年、クナッパーツブッシュは「アテネでも演奏したことがある」と語っているが、この時のものだろうか?
ウィーンで人気を集めつつあるクナッパーツブッシュだったが、この年の2月頃から雲行きが怪しくなる。ヒトラーの手が、かなり強引にオーストリアをつかもうとしていたのである。
その前にドイツでは国防軍をめぐる粛正が行われていた。
ヒトラーは軍の実力者であったブロンベルク国防相とフリッチェ陸軍最高司令官を、ナチ幹部が奸計で陥れるたことによって罷免し、自分が陸海空軍の三軍を統括する国防軍最高司令官になるという宣言を2月4日におこなった。前年、ホスバッハ覚書で明らかになった、他国に対するヒトラーの侵略作戦の一環を実行するためだったともいえる。
自分の思い通りに軍首脳が動かなければ、「生活圏獲得」のための予定が狂ってしまう。ブロンベルクは1月12日に再婚したばかりの新妻が元売春婦であったこと、フリッチェは同性愛を問題にされた。ただ、ふたりをめぐる真相はヒトラーに届けられた報告とは異なっており、奸計を仕組んだのは国防相の座を狙っていたゲーリング、親衛隊を国防軍に代える、あるいは国防軍の上位に置きたいヒムラー、ハイドリヒだったと言われている。
この軍の無血粛正に関連して、国防軍の上級将官16名が罷免され、44名が転属させられた。ヒトラーは軍の幕僚をナチ党員や意のままに操れる軍首脳に代えてしまう。そのことによって軍を戦争遂行のための組織へと変えていった。
さらに国防軍の組織替えだけではなく、外務省の人事も一新した。オーストリア公使パーペンもこの後、トルコ大使へと任地を替えられている。
国防軍、外務省の人事刷新は、ヒトラーやナチの政策に対して反対を唱えることのできる気骨のある人物を、ほぼすべて追い出してしまった。偶発的な事件ではなかったことが読みとれる。このことにより、さらなるヒトラーとナチ幹部に対する権力の集中が行われるようになった。「生活圏獲得」のための戦争を行うために、ドイツ国内の障壁は取り除かれたのである。
三軍を掌握したヒトラーは2月12日、友好協定や通商協定を結んだオーストリアのシュシュニク首相をベルヒテスガーデンに呼びつける。逡巡し、抵抗するシュシュニクに対し、ヒトラーやリッベントロップ外相は恫喝の末、結局「ベルヒテスガーデン協定」に署名させる。ヒトラーは軍事行動によるオーストリア併合をちらつかせてシュシュニクを脅迫したが、この時の協定は「オーストリアにおけるナチ党禁止令の解除、ナチ政治犯解放、ナチ党員で弁護士のザイス・インクヴァルトの内務相就任(警察権の把握)、フィルベックの経済相就任(ドイツ経済との同化)」というもので、まだオーストリア併合の最後通告は含まれていない。オーストリア大統領ミクラスもこの協定に同意せざるを得なかった。
2月 クナッパーツブッシュはフィレンツェに客演した。
1938/02/13 テアトロ・コムナーレ。フィオレンティーナ・スタービレ管弦楽団。ワーグナー/「パルジファル」第一幕への前奏曲、ワーグナー/「神々の黄昏」よりジークフリートのラインへの旅、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲、ブラームス/交響曲第2番
1938/02/16 テアトロ・コムナーレ。フィオレンティーナ・スタービレ管弦楽団。モーツァルト/交響曲第三8番、レスピーギ/「リュートのための古代のアリアと舞曲」第2番、チャイコフスキー/交響曲第5番
(I found the following concerts in a book listing concerts and performances given at the Teatro Comunale in Florence :from Mr.George Zepos 2011/5/23)
Just for reference, the titles of the book is : “Teatro Comunale di Firenze. Maggio Musicale Fiorentino Fondazione. Catalogo delle manifestazioni 1928 – 1997. Progetto : Aloma Bardi. A cura di Aloma Bardi e Mauro Conti. Realizzazione : Prescott Productions, Firenze. Volume I, Schede. Volume II, Index. Casa Editrice Le Lettere ISBN 88-7166-438-8”.
Volume I mentions the concerts, performances etc. Volume 2 is a DATAiled index.
In volume 2, all Knappertsbusch concerts are mentioned in page 355. They are described by a code number representing each concert and the respective season. In volume 1, the concerts are mention in DATAil as follows :
13.2.1938 and 16.2.1938 in page 54. 4.12.1949, 8.12.1949 and 11.12.1949 in page 136. 11.3.1951 in page 144. 2.3.1952 in page 151.
In the book “Storia del Maggio. Dalla nascita della “Stabile Orchestrale Fiorentina (1928) al festival del 1993. Libreria Musicale Italiana” by Leonardo Pinzauti is mentioned that the two 1938 concerts were a big success (page 42) and that the 1952 Beethoven 9th was a memorable performance (page 98). Interestingly, some concerts in 1938 weren’t successful.from Mr.George Zepos.
1938/02月下旬 バーゼルとチューリッヒでオペラの公演 [ただし、Trémineはこれらのデータに疑問符をつけている]
1938/03/03ワーグナー/「ローエングリン」 ウィーン. NFP dated 05.03 page 11
1938/03/05,06 レスピーギ/リュートのための古風な舞曲とアリア第2番, モーツァルト/交響曲第29番, ベートーヴェン/「レオノーレ」序曲第1番、交響曲第2番 ウィーン・フィル, VPO, MVS. Wiener Zeitung dated 08.03 page 8, NFP dated 08.03 page 10.
