1940年1月、クナッパーツブッシュはバルメンでワーグナー/「ワルキューレ」を振ったという記録がある。ただ、細かな日程まではまだ分からない。翌々年からクナッパーツブッシュはバルメンで国家事業とも言えるドイツ・オーストリアのオーケストラ・メンバーによるワーグナー祭に参加するようになるので、その前触れかも知れない。
1月31日、2月1日 ムジークフェライン・ザールでウィーン交響楽団とコンサート。J.S.バッハ/プレリュードとフーガ ニ長調(オルガン独奏)、ベートーヴェン/交響曲第2番、ブラームス/交響曲第2番。
2月7日 ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。フランケンシュタイン/管弦楽のための舞踏組曲、プフィッツナー/ヴァイオリン協奏曲(vn:マックス・ストラーブ)、チャイコフスキー/交響曲第5番。
2月12日から13日にかけて、ドイツ・ポーランド国境の町、シュテッティン(シュチェチン)在住のユダヤ人がポーランドのルブリンに強制移送される(最初の強制移送)。ポーランドではユダヤ人狩りが本格化していた。
2月17日と18日 クナッパーツブッシュはウィーン、ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの定期演奏会。J.S.バッハ/ブランデンブルク協奏曲第3番、ブルックナー/交響曲第7番。
2月18日夜、ウィーン国立歌劇場 ワーグナー/「タンホイザー」。
2月20日にイギリス軍はドイツの中部工業地帯を爆撃する(すなわちルール地方)。まだそれほど大規模な爆撃ではなかったようだが、東部のポーランド戦線だけではなく、西部戦線でも戦争中であるということを改めて想起させる爆撃だった。
その爆撃の直後、2月22日からクナッパーツブッシュとウィーン・フィルはドイツ国内演奏旅行でルール地方に出かけている。まだこの頃は爆撃による被害はそれほど大きくなかったようだ。ただ、この後、クナッパーツブッシュの生まれ故郷であるヴッパータール市は相次ぐ空爆の被害に遭い、市の中心部は90%以上が焼失する。むろん、イギリスの目論見は、ドイツの軍需産業への打撃だった。
クナッパーツブッシュとウィーンフィルの日程は以下のようになる。
2月22日 エッセン
モーツァルト/セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、リヒャルト・シュトラウス/「死と変容」、ベートーヴェン/交響曲第5番、ヨハ ン・シュトラウス2世/「美しく青きドナウ」、ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス/「ピツィカート・ポルカ」
2月23日 ヴッパータール
ベートーヴェン/交響曲第2番、モーツァルト/セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、ブラームス/交響曲 第3番、ヨハン・シュトラウス2世/「美しく青きドナウ」、ヨハン・シュトラウス2世/「浮気心」、ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス /「ピツィカート・ポルカ」
2月24日デュッセルドルフ
ベートーヴェン.交響曲第2番、モーツァルト/セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、チャイコフスキー/交響曲第5番、ヨハン・シュトラウス2世.「美しく青きドナウ」
2月25日マイエン(Huntではマインツになっている)、デュースブルクと2回公演だった。
マイエン=ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲、モーツァルト/セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジー ク」、ヨハン・シュトラウス2世/「美しく青きドナウ」、ヨハン・シュトラウス2世/「人生を歓べ」、ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス /「ピツィカート・ポルカ」、ヨハン・シュトラウス2世/「浮気心」
デュースブルク=ベートーヴェン/交響曲第1番、リヒャルト・シュトラウス/「ドン・ファン」、モーツァルト/セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナ ハトムジーク」、ブラームス,交響曲/第3番、ヨハン・シュトラウス2世/「美しく青きドナウ」、ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス /「ピツィカート・ポルカ」
