1941年 第2次世界大戦 2

 1941年、クナッパーツブッシュは53歳になった。
 なお、第2次世界大戦の出来事はあくまで抄録のさらにまた抄録である。多くは、阿部良男著「ヒトラー全記録」によった。第2次世界大戦の戦線や関係している地域はあまりにも広大で、クナッパーツブッシュの生涯を追いかけている小生にはその全てを俯瞰することなど、無理な話である。そのため、ごく一部の出来事しか入れることができていない。クナwikiに毛が生えたものしか書けないのは悔しいが、それも致し方がない。
 また、当時のドイツ国民の生活にも触れたいのだが、それも果たせていない。自分の筆力のなさと調査力のなさ、あまりに巨大な第2次世界大戦の実像に、ただただ茫然とするばかりだ。

 1月初旬、クナッパーツブッシュはベルリンで過ごしていた。
 1月3日、ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。ウィンクラー/「収穫祭」序曲、ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番(p:エミー・ブラウン)、ブルックナー/交響曲第4番「ロマンティック」
 1月4日、ザール1でベルリン・フィルと放送用録音。欠落はあるものの、録音はすべて残っている。

 1月7日、ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。リヒャルト・シュトラウス/「町人貴族」組曲、モーツァルト/ピアノ協奏曲第21番(p:エリー・ナイ)、ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」。

 クナッパーツブッシュはウィーンに帰りる。
 1月11日、ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。オール・モーツァルト・プログラム。モーツァルト没後150周年だった。「つまらぬこと」、「羊飼いの王様」よりアリア(s:エリカ・ロキータ)、交響曲 第29番、ハ短調ミサ曲より「精霊により」(s:エリカ・ロキータ)、交響曲 第41番「ジュピター」。
 1月14日、ウィーン国立歌劇場 リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」。
 1月26日、ムジークフェライン・ザールでウィーン交響楽団とヴェルディ/レクイエム。
 2月1日、ウィーン国立歌劇場 リヒャルト・シュトラウス/「サロメ」。
 2月2日 ウィーン国立歌劇場 ベートーヴェン「フィデリオ」。「アイーダ」の代演であったようだ。
 2月11日より18日まで ウィーン・フィルとドイツ国内ツアーに出かける。

 12月11日 シュトゥットガルト ベートーヴェン/交響曲 第7番、ウェーバー/「オベロン」序曲、シューベルト/交響曲第7番 D.759、リヒャルト・シュトラウス/「サロメ」より7つのヴェールの踊り
 2月13日 デュッセルドルフ ウェーバー/「オベロン」序曲、スメタナ/「モルダウ」、モーツァルト/3つのドイツ舞曲 K.605、ブルックナー/交響曲第4番「ロマンティック」
 2月14日 ヴッパータール(冬季慈善公演) ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、モーツァルト/3つのドイツ舞曲 K.605、リヒャルト・シュトラウス/「サロメ」より7つのヴェールの踊り、ブルックナー/交響曲第4番「ロマンティック」
 2月15日 マグデブルク(歓喜力行団のコンサート) ウェーバー/「オベロン」序曲、スメタナ/「モルダウ」、ベートーヴェン/交響曲第7番
 2月16日 ハノーヴァー ウェーバー/「オベロン」序曲、シューベルト/交響曲第7番 D.759、ブルックナー/交響曲第4番「ロマンティック」
 2月17日 ハンブルク(ゲーテ協会のコンサート) ベートーヴェン/交響曲第7番、ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、モーツァルト/3つのドイツ舞曲 K.605、リヒャルト・シュトラウス/「サロメ」より7つのヴェールの踊り
 2月18日 ハレ(歓喜力行団のコンサート) ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、リヒャルト・シュトラウス/「サロメ」より7つのヴェールの踊り、モーツァルト/3つのドイツ舞曲 K.605、ベートーヴェン/交響曲第7番
ベートーヴェン/交響曲 第7番、ウェーバー/「オベロン」序曲、シューベルト/交響曲第7番 D.759、リヒャルト・シュトラウス/「サロメ」より7つのヴェールの踊り、 シューベルト/交響曲第7番 D.759、ブルックナー/交響曲第4番「ロマンティック」、 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、モーツァルト/3つのドイツ舞曲 K.605が、このツアーのレパートリーだった。
 この頃のコンサートで、フルトヴェングラーやカラヤンでも、ナチ主催のコンサートはほとんど指揮していないと言う文章に出くわすことがあるが、それはほとんど不可能だった。冬季慈善公演はゲッベルスの主導で各都市で行われていたし、歓喜力行団によるコンサートも盛んだった。また、聴衆にナチがいないということはまず考えられない。クナッパーツブッシュのツアーでさえ、2月のツアーはほぼ政府…すなわちナチ主催か息のかかったコンサートだった。他の指揮者においても、「ナチ主催」とあからさまな言葉が使われていなくても、それに絡んだコンサートが多かったと見る方が自然である。