(René Trémine’s DATA)
ナチ政治犯の釈放、インクヴァルトの内相就任を経ながらも、シュシュニクはまだヒトラーに対し抵抗の姿勢を崩さなかった。2月24日の国会では「オーストリアの独立は放棄しない、これ以上、ドイツには譲歩しない」と演説をしている。
しかし、オーストリア国内ではオーストリア・ナチによる「ドイツとの併合」を希望する示威活動やテロが繰り返され、オーストリアの国内情勢は大きくドイツとの併合へと傾いてゆく。なにより民心がドイツへの併合へと大きく傾いてしまった。
3月9日、シュシュニクは「ドイツとの併合賛否のオーストリア国民投票を行う」と独断で演説、ヒトラーはそのことに激怒し、オーストリア侵攻のための「オットー作戦」を発動した。この時ヒトラーは神経過敏になり、指令を出したり取り消したり、かなり逡巡し動揺していたらしい。それをゲーリングが強引に急き立て、主導した(全記録)。
3月11日 オーストリア併合のための「オットー作戦」開始指令。ドイツの圧力に屈したシュシュニク首相は辞任に追い込まれる。ヒトラーの心配の種だったムッソリーニは前年のドイツ訪問で骨抜きにされ、中立を守ると確約する。
3月12日 午前8時、ドイツ軍はオーストリアに侵入。深夜、ウィーンに入城する。オーストリア侵攻の名目は、シュシュニクに代わって首相になったインクヴァルトの要請というものだった。オーストリア国内に入ったドイツ軍は市民から熱烈な歓迎を受ける。ヒトラーもミュンヘンから自動車で生まれ故郷ブラウナウに入り、リンツで宿泊する。ヒトラーは感無量になり、オーストリア併合の調印で涙を流した。
クナッパーツブッシュはヒトラーとシュシュニクの駆け引きは知らず、イタリアからオーストリアに戻る。
3月12日はウィーン国立歌劇場でワーグナー/「トリスタンとイゾルデ」を指揮する予定だった。
ドイツによるオーストリア侵攻の日、ちょうどクナッパーツブッシュの50歳の誕生日だった。シュトラッサーの「栄光のウィーン・フィル」では、12日午前中はクナッパーツブッシュとリハーサルの予定だったと書いている。実際にリハーサルが行われたかどうかまでは、残念ながら書かれていない。また、Wiener Staatsoper Archivesにも公演記載がないので、公演は行われなかった可能性が高い。ドイツ軍のオーストリア侵攻によって、ドイツで演奏禁止の処分を受けているクナッパーツブッシュの立場は、いきなり微妙なものに変わってしまった。
ワルターはその時、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団への客演のため、オランダにいた。アムステルダムで、オーストリアの死とドイツ軍の侵攻をラジオで聞いている。ワルターは娘を一人ウィーンに残したまま、オーストリアに帰れなくなってしまった。
ワルターがオーストリアの断末魔をラジオで聞いたのは3月11日の午後からだった。ニュースとその合間にウィンナ・ワルツ、シュシュニクの演説、ハイドンの作曲したオーストリア国歌が続き、いきなり放送内容が変わった生々しい様子をワルターは「主題と変奏」で回想している。
「新しい音が私たちの耳にとびこんできた。もはやウィーン放送局のニュースを、プロイセン人のかたい声がひきついだのであった。その声は硬く短い文章で、オーストリア占領の侵攻を報道した。そして、ワルツにとって代わったとどろくようなプロイセンの軍楽が、何が起こったかを音楽的な象徴によって証明していた」(「主題と変奏」)。
シュシュニクはドイツ軍のオーストリア侵攻後、逮捕されてダッハウの強制収容所で強制労働に従事させられていたが、1945年アメリカ軍に解放され、アメリカの大学で教鞭を執った。1977年に亡くなっている。
翌日13日にはすでにルイス・ロートシルト(ロスチャイルド)男爵の逮捕など、オーストリア在住のユダヤ人に対する迫害が始まっている。ウィーン国立歌劇場やウィーン・フィルではアーノルト・ロゼーとチェリストのブックスバウムがユダヤ人で、しかも高齢であったため、強制的に定年退職させられた。シュトラッサーはドイツのオーストリア併合時の混乱期、クナッパーツブッシュについても触れている。
「あの頃、私は度々ケルバー博士(国立歌劇場総監督)と話す機会があり、それで、彼の直面させられていた困難をよく知ることができた。というのは、誰が引き続き弾くことを許されるのか、誰が歌うことができるのか、彼には皆目つかめなかったのだ。このような機会に、ケルバー博士の事務室で私はクナッパーツブッシュに出会った。彼もまた党から愛されていない人物に属し、その地位は、他の多くの人たちと同様、全く不明のままだったのだ。『今や彼らは私を征服した』と彼は言った」(「栄光のウィーン・フィル」)。
この後クナッパーツブッシュは、ファシズムの国での指揮を拒絶しているトスカニーニのことに触れ「きっとあなた方は嬉しいだろう。あのトスカニーニがもう彼のリハーサルであなた方を悩まさないのだから!」という言葉を付け加えてしまう。トスカニーニの指揮の元で黄金期を迎えたウィーン・フィルのシュトラッサーは、そのクナッパーツブッシュの言葉に猛反発した。「どんなに彼が、私たちと、トスカニーニに対する私たちの関係を誤解していたことか!」とシュトラッサーを怒らせてしまっている(「栄光のウィーン・フィル」)。
3月14日、ヒトラー、熱烈な歓迎で興奮の渦となっているウィーンに到着する。翌15日、ヒトラーは20万人のウィーン市民に向かって演説した。
クナッパーツブッシュは不安定な地位のまま、3月17日にウィーン国立歌劇場でベートーヴェン/「フィデリオ」を指揮したという記録が残っているが、Wiener Staatsoper Archivesには記載がない。アニー・コネツニがレオノーレを、ヨーゼフ・カレンベルクがフロレスタンを歌ったことになっている。