2月26日 クレーフェルト
ベートーヴェン/「エグモント」序曲、モーツァルト,交響曲第38番、リヒャルト・シュトラウス/「ドン・ファン」、ブラームス/交響曲第3番、ヨハン・シュトラウス2世/「美しく青きドナウ」
2月27日 ルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン。ナチ主催のコンサートだった。
ベートーヴェン/交響曲第5番、モーツァルト/セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、スメタナ/「モルダウ」、ワーグナー/「タンホイザー」 序曲、アンコール曲 ヨハン・シュトラウス2世/「美しく青きドナウ」
曲目はポピュラーな楽曲やウィンナ・ワルツが演奏されている。
3月10日にはウィーンに戻り、ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。レスピーギ/リュートのための古代の舞曲第2番、モーツァルト/セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、ブラームス/交響曲 第3番。
3月13日、ウィーン国立歌劇場 ヴェルディ/「アイーダ」(クナッパーツブッシュの駆け出し時代に、初めて「ケツをなめろ」という言葉を聞かせたヘルゲ・ロスヴェンゲがラダメスを歌った)。
3月19日、ウィーン国立歌劇場 ワーグナー/「パルジファル」。
3月27日、ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。レスピーギ/リュートのための古代の舞曲第2番、モーツァルト/ピアノ協奏曲第20番 K.466(p:ウィルヘルム・ケンプ)、チャイコフスキー,交響曲 第6番「悲愴」。
4月1日、クナッパーツブッシュがベルリン・フィルかウィーン・フィルとのバルカン半島へのツアーを断ったら、国益に関わる演奏旅行には今後、積極的に協力するとの言質を取られる。(奥波本)。
この言質を取られたということは、当時としてはひじょうな重みを持ち始めていたはずである。後年の人間の考えなら、「嫌なら断ればいいじゃないか」と考えがちだが、ナチの絶対的支配が進む中、あまりナチにとって覚えのよくないクナッパーツブッシュには断ることができなくなりつつあった。断れば、「国民社会主義に対して義務を果たしていない」ということになり、即、ドイツ・オーストリアでの指揮活動を禁止され、政治犯強制収容所に送られ、強制労働に従事させられるということもあり得る。実際、多くの知識人やナチに対して不服従であった者は「教育」という名のもとに強制収容所で労働をさせられた。中には収容所で死亡、あるいは第2次大戦が終結して解放されるまで出てこられなかった者もいた。ナチの方針に逆らうということは、それを覚悟しなければできないということなのである。
ナチは強力な警察国家を築き、隣人同士がお互いを監視し合い、反ナチ言動や態度を示すものは密告の対象となった。
4月9日、ドイツ軍はデンマークとノルウェーに侵攻を開始する。
4月10日と11日、ウィーン国立歌劇場でリヒャルト・シュトラウス/「エレクトラ」。新演出だった(Huntでは 9日の公演となっている)。
4月12日からベルリン州立歌劇場(リンデン・オーパー)に客演、「ニーベルングの指環」四部作を指揮する。また、ベルリンでヒトラー生誕記念コンサートの指揮をその合間に行った。
当時のベルリン州立歌劇場の実質的な音楽監督はまだ若いヘルベルト・フォン・カラヤンである(カラヤンは1908年4月5日、オーストリアのザルツブルクで生まれた。この時カラヤンは32歳である)。
ベルリン州立歌劇場は、フルトヴェングラー、エーリッヒ・クライバーの退任の後、しばらくレオ・ブレッヒがユダヤ人ながらドイツに居残って指揮をしていたが(ベルリン州立歌劇場を支配していたゲーリングは、「誰がユダヤ人かはオレが決める」と豪語した)、次第にドイツにいられなくなり、結局ベルリン州立歌劇場を追放され、亡命してしてしまう。
そのため、ベルリン州立歌劇場は指揮者不足だった。ベルリン州立歌劇場の指揮者陣はロベルト・ヘーガー、カール・エルメンドルフ、ヨハネス・シューラーといったひとたちで、地味な印象は拭えなかった。ベルリン州立歌劇場総支配人ティーティエンは、帝国音楽院総裁に就任したラーベの後を継いでアーヘンの音楽監督になり、ベルリン・フィルでもデビューし、成功していたカラヤンに目を付けた。