 2月22日、アムステルダム在住ユダヤ人の大量輸送が始まる。
 3月2日、ルーマニアに駐屯しているドイツ軍はブルガリアに侵入。前日、ブルガリアは三国同盟に参加。ソヴィエトは不満を表明する。
 3月4日、ユーゴスラヴィア、三国同盟への参加を表明する。

 3月6日、ウィーン国立歌劇場でワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。
 3月9日、ウィーン国立歌劇場 ワーグナー/「ローエングリン」。

 3月13日、イギリス軍、ベルリンを空襲。

 3月13日、ウィーン・コンツェルトハウスでウィーン・フィルとドイツ=オストマルク合併記念コンサート。ドイツがオーストリアを併合してから、すでに3年が経過していた。クナッパーツブッシュはベートーヴェン/交響曲第9番を指揮した。
 3月16日、ウィーン国立歌劇場 ワーグナー/「ワルキューレ」

 3月24日、北アフリカ戦線のイタリア軍を支援するためエルヴィン・ロンメルが派遣されていたが、ロンメル率いる独伊枢軸軍はエル・アゲイラのイギリス軍前哨基地を攻撃する。以後、ロンメル軍は北アフリカ戦線で次々にイギリス軍基地を撃破、破竹の進撃を行う。ロンメルは「砂漠の狐」とイギリス軍から呼ばれ、怖れられていた。
 3月27日、ユーゴスラヴィアで革命が発生、親ドイツ政権は崩壊する。

 4月1日、クナッパーツブッシュは、ハンブルクでベルリン・フィルとコンサートを行ったという記録が残っている。
 4月2日、ベルリン・フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。グレーナー/「民衆の歌による変奏曲」、チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番(p:ユリアン・フォン・カーロイ)、ベートーヴェン/交響曲第7番。
 グレーナーは、ヒンデミット事件でフルトヴェングラーが帝国音楽院副総裁を辞任した後、ドレーヴェスとともに帝国音楽院副総裁の地位に就いていた。そのようなナチ幹部による作品の指揮を拒否することも、おそらくはできなかったものと思われる。ナチの権力は絶対的なものであり、一介の指揮者が相対化して拒否できるようなものではなかった。それがいくら「クソが詰まっているような作品」であっても。
 4月3日、ブラウンシュヴァイクでベルリン・フィルとコンサート。

 4月6日、ドイツ軍は革命が起こったユーゴスラヴィアと、イタリア軍が苦戦しているギリシャに侵攻を開始する。

 4月6日、ウィーン国立歌劇場 ワーグナー/「ローエングリン」。

 4月9日、イギリス軍によるベルリン空襲。ベルリン州立歌劇場も破壊される。
 州立歌劇場が破壊されたため、カラヤンはベルリン・フィルハーモニー・ザールで州立管弦楽団シンフォニー・コンサートを開催することを要求、受け入れられている。

 4月10日、ドイツ軍、クロアチアの都市ザグレブを占領。
 4月11日、ハンガリーはドイツとイタリアの勝利を確信し、枢軸側として戦争に参加する。
 4月13日、「日ソ不可侵条約(日ソ中立条約)」締結。日本はアメリカとの戦争をすでに決意しており、2方面での強力な軍隊との戦闘を避けるためだった。ところがこの条約締結で、スターリンはドイツのソヴィエト攻撃はないものと解釈する。
 4月14日、ドイツ軍、24時間の爆撃の末、ユーゴスラヴィアの首都ベオグラードを占領。
 同日、パリからチェコに向けてユダヤ人強制移送が始まる。フランスの親独派ヴィシー政権は、ある意味でドイツよりも対ユダヤ人政策は強硬だった。
 4月17日、ユーゴスラヴィア軍、ドイツ軍に無条件降伏。
 4月20日、 ヒトラー、アルフレート・ローゼンベルクを東ヨーロッパに関する問題の責任者に任命する。ローゼンベルクはロシア人のドイツへの取り込みを理想としたが、ヒトラーは絶滅戦の方向を変えなかった。

 4月20日、クナッパーツブッシュはウィーン・フィルと放送用録音。詳細は不明。

 4月23日、ギリシャはドイツ・イタリア軍に対して無条件降伏する。ただギリシャの言い分としては、イタリアへの降伏ではなく、あくまでドイツに対する降伏だった。

 5月15日から26日ベルリン・フィルと占領地スカンジナビア半島ツアー。残念ながらどういう曲目が演奏されたのか、現時点では不明。

  • 5月15日 ストックホルム
  • 5月17日 ヘルシンキ
  • 5月20日 ストックホルム
  • 5月21日 イェーテボリ
  • 5月22日 オスロ
  • 5月23日 オスロ
  • 5月25日 コペンハーゲン
  • 5月26日 コペンハーゲン