ワルターが亡命せざるを得なくなったため、クナッパーツブッシュは、なし崩し的に肩書きのないままウィーン国立歌劇場の面倒を見ることになってしまった。クナッパーツブッシュは正式な音楽総監督(GMD)にはなっていない。クナッパーツブッシュの肩書きは「芸術顧問」だった。
ヒトラーもクナッパーツブッシュのウィーン国立歌劇場での地位を事後承諾をしていたようだ。1942年4月30日の夕食時の「テーブル・トーク」でクナッパーツブッシュのウィーン国立歌劇場での地位をある程度追認している発言が見える。
「偉大な指揮者は偉大な歌手に劣らず大切である。ワイマール共和国時代に優れた指揮者が大勢いれば、ブルーノ・ワルターのような輩が持てはやされるなどというばかげたこともなかっただろう。ウィーンではワルターは数のうちにも入っていなかったのだ。ミュンヘンとウィーンのユダヤ新聞がワルターをひいきにし、やぶからぼうにドイツで最高の指揮者だといいだしたのである。だが、結果はウィーンには期待はずれだった。かのウィーン交響楽団の指揮者になったものの、彼の音楽はビアホールの音楽にすぎなかったのだ。当然彼はくびになり、そこでウィーンっ子はよい指揮者が払拭しているのに気づき、クナッパーツブッシュを迎えたのである」ヒュー・トレヴァー=ローバー解説「ヒトラーのテーブル・トーク」吉田八岑監訳・三交社 1994/12/1)。
1938/03/19 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives,Günther Lesnig’s DATA
1938/03/21、ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルとコンサート。J.S.バッハ/ブランデンブルク協奏曲第3番、ブルックナー/交響曲第8番 福祉施設のための臨時コンサート
1938/03/25 ワーグナー/「ジークフリート」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1938/03/27 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
ドイツ=オーストリア併合を記念する公演の様相を呈し、ゲーリングが臨席する。ヒルデ・コネツニがレオノーレを、マックス・ロレンツがフロレスタンを歌った。
1938/04/06 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives,Günther Lesnig’s DATA
4月8日、ウィーン・フィルの当時の事務長オットー・シュトラッサーは危機的なウィーンの音楽状況を改善すべく、ベルリン郊外ポツダムのフルトヴェングラーを訪問する。ウィーン・フィルの首席指揮者にフルトヴェングラーを招聘するためである。
【クナッパーツブッシュ、ウィーンとバイエルン以外のドイツ国内での演奏許可】
ウィーンではクナッパーツブッシュのナチでの評価が不安定なため、ウィーン・フィルは急遽フルトヴェングラーに助けを求めることになった。そのため、シュトラッサーたちは何度か手紙のやりとりをし、フルトヴェングラーの首席指揮者への承諾を得ている。この日(4月8日)はウィーン・フィルの運営や非アーリア人の追放で、どの程度オーケストラが持ちこたえることができるか、などの細部を相談するためだった。また、4月22日と23日にウィーン・フィルはベルリンでフルトヴェングラーの指揮のもとコンサートを行う予定になっており、曲目などの細部が詰められた。
フルトヴェングラーがウィーン・フィルの首席指揮者になったからと言って、ウィーン・フィルに貼り付いているわけには行かなかったし、フルトヴェングラー自身もウィーン・フィルへの助力は惜しまないものの、100%ウィーン・フィルに情熱を傾けることはできない。そこで、定期演奏会の一部やコンサート・ツアーをクナッパーツブッシュに任せるということで話が付いた(ビットリオ・デ・サバータやメンゲルベルクの名前もその時に挙がっている)。
フルトヴェングラーの責任範囲はウィーン・フィルまでで、ウィーン国立歌劇場は音楽監督がいないまま、宙に浮いた形になってしまう。さらには、大ドイツに組み込まれたウィーン・フィルはさまざまなツアーをこなさなければならず、その指揮者を必要とした。
ベルリンでのコンサートの前後、シュトラッサーたちはクナッパーツブッシュの活動について、帝国音楽院副総裁ハインツ・ドレーヴェスに相談をした。ドレーヴェスはまだ若かったが、ゲッベルスの後ろ盾があり、帝国音楽院での権力はかなり大きかった。
リヒャルト・シュトラウス失脚後、ナチ党員でアーヘンの音楽監督をしていたペーター・ラーベが帝国音楽院総裁の職に就いた。ラーベの音楽観は保守主義で塗り固められているような観があり、ブラウンフェルスやウェーベルンなどの新しい音楽潮流には理解を示していなかった。
その保守性がナチにとっては都合が良かったはずだった。帝国音楽院総裁に就任した後、ラーベは作品の検閲よりも、ドイツ国内の音楽家たちの待遇面やその他で業績を上げたが、新しい作品の評価に対してゲッベルスと対立する。
ゲッベルスはラーベに対抗するため、まだ32歳と若いチューリンゲン州の小都市アルテンブルクの劇場支配人兼指揮者ハインツ・ドレーヴェスを雇い入れ、1937年3月、音楽院の責任者とした。その後、ゲッベルスはドレーヴェスを音楽院副総裁の地位につけ、音楽政策の責任者として権力を強化した。
オーストリア・ナチ党員でウィーンフィルの楽団長に抜擢されたウィルヘルム・イェルガーやオットー・シュトラッサーが、ウィーン・フィルの存続やさまざまな活動について画策していた時、ドレーヴェスが帝国音楽院で大きな権力を握っていたことになる。歌劇場は帝国劇場院の管轄だが、リヒャルト・シュトラウス失脚で音楽院も劇場院も、その活動の垣根は低くなっていたのか。さらにドレーヴェスは情報宣伝省の音楽局の責任者をも務めていた。そのため、本来ゲッベルスに雇われた仕事である新作の検閲だけではなく、オーケストラや歌劇場にも絶大な権力を持っていたものと思われる。