カラヤンは1938年9月30日にベルリン州立歌劇場でも衝撃的なデビューを果たす。演目は「フィデリオ」だった。そして、10月21日、「トリスタンとイゾルデ」で驚異的な成功を収める。「奇跡のカラヤン」という言葉がその時使われた。
ティーティエンはカラヤンと契約、カラヤンは1939年には「国家楽士」の称号を授与されている。 そのカラヤンの台頭に嫉妬心を燃やし、敵対し始めたのは、新聞で「カラヤンはフルトヴェングラーやデ・サバタにも匹敵する」と煽られたフルトヴェングラーだった。フルトヴェングラーはカラヤンをウィーン・フィルに招聘するなら、首席指揮者の地位を降りるとウィーン・フィルに脅しをかけている。フルトヴェングラー対カラヤンの確執は早くもこの時から始まっているが、対抗馬に据えられたカラヤンに対するフルトヴェングラーの一方的な敵愾心がことの発端であったようだ。
フルトヴェングラーの新聞などの論評やほかの指揮者の評判を気にしていたということはヴォルガング・シュトレーゼマンの著作にも記載がある。
「面白いことにフルトヴェングラーという人は、このように聴衆から熱狂的賛同を得ることによって、一年また一年と完成の域に近づいていったわけだが、終生、批判的論評にはことにほか神経を尖らせていた。」
「また驚いたことに彼は、注目を集める新進指揮者いると報じられるところに--それがはたして評判どおりの名指揮者であろうとなかろうと--好んで客演演奏を申し出た。あれは1953年のこと、すでに老成の域にあったこの大指揮者は、それでもまだ、若いドイツ人指揮者がベルリンでデビューしてその素晴らしい天分を世に広く認められたなどと聞くと、大あわてでその人物について調べ上げるのだった。ただし指揮者たちのあいだのこういった緊張関係などは日常茶飯のことで、べつにフルトヴェングラーだけが特別だったわけではない」(ヴォルフガング・シュトレーゼマン著香川檀=訳「栄光の軌跡 ベルリン・フィルハーモニー」音楽之友社)
しかし、カラヤンはベルリン国立歌劇場に貼り付いていたわけではなく、アーヘンとベルリンを往復しながらの活動だった。
ただ、カラヤンのベルリンにおける活動は順風満帆ではなかった。思いがけない横槍がカラヤンを襲うことになる。
カラヤンは1939年6月にベルリン州立歌劇場で「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を指揮した。ユーゴスラヴィアのパウル王子が招待され、ヒトラーも臨席した。
ところが、そのときハンス・ザックスを歌ったボッケルマンが酒に酔っており、カラヤンの指揮と齟齬を起こしてしまう。カラヤンはそのトラブルにうまく対処できず、演奏は混乱した。カラヤンはトスカニーニ張りに暗譜で指揮をしており、そのことがヒトラーを激怒させた。ヒトラーはボッケルマンの大ファンで、「ケルル(若造)」カラヤンの無能さと暗譜で指揮をするとは「思い上がりだ」とカラヤンを罵る。また、ヒトラーはカラヤンは軽量級の音楽家で、カラヤンの指揮するワーグナーの扱い方は充分に「ドイツ的」ではないと断じた(リチャード・オズボーン著「ヘルベルト・フォン・カラヤン」木村博江訳 白水社)。
ティーティエンは自信家カラヤンに対し、さまざまな忠告と指示を行うが、カラヤンの将来に対して危惧の念が生じていたのかも知れない。クナッパーツブッシュのベルリン歌劇場への招聘は、その「カラヤン後」を睨んだひとつの試みであったかも知れないと見ることができる。
なぜなら、クナッパーツブッシュは、この1年の内、三度もベルリン州立歌劇場に客演指揮者として招聘されているからだ。
クナッパーツブッシュのベルリン州立歌劇場でのこの時の記録は以下のとおりである。
- 4月12日 ベルリン州立歌劇場 ワーグナー/「ラインの黄金」
- 4月13日 ベルリン州立歌劇場 ワーグナー/「ワルキューレ」
- 4月20日 ベルリン州立歌劇場 ワーグナー/「ジークフリート」
- 4月21日と22日 ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとヒトラー生誕記念コンサート。ベートーヴェン/交響曲第9番。
- 4月26日 ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン芸術週間。モーツァルト/セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、ブルックナー/交響曲第7番
- 4月27日 ベルリン州立歌劇場 ワーグナー/「神々の黄昏」
4月30日、ポーランドのウーチに、最初のユダヤ人ゲットーが設置される。
5月3日、ドイツ軍に抵抗していたノルウェーの司令官は降伏声明を出す。