シュトラッサーたちの相談に対し、ドレーヴェスはバイエルンを除くドイツ国内でのクナッパーツブッシュの指揮活動に許可を出し、7月に予定されているウィーン・フィルのドイツ国内ツアーはクナッパーツブッシュの指揮で行うことができるようになった。ドイツ国内での指揮が可能ということになると、必然的にウィーンでの活動も認められることになる。シュトラッサーは「クナッパーツブッシュの立場をスッキリさせることができた」と、「栄光のウィーン・フィル」に書いている。
余談ながらドレーヴェスは1940年に、ドイツ人を楽員としたプラハ・ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団を設立、その実力は類似する同様のオーケストラに比べ際立っていた。プラハ・ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団の初代首席指揮者に就任したのは、フルトヴェングラーの紹介があったヨーゼフ・カイルベルトである。第二次世界大戦後、プラハ・ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団の楽団員はドイツに逃げ、そこで結成されたのがバンベルク交響楽団だった(以上、エリック・リーヴィー著「第三帝国の音楽」名古屋大学出版会 2000/12/25、オットー・シュトラッサー著「栄光のウィーン・フィル」、明石政紀著「第三帝国と音楽」水声社 1995/11/1からまとめた)。
1938/04/09 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1938/04/10 ウィーン・フィルと放送用録音。ウィンナ・ワルツなど軽い演目だった。
1938/04/13 ワーグナー/「パルジファル」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1938/04/15 コンツェルトハウスでウィーン・フィルとJ.S.バッハ/「マタイ受難曲」
4月23日 オーストリアは、古い歴史から名前を復活させ「オストマルク」と改名される。「東の辺境」という意味である。
1938/04/28 ワーグナー/「ローエングリン」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
5月3日から9日まで、ヒトラーと随員たちはイタリアを訪問、熱烈な歓迎を受ける。その陰でチェコスロヴァキアではドイツの動きに対する5月危機が生まれようとしていた。
1938/05/05 ワーグナー/「タンホイザー」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1938/05/07,08 ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの定期演奏会。プフィッツナー/管弦楽のためのスケルツォ ハ短調、モーツァルト/交響曲第41番「ジュピター」、リヒャルト・シュトラウス/家庭交響曲。
1938/05/08 夜 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives,Günther Lesnig’s DATA
1938/05/12 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1938/05/16 モーツァルト/「魔笛」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1938/05/20 R.シュトラウス/「ヨゼフの伝説」、プッチーニ/「ジャンニ・スキッキ」 ウィーン Günther Lesnig’s DATA,Wiener Staatsoper Archives
1938/05/27 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives,Günther Lesnig’s DATA
1938/06/01 ウィーン・フィルとドイツ=オーストリア併合記念コンサート。モーツァルト/ディヴェルティメント K.287、リヒャルト・シュトラウス/管楽器のためのセレナード、ハイドン/ドイツ国家、ホルスト・ヴェッセルの歌(ドイツ国家や「ホルスト・ヴェッセルの歌」をクナッパーツブッシュが指揮したのかどうかは分からない)。
この翌日、クナッパーツブッシュに新たな悲劇が待ち受けていた。6月2日、クナッパーツブッシュの一人娘、アニータの死だった。
アニータはミュンヘンの病院で脳腫瘍の手術中、あるいは手術後に19歳の生涯を終えた。アニータの子供の頃の写真を見ると、どことなくクナッパーツブッシュに似ているが、成長すると母親エレン譲りの美しい娘になっていた。シュトラッサーもアニータに会ったことがあるらしく、「クナッパーツブッシュの美しい一人娘」とその回想に書いている。
6月6日、アニータはクナッパーツブッシュと実母エレンの故郷エルバーフェルトに葬られた。クナッパーツブッシュは廟に作られた墓の鍵をペンダントにして常に身につけていたとシュトラッサーは書いている。
クナッパーツブッシュがエルバーフェルトからミュンヘンに戻り、自宅で悲しみの淵にに沈んでいるときに、シュトラッサーはミュンヘンで公演があったことを口実にクナッパーツブッシュを訪ねている。クナッパーツブッシュは薄暮の中を愛犬の大きなドイツ・シェパードを連れ、シュトラッサーの到着を待ち受けていた。