5月8日、ウィーンに戻ったクナッパーツブッシュはウィーン国立歌劇場でワーグナー/ラインの黄金」を指揮する。
5月10日、ドイツ軍はついにフランス、オランダ、ルクセンブルク、ベルギーの西部戦線で総攻撃を開始、「黄色作戦」と呼ばれる。本来、「黄色作戦」は1月16日に開始される予定だった。ところが電撃戦に必要な8日間の快晴が得られず(悪天候だと、空爆やグライダー部隊による急襲作戦ができない)、「黄色作戦」はこの5月まで延期されざるをえなかった。
一方この日、イギリスではチェンバレン内閣が倒れ、ウィンストン・チャーチルを首班とする戦時挙国一致内閣が成立する。西部戦線での全面戦争まで、もう少しのところまで来ていた。
ドイツ軍による「電撃戦」はもの凄いスピードでヨーロッパ西部を侵略してゆく。
5月12日、ウィーンでウィーン・フィルと帝国放送局の放送用録音。この時の録音が一部残っている。
- モーツァルト/交響曲第41番「ジュピター」(DREAMLIFEからCD化された)
- プフィッツナー/管弦楽のためのスケルツォ
- モーツァルト/セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
- ワーグナー/「神々の黄昏」より ジークフリートのラインへの旅
- ワーグナー/「タンホイザー」序曲(DREAMLIFEからCD化された)
5月13日、クナッパーツブッシュはウィーン国立歌劇場でワーグナー/「ワルキューレ」。
5月15日、オランダ軍降伏。
5月17日、ドイツ軍、フランス軍の要塞マジノ線を突破。同日、ベルギーの首都ブリュッセル陥落。
5月19日、クナッパーツブッシュはウィーン国立歌劇場 ワーグナー/「さまよえるオランダ人」。
5月24日 西部戦線での電撃戦で、フランスに上陸していたイギリス軍はダンケルクに追いつめられていた。ところが、イギリス軍が全滅の危機に瀕しているところに、この24日、突如ヒトラーはドイツ機甲部隊の進撃停止命令を出す。
ドイツ機甲師団の進撃停止で、イギリス軍は奇跡的な撤退を開始する。このヒトラーの命令により、イギリス軍の撤退が可能になった。撤退は6月3日まで続き、33万8226人のイギリス軍将兵と連合軍兵士がイギリス本土に逃れる。奇跡的な撤退作戦と呼ばれる。
ヒトラーが謎の命令を出していなければ、イギリス軍は全滅したかも知れなかった。多くの将兵が助かることによって、イギリス軍は反撃のための基礎を失わずにすんだ。第2次世界大戦の西部戦線における分岐点だったともいわれている。
ヒトラーがなぜドイツ軍機甲部隊の進撃を中止させたのか、いまだに謎のままだそうである。補給線が伸びきってしまったためとか、機甲部隊を温存したかったとか、いろいろな説がある。
5月26日、クナッパーツブッシュはムジークフェライン・ザールでウィーンフィルの予約演奏会。レズニチェク/「ドンナ・ディアナ」序曲、モーツァルト/3つのドイツ舞曲K.605、シューベルト/交響曲「未完成」、ベートーヴェン/交響曲第7番。
同夜、ウィーン国立歌劇場でワーグナー/「神々の黄昏」。おそらく5月中に「ニーベルングの指環」チクルスだったものと思われるが、「ジークフリート」のみ、記録に見えない。
5月28日、ベルギーはブリュッセルが陥落してもまだ戦闘を続けていたが、ベルギー国王レオポルトは突如の降伏命令を出す。ベルギー全軍が武装解除される。
5月31日 ミラノに客演。ミラノ・スカラ座管弦楽団。レスピーギ/「古代の舞曲とアリア」第2番、シューマン/ヴァイオリン協奏曲(vnジョルジョ・チオンピ)、ワーグナー/「ジークフリートのラインへの旅」、ベートーヴェン/交響曲第2番(第7回春のコンサート)
Sources :
1. Carlo Gatti Il Teatro alla Scala nella storia e nell’arte (1778 – 1963). Cronologia completa degli spettacoli e dei concerti a cura di Giampiero Tintori. Ricordi 1964
2. www.teatroallascala.org
from Mr.George Zepos(2011/06/4)
6月10日、イタリアのムッソリーニは、イギリス、フランスに宣戦布告して南フランスに侵入を開始。戦争に参加する。ヒトラーはようやく重い腰を上げたムッソリーニを歓迎したが、内心では「ハイエナ的態度」と軽蔑した。すでに西部戦線での帰趨は決していたからである。
6月14日、ドイツ軍はパリに無血入城する。
同日、アウシュヴィッツ強制収容所に、非ユダヤ人のポーランド人政治犯728人がタルノウから初めて移送され、本格的な稼働を開始する。