ウィーン・フィルとクナッパーツブッシュとは7月15日からドイツ国内を回るツアーが組まれており、シュトラッサーの訪問はその様子伺いの意味があったのだろう。ドレーヴェスから、バイエルン以外での演奏活動の許可はすでに降りていた。シュトラッサーがクナッパーツブッシュを尋ねた理由は、一人娘を失って悲しみに暮れているクナッパーツブッシュにツアーに参加するよう、確認と要請の意味もあったようである。ツアーに同行する他の実力を持った指揮者を見つけることは容易ではなかったからだ。
シュトラッサーは意気消沈しているクナッパーツブッシュと夜明けまで話し合い、クナッパーツブッシュはピアノで「神々の黄昏」から、ヴァルトラウテの小曲を弾いた。
「その日以来、異なった環境の人々の間にあるすべての隔たりを越えて、彼と私の間に一種の結びつきが生じた」
と、シュトラッサーはクナッパーツブッシュとの心の交流があったことを書いている(「栄光のウィーン・フィル」)。
その文章の中で、シュトラッサーはクナッパーツブッシュが登場するとすぐに指揮棒を振り下ろすことについて「オペラの場合、指揮台に突進して行って、聴衆の拍手の真っ最中に指揮を始めるのが彼の習慣だった。それは恐らく登場の際に必定な或る種の神経質と関係があって、それを彼はそのように克服しようと望んだのかも知れない。というのは、何事をも気にかけないように見える人物でも、開演に当たって甚だ神経質になることがあるのを、私はしばしば目にしたからである」
とクナッパーツブッシュの登場の仕方を分析している。
さらにシュトラッサーは、クナッパーツブッシュがあっさりとした物わかりのいい人物に見えるが、時間と各人の果たさなければならない義務には極めて厳格であったことを書いている(「栄光のウィーン・フィル」)。
7月15日より7月17日にかけて、ウィーン・フィルとドイツ国内演奏旅行に出かける。
1938/07/15 ルートヴィヒスハーフェン・アム・ラインでワーグナー/「タンホイザー」序曲、シューベルト/交響曲第8番「未完成」、リヒャルト・シュトラウス/ドン・ファン」、ベートーヴェン/交響曲第7番。ナチ主催のコンサートだった。
1938/07/16 同じくルートヴィヒスハーフェン・アム・ラインで2回コンサートは行われたようである。ウェーバー/「オベロン」序曲、シューベルト/交響曲第8番「未完成」、ワーグナー/「タンホイザー」序曲、モーツァルト/3つのドイツ舞曲 K.605、ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、ベートーヴェン/交響曲第8番。ナチ主催のコンサートだった。
リヒャルト・シュトラウス/「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、モーツァルト,セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲、ヨハン・シュトラウス2世/皇帝円舞曲、ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス/ピツィカート・ポルカ。
1938/07/17 カイザースラウテルンとザールブリュッケンで2回コンサート。2回ともルートヴィヒスハーフェン・アム・ラインと同じ曲目が演奏された。ただし、カイザースラウテルンではモーツァルト/ドイツ舞曲は記録がない。ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、シューベルト/交響曲第8番「未完成」、モーツァルト/3つのドイツ舞曲 K.605、リヒャルト・シュトラウス/「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」。
このツアーでは、ウィーン・フィルのコンサートマスター、フランツ・マイレッカーが「美しく青きドナウ」の部分を弾き振りしたようだ。
クナッパーツブッシュとウィーン・フィルとのツアーの最後は、ミュンヘンでの「ドイツ芸術の日」への参加のはずだったが、バイエルンではアドルフ・ワーグナーのクナッパーツブッシュ指揮禁止通告が生きており、ドレーヴェスの演奏許可もバイエルンまでは手が回らなかった。そのため、クナッパーツブッシュはミュンヘンでは指揮ができなかった。クナッパーツブッシュの代わりにリヒャルト・シュトラウス、ナチ党員の指揮者レオポルド・ライヒヴァインがウィーン・フィルを指揮をした(「栄光のウィーン・フィル」)。
7月27日からクナッパーツブッシュはザルツブルク音楽祭に参加する。
1938/07/27 オーケストラ・コンサートで、ブラームス/交響曲第3番、ベートーヴェン/交響曲第3番「エロイカ」
すでにワルターはザルツブルク音楽祭から去り、トスカニーニはザルツブルク音楽祭に対抗してスイスのルツェルンで音楽祭を開始していた。そのルツェルン音楽祭で指揮をしたのは、ザルツブルクへの出演を拒否したトスカニーニと、ザルツブルクを去ったワルターである。
その年のザルツブルク音楽祭は、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、オランダのウィレム・メンゲルベルク、イタリアのヴィットリオ・グイ、そしてザルツブルク音楽祭初登場のカール・ベームが指揮台に立った。シュトラッサーは、ザルツブルクの方がルツェルンよりもレヴェルが高いと誇らしげに書いているが、実際にはスター指揮者がふたりともルツェルンに登場していたため、戦々恐々としていた気持ちの裏返しだろう。
1938/07/29 ザルツブルク音楽祭でワーグナー/「タンホイザー」
この年のザルツブルクでは新しいホールが完成、クナッパーツブッシュの「タンホイザー」で幕を開ける予定だったが変更になり、フルトヴェングラーが「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(もともとはトスカニーニが指揮をする予定だった)でこけら落としを行った(「栄光のウィーン・フィル」)。
大ドイツ帝国に組み込まれたザルツブルク音楽祭で、クナッパーツブッシュは二番手指揮者に甘んじなければならなかった。フルトヴェングラーが前年敵性国家最大の指揮者として登場、芳しい評価を得られなかったことを考えると、一年で情況は大きく変わってしまった。ベームはモーツァルト「ドン・ジョバンニ」で大成功を収め、1943年のウィーン国立歌劇場音楽監督就任への足がかりを作る。
クナッパーツブッシュは8月末までザルツブルク音楽祭に留まり指揮を続ける。「タンホイザー」のほか、クナッパーツブッシュの担当は「フィデリオ」、「フィガロの結婚」だった。8月8日、ザルツブルク音楽祭でのベートーヴェン/「フィデリオ」の録音が一部残っている。
1938/07/30 ザルツブルク音楽祭 ベートーヴェン/「フィデリオ」
1938/08/01 ザルツブルク音楽祭 モーツァルト/「フィガロの結婚」
1938/08/08 ザルツブルク音楽祭 ベートーヴェン/「フィデリオ」
ザルツブルク音楽祭の合間、8月14日にアルプス山中の温泉保養地、バッドガシュタインの保養所ホールでコンサートを行ったという記録が残っている。ハイドン/交響曲第95番、モーツァルト/協奏交響曲、ベートーヴェン/交響曲第8番だった。
1938/08/24 ザルツブルク音楽祭 ベートーヴェン/「フィデリオ」
ザルツブルク音楽祭の合間、8月14日にアルプス山中の温泉保養地、バッドガシュタインの保養所ホールでコンサートを行ったという記録が残っている。ハイドン/交響曲第95番、モーツァルト/協奏交響曲、ベートーヴェン/交響曲第8番だった。
ウィーンに戻ったクナッパーツブッシュは9月2日、ウィーン国立歌劇場でモーツァルト/「魔笛」を指揮、ウィーン国立歌劇場の1938/39年のシーズンが幕を開ける。
1938/09/02 モーツァルト/「魔笛」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1938/09/04 ウィーン交響楽団 ベートーヴェン/「献堂式」序曲、「エグモント」より、交響曲第3番「英雄」 バーデン(昼間のコンサートだった)Wiener Symphoniker Archives
1938/09/04 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1938/09/11 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1938/09/15 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives,Günther Lesnig’s DATA
1938/09/18 モーツァルト/「フィガロの結婚」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
ウィーン国立歌劇場でのシーズンが始まると、クナッパーツブッシュは大忙しだった。クレメンス・クラウスはバイエルン州立歌劇音楽総監督に就任する前、ゲーリングに招かれてベルリン州立歌劇場の音楽監督になっているが、そのベルリンへの就任時、「クラウス・アンサンブル」といわれる優秀な歌手たちをごっそり引き連れて行ってしまっていたし、ユダヤ人歌手の出演は特別な場合を除いて不可能で(ヒトラーやナチ高官がファンの歌手にはお目こぼしがあったが、その数は少なかった)、ウィーン国立歌劇場は歌手を集めるのに苦労した。
この時期、「歌手陣は揃って脱退し、舞台上の運営は壊滅状態になった」とシュトラッサーは書いている。
ドイツ国内の歌劇場で歌手の奪い合いが行われていたことも大きな理由だ。歌手たちは条件の良い歌劇場へとながれてゆく。ベルリンでの州立歌劇場、市立歌劇場をめぐるライヴァル関係は優秀な歌手をひとりでも多く必要としたし、1937年からクラウスのいるミュンヘンは歌手たちにとって魅力的だった。ドイツ各都市の歌劇場も歌手獲得には汲々とせざるを得ない。さらにアメリカもドイツ・オーストリアで活躍する歌手たちに食指を伸ばしている。シュトラッサーは、当時のウィーン国立歌劇場は最悪のコンディションでのアンサンブルだったと書いている。
このシーズンの録音が一部残っている。
1938/09/19 ウィーン国立歌劇場 ワーグナー/「ワルキューレ」)
1938/09/22 ワーグナー/「ジークフリート」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives ただし、この録音は残っていない。また、前後の「ニーベルングの指環」チクルスの公演記録はWiener Staatsoper Archivesに記載がない。
1938/09/25 ウィーン国立歌劇場 ワーグナー/「神々の黄昏」
- 9月19日 ウィーン国立歌劇場 ワーグナー/「ワルキューレ」)(1)
- 9月19日 ウィーン国立歌劇場 ワーグナー/「ワルキューレ」)(2)
- 9月25日 ウィーン国立歌劇場 ワーグナー/「神々の黄昏」(1)
- 9月25日 ウィーン国立歌劇場 ワーグナー/「神々の黄昏」(2)
9月にはウィーン国立歌劇場でテノールのアントン・デルモータとコンサートを行ったという記録が残っている(Hunt)。マイヤール/「隠者の古鐘」、ワーグナー/「ラインの黄金」、リヒャルト・シュトラウス/「サロメ」、ヨハン・シュトラウス2世 /「こうもり」より、デルモータの歌曲でのコンサートだった。
【リヒャルト・シュトラウスとの決定的な仲違い】
10月15日、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「ダフネ」が、カール・ベームの指揮によってドレスデンで「平和の日」と抱き合わせの形で初演された(「平和の日」は7月14日、ミュンヘンでクレメンス・クラウスによって初演されていた)。