6月16日、クナッパーツブッシュはベルリン州立歌劇場に再登場、ワーグナー/「ワルキューレ」を指揮したという記録がある。
6月22日、第1次大戦でドイツが敗北した時、休戦の調印が行われた同じコンピエーニュの森で、ドイツ・フランス休戦協定調印。フランスに屈辱を与える。休戦交渉そのものは21日から始まっていた。フランスはペタン将軍の政府(後にフランス南部に首都を移しヴィシー政府となる)と、イギリスに亡命したドゴール将軍による政府の、ふたつの政府ができることになった。
6月23日、ヒトラー、パリを訪問し観光する。
7月3日、クナッパーツブッシュはムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルとヴェルディ/レクイエムを指揮。第2次世界大戦中、クナッパーツブッシュはたびたびヴェルディ/「レクイエム」を指揮した。
7月6日 西部戦線で圧倒的な勝利を収めたヒトラーはベルリンに凱旋する。ベルリン市民の熱狂的な歓迎に迎えられた。この時がヒトラーの最絶頂期だったといえる。
7月13日より ザルツブルク芸術週間が始まる。この年は「ザルツブルク音楽祭」ではない。名称が変更された。「戦時下」というゲッベルスの命令で、ザルツブルク音楽祭は中止されたからだ。
ウィーン・フィルは「ザルツブルク芸術週間」と名称を変え、オーケストラ・コンサートを自主公演する。クナッパーツブッシュ、ベームがその要請に応じ、ナチに人気の高かったオペレッタの作曲家兼指揮者レハールも指揮を担当した。
クナッパーツブッシュの担当した日程と演奏曲目は以下のとおりである。
- 7月13日 ベートーヴェン/「レオノーレ」序曲第3番、ブルックナー/交響曲第7番
- 7月23日 レスピーギ/リュートのための古代の舞曲第2番、シューマン/ピアノ協奏曲(p:エミール・フォン・ザウアー)、ベートーヴェン/交響曲第7番
- 7月25日と26日 スッペ/「美しきガラテア」序曲,ヨハン・シュトラウス2世/「ウィーンの森の物語」、ヨハン・シュトラウス2世/「浮気心」、コムツァーク2世/「バーデン娘」、ヨハン・シュトラウス2世/エジプト行進曲、ホイベルガー/「オペラ舞踏会」序曲,ランナー/「宮廷舞踏会の踊り」、ヨハン・シュトラウス2世/「常動曲」、ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス/「ピツィカート・ポルカ」、ツィーラー/「ウィーン娘」、ヨハン・シュトラウス2世/ラデツキー行進曲
- 7月27日 オール・ワーグナー・プログラムで、「ファウスト」序曲、「ジークフリート牧歌」、ヴェーゼンドンクの歌より3つの歌曲(s:ゲルトルート・リュンガー)、「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(s:ゲルトルート・リュンガー)、「神々の黄昏」よりジークフリートのラインへの旅、「タンホイザー」序曲
オットー・シュトラッサーによると、クナッパーツブッシュがコンサートでウィンナ・ワルツなどの軽い演目を指揮したのは、この時が最初で最後ではなかったかと回想している。ところがウィーン・フィルとの前年のクラクフでの演奏旅行の時にはウィンナ・ワルツが演目に載っている。クラクフではオーケストラそのものがウィーン・フィルではなくウィーン交響楽団だったか、ウィーン・フィルの他のメンバーが参加していたのかは分からない。
ザルツブルク芸術週間の終了2日後に、フルトヴェングラーがザルツブルクに登場、「特別コンサート」を指揮した。
8月2日、ヒトラーは「ヒトラー・ユーゲント」の指導者、バルドゥーア・フォン・シーラッハをウィーン大管区指導者に任命する。クナッパーツブッシュはたびたびウィーン国立歌劇場音楽監督への就任を要請され、断り続けていたという後年の証言があるが、シーラッハのウィーン大管区指導者就任により、クナッパーツブッシュは徐々に国立歌劇場やウィーン・フィルと距離を取り始める(奥波本、「指揮台の神々」)。
8月8日、ドイツ空軍によるイギリス本土攻撃開始。「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる。ドイツ空軍最高司令官ゲーリングは、イギリス軍各基地への爆撃を本格化させる。
8月24日、ドイツ空軍、夜間にロンドンを誤爆。初のロンドン空襲となる。
8月25日、イギリス空軍はロンドン空襲の報復として、ベルリンへの空襲を開始する。
クナッパーツブッシュはこの夏、ウィーン・フィルとレコーディングを行っている。すべて録音が残っている。
- ヴェルディ/「アイーダ」大行進曲
- ワーグナー/「リエンチ」序曲
- ヨハン・シュトラウス2世/「浮気心」
- ヨハンシュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス/「ピツィカート・ポルカ」
- ツィーラー/ 「ウィーン娘」
9月7日、4日に「報復の報復」としてヒトラーはロンドン夜間空襲の許可を出していたが、7日、ドイツ空軍はロンドンを中心とした都市部に夜間空爆を開始する。
9月7日から15日、クナッパーツブッシュはベルリン・フィルと占領地となったオランダ、ベルギー・ツアーを行う。オランダ、ベルギーともクナッパーツブッシュには馴染みの深い国だった。
この時、ピアノのエリー・ナイ、ソプラノのロザリント・フォン・シーラッハ、ヴァイオリンのジークフリート・ボリースと各地で共演したという記録が残っている。曲目はリヒャルト・シュトラウス、モーツァルト、ベートーヴェンなど。
エリー・ナイは熱狂的なヒトラーの信奉者で、ロザリント・フォン・シーラッハは、ウィーン大管区指導者に任命されたバルドゥーア・フォン・シーラッハの二人いる姉妹のひとりである。ロザリントはベルリン州立歌劇場の歌手だった。
このオランダ・ベルギーツアーの日程は以下の通り。
- 9月7日 デン・ハーグ
- 9月8日 アムステルダム
- 9月9日 ユトレヒト
- 9月10日 アントワープ
- 9月11日 リエージュ
- 9月12日 ブリュッセル
- 9月13日 ブリュッセル
- 9月14日 ヘント
- 9月15日 ブルッヘ
曲目はワーグナー/「リエンチ」序曲、リスト/交響詩「前奏曲」、ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲,ウェーバー/「魔弾の射手」よりアガーテのアリア、リヒャルト・シュトラウス/3つの歌曲(ロザリント・フォン・シーラッハ)、ドヴォルザーク/ヴァイオリン協奏曲より最終楽章(vn: ティボル・デ・マヒュラ (vc)、ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス/「ピツィカート・ポルカ」、ヨハン・シュトラウス2世/「こうもり」序曲、コムツァーク2世/いずれかのワルツ(たぶん「バーデン娘」)などだった。
クナッパーツブッシュがオランダ・ベルギーツアーを行っている間も戦争は続く。
9月12日、イタリア軍はエジプトに侵入を開始。北アフリカも戦場の地となる。
9月15日、ドイツ空軍とイギリス空軍の最大の空中戦が行われる。ドイツ軍の被害は大きく、制空権を奪うことはできなかった。あまりの被害の大きさに、ヒトラーはイギリス侵攻作戦を延期せざるを得なかった。
9月21日、ドイツ軍、フィンランドに上陸。先にフィンランドを制圧していたソヴィエトは不快感を示す。
9月27日、「日独伊三国軍事同盟」調印。
10月1日、ゲシュタポはデンマーク在住のユダヤ人500人をチェコのテレージエンシュタット(テレジン)強制収容所に移送、テレージエンシュタットはアウシュヴィッツへの中継点となる。
10月1日、クナッパーツブッシュはムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルと秋の展示会に参加、オープニング・セレモニーでナチのテーマ曲のようになっていたリスト/交響詩「前奏曲」を演奏する。
10月6日、ドイツ軍はルーマニアに侵入を開始。国境が近いソヴィエトとの軋轢がさらに深まる。
10月12日、ポーランドでワルシャワ・ゲットーを作る法令が公布される。
10月12日と13日、クナッパーツブッシュはムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの定期演奏会。ブルックナー/交響曲第8番。
10月15日から21日 ウィーン・フィルとオランダ・ツアー。デン・ハーグとアムステルダムを往復しながらのツアーだった。その時の「フィガロの結婚」の録音がオランダの放送局から発見された。
- 10月15日 デン・ハーグとアムステルダムでウィーン・フィルと音楽祭に参加。15日と16日、モーツァルト/「フィガロの結婚」
10月17日 デン・ハーグ
モーツァルト/セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、シューベルト/交響曲第7番 D.759、ベートーヴェン/交響曲第2番
10月19日 アムステルダム
モーツァルト/セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、シューベルト/交響曲第7番 D.759、ベートーヴェン,交響曲第2番
10月20日 デン・ハーグ
ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、ヨハン・シュトラウス2世/「ウィーンの森の物語」、シューベルト/「ロザムンデ」よりバレエ音楽、ヨハ ン・シュトラウス2世/エジプト行進曲、ヨハン・シュトラウス2世/「アンネン・ポルカ」、ヨハン・シュトラウス2世/浮気心」、ヨハン・シュトラウス2 世&ヨーゼフ・シュトラウス/「ピツィカート・ポルカ」、コムツァーク2世/「バーデン娘」
10月21日 アムステルダム
ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、ヨハン・シュトラウス2世/「ウィーンの森の物語」、シューベルト/「ロザムンデ」よりバレエ音楽、ヨハ ン・シュトラウス2世/エジプト行進曲、ヨハン・シュトラウス2世/「アンネン・ポルカ」、ヨハン・シュトラウス2世/浮気心」、ヨハン・シュトラウス2 世&ヨーゼフ・シュトラウス/「ピツィカート・ポルカ」、コムツァーク2世/「バーデン娘」15日と16日以外は、アムステルダムとデン・ハーグでは同じ軽めの演目を指揮した。
10月23日、ヒトラーはフランス・スペイン国境におもむき、フランコと会談。対イギリス戦争への参戦を呼びかける。イギリスが支配するジブラルタル奪取が目的だったが、フランコはぬらりくらりとヒトラーの要求をかわし、結局同意しなかった。
10月28日、イタリア軍はギリシャに侵入を開始。戦争はますますヨーロッパ中に拡がってゆく。ヒトラーにとってイタリアのがつがつとした戦争行為は迷惑の種であり、イタリアのギリシャ侵攻に反対した。10月30日、クナッパーツブッシュはベルリンのフィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。バウスネルン/「わたしの幼年時代の国々」(ベルリン初演)、ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲(vn:ウォルフガング・シュナイダーハン)、ブラームス/交響曲第3番。
11月9日、ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルとワーグナー財団帝国慈善演奏会。「ミュンヘン一揆、死者追悼のコンサート」で、いわばナチの記念コンサートだった。オール・ワーグナー・プログラムで「ファウスト」序曲、ヴェーゼンドンクの歌より3つの歌曲(s:ゲルトルート・リュンガー)、「神々の黄昏」よりジークフリートの葬送行進曲、「ジークフリート牧歌」、「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(s:ゲルトルート・リュンガー)、「タンホイザー」序曲。11月16日、ワルシャワ・ゲットー封鎖。ワルシャワ・ゲットーは外界と遮断される。
11月16日から11月25日にかけて、クナッパーツブッシュはベルリン州立歌劇場にこの年三度目の客演、「ニーベルングの指環」チクルスを指揮する。
- 11月16日 ベルリン州立歌劇場 ワーグナー /「ラインの黄金」
- 11月17日 ベルリン州立歌劇場 ワーグナー/「ワルキューレ」
- 11月20日 ベルリン州立歌劇場 ワーグナー/「ジークフリート」
- 11月25日 ベルリン州立歌劇場 ワーグナー/「神々の黄昏」(Hunt)
フルトヴェングラー対カラヤンの確執はこの時既に表面化し、ベルリンでは「指揮者戦争」が始まっていた。戦争中にも関わらず、フルトヴェングラー対カラヤンの確執は、ベルリンのコンサート・ファンに大きな気晴らしを提供した。
カラヤンをフィルハーモニー・ザールから締め出したフルトヴェングラーとベルリン・フィルに対し、カラヤンは10月12日から州立歌劇場でベルリン州立管弦楽団とシンフォニーコンサートを始める。ベルリン州立管弦楽団とのコンサートをカラヤンに行わせたのは、興業エージェントのルドルフ・フェッダー父子で、フェッダーは一時、所属するアーティストを脅迫したかどでナチから営業許可停止の処分を食らっていたが、ひるまず復活、ナチに入党しゲシュタポとも縁が深かった。いわば片方から見れば「やり手」、逆の方向から見れば「詐欺師」と呼ばれる人物だったようだ。フェッダーはフルトヴェングラーともカラヤンとも接触している。「優秀なビジネスマン」と、「やり手」のフェッダーを評価したのはカラヤンである。フルトヴェングラーはフェッダーを「詐欺師」と見ていた。
フルトヴェングラー対カラヤンの確執を新聞社は面白がって煽るような記事や広告を新聞紙上に載せた。ベルリンの「指揮者戦争」は「まるで闘鶏じみたことになり…」と後にカラヤンは回想している(オズボーン本)。