クナッパーツブッシュはそのことに怒り、リヒャルト・シュトラウスを許さなかった。クナッパーツブッシュはいつもリヒャルト・シュトラウスのオペラの初演を他の指揮者にさらわれ、「ミュンヘン初演」という二番手に甘んじなければならなかったことが、よほど悔しかったのだろうか。
クナッパーツブッシュの怒りに、リヒャルト・シュトラウスは戦争が終わった1945年、演出家ハルトマンへの手紙に「クナッパーツブッシュが[ミュンヘンの]劇場総支配人になったら、ミュンヘンでわたしの出る幕がなくなります。ミュンヘン解任以後、彼がどれほど敵意に満ちた振る舞いをしてきたか、ご存知でしょう」と書いていたことが奥波本の註に紹介されている。さらに、「シュトラウスの息子夫婦の取りなしにもかかわらず、両者の関係は修復されなかった」とある。
「アラベラ」の初演ができなかったクナッパーツブッシュは、次の次あたり(次は「無口な女」である)のオペラはぜひオレにと、リヒャルト・シュトラウスに頼んでいたのだろうか。リヒャルト・シュトラウスも、クナッパーツブッシュに初演を口約束していたのかも知れない。でないとクナッパーツブッシュの怒りが理解できない。
クナッパーツブッシュとリヒャルト・シュトラウスは決定的な仲違いをしたが、リヒャルト・シュトラウスのオペラや管弦楽曲は、その後も頻繁にクナッパーツブッシュによって演奏されている。クナッパーツブッシュの「ばらの騎士」への偏愛ぶりや、管弦楽曲の理解度もひじょうに高かった。クナッパーツブッシュはリヒャルト・シュトラウスの人を憎んで、その作品は愛していたのだろうか。
オーストリアを併合したヒトラーは、次にチェコのズデーデン地方(ドイツ系住民が多く生活している地域。350万人のドイツ人が生活していた。ズデーデン地方はプラハを取り囲むような複雑な形をしている)への侵攻を開始する。
9月30日、ドイツ、イタリア、イギリス、フランス4 カ国による「ミュンヘン協定」が成立。チェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲が決定される。ヒトラーの野望をなし崩し的に認めてしまったイギリス首相ネヴィル・チェンバレンの弱腰外交が非難される。
10月1日、チェコ侵攻作戦の「緑色作戦」が開始され、ドイツ軍はズデーテン地方に侵入する。
10月6日、チェコスロヴァキアにスロヴァキア自治政府が成立。ドイツを後ろ盾としてプレスブルク(ブラチスラヴァ)に首都をおいた。
1938/10/07 グルック/「ドン・ファン」バレエ音楽 Spielplan der Wiener Oper 1869 bis 1955
1938/10/09 R.シュトラウス/「ばらの騎士」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives,Günther Lesnig’s DATA
1938/10/11 R.シュトラウス/「サロメ」 ウィーン新演出 Spielplan der Wiener Oper 1869 bis 1955
1938/10/14 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1938/10/16 ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1938/10/19 フンパーディンク/「王様の子供たち」 ウィーン Spielplan der Wiener Oper 1869 bis 1955 新演出
1938/10/25 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1938/10/27 ダルベール/「低地」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
この時、特別列車を仕立ててチェコの南モラヴィアを視察に訪れたヒトラーは帰路、ウィーンに立ち寄ったようである。南モラヴィアとウィーンは極めて近いため、ヒトラーは27日の夜ウィーンに入ったものと考えられる。
その南モラヴィア訪問時、ヒトラーはウィーン国立歌劇場でオペラを見たいと言い出した。クナッパーツブッシュは大急ぎで間に合わせに補充されたアンサンブル(歌手)でリハーサルを行う。
「それでは到底、立派な出し物を上演することはできなかった。それはむしろ、ベルリン、ドレスデン、ミュンヘンの歌劇場に比べてウィーンがどれだけ見劣りがしているか示した観があった。クナッパーツブッシュはその夕べの指揮台に現れ、居合わせたすべての党のお歴々を苛々させたことに、ナチス式の『ハイル・ヒトラー』の敬礼をせず、深々と頭を下げ、それから指揮を始めた」(「栄光のウィーン・フィル」)。
1938/11/01 ワーグナー/「パルジファル」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1938/11/02 R.シュトラウス/「サロメ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives Günther Lesnig’s DATA
1938/11/23 ワーグナー/「タンホイザー」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
11月9日~10日 全ドイツでゲッベルス主導による組織的なユダヤ人大迫害が起こる。ユダヤ人商店の破壊と略奪、シナゴーグへの放火、ユダヤ人の恣意的虐殺、逮捕が行われた。割れたガラスがキラキラすることから「水晶の夜」と呼ばれる。
ところが、ゲッベルスは「水晶の夜」に対してゲーリングから「拙速、野蛮」と激しい非難を浴びた。そのため、ゲッベルスはユダヤ人問題から後退し、ゲーリング配下のヒムラーやハイドリヒがユダヤ人問題を担うことになる。