そんな、ベルリンでフルトヴェングラー対カラヤンの指揮者戦争が行われているときに、クナッパーツブッシュは1年の内に3度もベルリン州立歌劇場に呼ばれたのである。ティーティエンは、ヒトラーの評価があまり高くなかったカラヤンが失脚した後のことを考えていたのかも知れない。あるいは充分に「ドイツ的」とはいえないカラヤンのワーグナーに対し、充分に「ドイツ的」なワーグナーを演奏するクナッパーツブッシュを招聘することにより、バランスを取ろうとしたのかも知れない。自身もヒトラーやナチからあまり好まれているとはいえないティーティエンは、かなり冷静にことを見ていた。ただ、クナッパーツブッシュもヒトラーの印象は良くなかったが…。
前途洋々たるカラヤンの前に暗雲がたれ込め始めるまでには、まだ時間があった。11月20日から24日にかけて、ハンガリー、ルーマニア、スロバキアが日独伊三国同盟に参加する。ソヴィエトも三国同盟への参加条件をヒトラーに伝えるが、ヒトラーはスターリン書簡を無視する。その前の11月12日に行われたソヴィエト外相モロトフとの会談で、モロトフからフィンランドやルーマニアへの進駐を詰問され、威圧的な態度を取られたヒトラーは、既に「独ソ不可侵条約」を破棄、ソヴィエト攻撃を決意していた。
12月7日と8日、クナッパーツブッシュはムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの定期演奏会。リスト/「マゼッパ」、スメタナ /「モルダウ」、リヒャルト・シュトラウス/「家庭交響曲」。
12月11日、ハンブルクでベルリン・フィルを振ったという記録があるが、詳細は不明である。12月18日、ヒトラーは対ソヴィエト戦のための「バルバロッサ作戦」を極秘に発令、翌年5月15日までに攻撃準備を終えるよう指令を出す。
昭和15年の日本、1月14日に米内光政海軍大将が首班指名され、首相に就任する。ただこのことは陸軍対海軍の軋轢を強めることになった。
国内では電力節減のため、電力調整令が発動された。関東30%、関西35%の節電が法制化され、その取り締まりも行われた。「電力警官」が登場している。
文化面では、芸人や映画関係者に「芸名統制令」が出されている。内務省は「皇室や神社の尊厳を汚す惧れがあること、史上有名の偉人の名をもぢって国民的尊敬を軽視していること、外国崇拝の悪風を助長する惧れがあること、余り卑俗過ぎて社会に不快の念を与えるもので聖戦遂行下その芸名を改めない限り、映画製作に関係することが許可されない」という見解のもとに、ミス・ワカナ、藤原釜足、平和ラッパ、ミス・コロンビア、尼リリス、熱田みや子などの芸名が禁止される。
5月1日、ドイツの優生断種法を真似たのか、日本でも国民優生法が公布される。精神疾患を抱える者、ライ病患者、遺伝病患者に対する強制的断種、避妊手術を行うというのがその骨子だった。
6月14日、近衛文麿元首相(この時は枢密院議長)は、挙国一致体制で「支那事変の処理と欧州大戦に伴う変転際まりない情勢に対処する」ための新体制運動に乗り出すと声明する。統制派が幅をきかせていた陸軍は、ドイツのナチを真似た「一党独裁が可能になる」と、近衛元首相の新体制運動に乗ることになる。
陸軍の畑陸相は、近衛元首相の新体制運動に協力すべきだと米内首相に進言し、7月16日米内内閣は倒閣を脅されて総辞職、7月22日、近衛文麿内閣が成立する。海軍は陸軍主導の内閣成立に最初抵抗したが、結局、陸軍の運動に呑み込まれる。
7月7日に市民に対していわゆる「贅沢禁止令」が施行されたが、「贅沢は敵だ!」の標語の元、8月にはさらにその動きが強化された。「ぜいたく監視隊」が東京などで組織され、市民が違反していないかどうか、目を光らせた。
9月4日、日本軍はフランス領ベトナム北部に進出する。
9月7日、日独伊三国同盟が調印された。
11月5日、皇紀2600年祭が盛大に行われる。日本は国の隅々まで八紘一宇、大政翼賛を浸透させようとし、新たな国家組織へと変貌していった。皇紀2600年祭にはドイツのリヒャルト・シュトラウス、イギリスのベンジャミン・ブリテンに祝典用の楽曲の作曲が依頼されていた。ところがブリテンが作曲したのは「レクイエム(シンフォニア・ダ・レクイエム)」で、記念式典にふさわしくないと、作品を却下された。作曲料はちゃんとブリテンに支払われているが。
「シンフォニア・ダ・レクイエム」は1941年3 月31日、ジョン・バルビローリ指揮ニューヨーク・フィルハーモニックによって初演され、日本では戦後の1956年2月18日、作曲者ブリテン自身の指揮でNHK交響楽団によって初演された。
11月23日、産業報国会が発足、政府、軍、産業界を挙げて戦争街道を突っ走る。