ゲーリングはユダヤ人に対し、パリのドイツ人外交官エルンスト・フォム・ラートがユダヤ人青年ヘルセル・グリンシュパンに殺害された事件の賠償をユダヤ人全体に求め(10億マルク)、ドイツ企業からのユダヤ人の排斥を公布、「水晶の夜」の街頭修復の義務をユダヤ人に負わせる。
ゲッベルスは帝国文化院を代表して13日、文化生活からユダヤ人を隔離、劇場、映画館、コンサート、ダンス・ホールへのユダヤ人立ち入りを禁じた。さらにヒムラーは12月5日に「ユダヤ人の運転免許の剥奪」の布告を行った。
1938/12/02 クナッパーツブッシュはベルリン・フィルハーモニー・ザールに初登場、ベルリン・フィルを定期演奏会で初めて指揮する。オール・ベートーヴェン・プログラムで、「エグモント」序曲、ヴァイオリン協奏曲(vn:エーリッヒ・レーン)、交響曲第3番「エロイカ」だった。
1938/12/17,18 ブリュッセルに客演、ベルギー国立管弦楽団を指揮する。シューベルト/イタリア風序曲、ヘンデル/ハープ協奏曲、モーツァルト/ハープ協奏曲 K.299(297c)、ブラームス/交響曲第3番。ハープは、ベルギー出身のアンダ・ルンタ・サッソーリだった。
1938/12/26 ヴェルディ/「アイーダ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
1938/12/29 ベートーヴェン/「フィデリオ」 ウィーン Wiener Staatsoper Archives
【クナッパーツブッシュの反ナチ・エピソード】
ウィーン時代のクナッパーツブッシュがナチをどれだけ嫌っていたのか、奥波本にはさまざまなエピソードが紹介されている。
クナッパーツブッシュがウィーンで真っ先に訪問した人物のひとりがウィーン・フィルのコンサートマスターでユダヤ人のアーノルト・ロゼーであったこと、ケーニヒスベルクでオーケストラに向かって「ドイツ式挨拶」をするのが慣習だと言われ、クナッパーツブッシュは「すばらしい!」の一言で、ズボンに手を突っ込んだまま「ハイル・ヒトラー!」とは言わずに「グーテン・モルゲン!」と挨拶をしたことは紹介した。
まだまだある。
「アメリカ行きを決めた男性歌手にねぎらいの言葉をかけていたところ、ドアが開き、制服姿のナチ党員が『ハイル・ヒトラー、音楽総監督!』と仰々しい挨拶をして入室してきた。『音楽総監督』は苦々しげにふりむき、『私の前ではいい加減そのばかげた挨拶はやめてくれ、わかったか』と怒鳴った。ナチが退出した後、『あまりにも不用意な発言ではないですか』と男性歌手が不安を口にしたところ、『まったくどうでもいいことです。これは持論だし、口に出さずにおれないのです』と答えたという」。
さらに「総統の演説放送が劇場内のスピーカーを通して流されることが度々あったが、(クナッパーツブッシュは)活字にできないような悪態を付きながら、スピーカーに向かって灰皿を投げつけていたという」。
ウィーン・フィルの楽団長をつとめ、後にアメリカに亡命し、トスカニーニの元で長く演奏するとことになるファゴット奏者フーゴー・ブルクハウザーは、当時のクナッパーツブッシュを評している。ブルクハウザーはナチに対抗するオーストリア・ファシスト党のドルフス・シュシュニク派であったため、ナチから睨まれていた。ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」で有名なトラップ大佐と境遇は同じである。
「ハンス・クナッパーツブッシュは、芸術家として人間として、フィルハーモニーのメンバーたちの最大の愛情を得ていた。『第三帝国』での国内亡命の年月にも彼は、堅固な性格の模範であって、それはすべての人たちの感嘆の的であった。(彼は国外には亡命しなかったが、国内で多くの圧迫に耐え忍んだのである。)彼はある時、言った。
『私は実地の指導者(体操などで)でもなければ、平泳ぎする者でもない。舵取り下男でもなければ、じゅうたん叩きでもない。私は、一人の指揮者であるよう努力している。』と。」(フーゴー・ブルクハウザー著「ウィーン・フィルハーモニー」芹澤ユリア訳 文化書房博文社 2002/12/1)。
またアンゼルム・フォイエルバッハの「ビアンカ・カペッロ」の肖像を描いた絵をクナッパーツブッシュが所有していて、ミュンヘン市当局がその絵画を買い上げ、ヒトラー50歳の誕生日の贈り物にしようとしていることを知ったとたん、クナッパーツブッシュは売却を断ったということも奥波本に紹介されている。
アンゼルム・フォイエルバッハは、「カスパー・ハウザー」や「バイエルン犯科帳」で高名な刑法学者アンゼルム・フォン・フォイエルバッハと同名だが別人で、1829年9月12日に生まれ、1880年1月4日に亡くなったドイツの画家である。古典的で重厚な構図、色使いで優れた絵を描いた。「ビアンカ・カペッロ」は現在も残っていて見ることができる。絵のサイズは縦136センチ横100ンチで、椅子に座る黒い喪服のような服を着て、手には扇子を持った美しい女性が重厚なタッチで描かれている。1868年に描かれた。フォイエルバッハはブラームスとも親交があった。
昭和13年の日本、1月に「中国国民政府をもはや相手とせず」と近衛首相は宣言をする。中国と日本は国交を断絶する。南京に日本の傀儡政権が作られた。
2月24日、対中国戦争遂行のため、国家総動員法が上程され、4月1日に公布、5月1日に施行される。
日本軍は徐州を攻略、中国国民政府は漢口から重慶・昆明へと政府機関を移転させざるをえなかった。
7月11日、中国東北部で日本とソヴィエトとの国境紛争が起こった。翌年の「ノモンハン事件」の先触れとなる。
この頃の日本は戦争遂行のため、国策に次ぐ国策でさまざまな流行や贅沢品が取り締まられた。牛革の代用として蛙やヘビの皮で靴が作られ、鮫の皮で洋服が作られたりした(実用化されたのかどうかまでは分からない)。国民服が制定されたのはこの年の9月である。
また白米禁止令が地方によって施行されるなど(東京はこの年だった)、日本はますます戦時色を濃くしている。