 ウィーンに戻ったクナッパーツブッシュは、「魔弾の射手」を挟み、「ニーベルングの指環」チクルスを指揮する。「ラインの黄金」のみ記録に見えない。「ワルキューレ」以降の録音はその断片が残っている。

 クナッパーツブッシュがウィーンで「ニーベルングの指環」を指揮している間、6月22日にドイツ軍は突如ソヴィエトに侵攻を開始する。広大なソヴィエトに対し、北部、中央、南部からソヴィエト国内になだれ込むという、壮大な作戦だった。「バルバロッサ作戦」と呼ばれる。ドイツの宣戦布告後、イタリア、ルーマニアもソヴィエトに対し宣戦を布告する。
 6月23日、スロヴァキア、ソヴィエトに宣戦布告。
 6月26日、フィンランド、ソヴィエトに宣戦布告。
 7月3日、ソヴィエトのスターリンは国民に向い、ラジオで「大祖国戦争」を呼びかける。
 スターリンは「日ソ不可侵条約」の締結により、ドイツ軍のソヴィエト攻撃はないと確信していた。むしろ逆に7月10日に機先を制して対ドイツ攻撃を始める予定だったが、ヒトラーに先を越され、大きなショックを受ける。さまざまな本を読むと、数日間茫然自失の有様だったという。
 ソヴィエト軍は対ドイツ軍の攻撃準備中で防衛準備はしていなかった。そのため、ドイツ軍の侵攻から短期間でソヴィエト軍は大きな損害を出すことになった。また、赤軍の大粛正のため、優秀な将校が枯渇していたため、指揮系統が混乱したとも言われている。
 さらにウクライナやバルト三国、その他のソヴィエト国内の状況は複雑で、元々反ユダヤ主義の根強さがあるところから住民はドイツ軍に協力、大量のユダヤ人を虐殺する事件が頻発する。リトアニアの「死の砦」事件では、戦後発掘されただけでも、80000人のユダヤ人の死骸が発見された。

 7月12日、イギリス=ソヴィエト相互援助条約調印。イギリスとソヴィエトは共同して対ドイツに当たることになる。
 7月22日、ドイツ空軍、モスクワを空襲。
 7月28日、アウシュヴィッツで最初の死の選別。 575人がゾンネシュタインの「安楽死センター」で自動車の排ガスで殺される。

 8月4日から、ザルツブルク音楽祭。
 1940年は中止されたザルツブルク音楽祭だったが、ゲッベルスの許可が降り、この年に復活する。ただし、期間は3週間半と短縮され、公演回数も減った。「ばらの騎士」と「ドン・ジョバンニ」を担当したクナッパーツブッシュの他、カール・ベームが参加。ベームは「フィガロの結婚」と「魔笛」を担当した。

  • 8月4日 ザルツブルク音楽祭 リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
  • 8月8日 ザルツブルク音楽祭 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」
  • 8月10日 ザルツブルク音楽祭 リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
  • 8月13日 ザルツブルク音楽祭 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」
  • 8月15日 ザルツブルク音楽祭 リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
  • 8月18日 ザルツブルク音楽祭 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」
  • 8月21日 ザルツブルク音楽祭 リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
  • 8月22日 ザルツブルク音楽祭 モーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」
  • 8月24日 ザルツブルク音楽祭 ベートーヴェン/交響曲 第9番

 ザルツブルクとは直接関係はないが、その音楽祭の間、8月7日にソヴィエト軍はベルリンを空襲している。ベルリンはますます安全ではなくなって行く。
 9月3日、アウシュヴィッツでチクロンBによる虐殺実験。ソヴィエト軍の捕虜250名がその実験で虐殺される。
 9月8日、4日からドイツ軍はレニングラードを砲撃していたが、この日レニングラード包囲戦を開始する。
 9月9日から9月19日、クナッパーツブッシュはベルリン・フィルと、占領、もしくは友好国となった東ヨーロッパへのツアーを行う。

  • 9月9日 ポーランド、ブロツワフ(ブレスラウ)
  • 9月10日 ポーランド、ビトム(ボーテン)
  • 9月12日 ポーランド、クラクフ(クラカウ)
  • 9月14日 スロバキア、ブラチスラヴァ(プレスブルク)
  • 9月17日 クロアチア、ザグレブ(アグラム)
  • 9月18日 クロアチア、ザグレブ(アグラム)
  • 9月19日 クロアチア、ザグレブ(アグラム)

 9月19日、ドイツ軍、ウクライナの首都キエフを占領する。
 ソヴィエト軍はキエフを放棄するための撤退作戦を採ったが失敗し、多くの捕虜を出した挙げ句、全滅する。ソヴィエト軍撤退を知らされていなかったキエフの住民とユダヤ人は大弾圧に遭う。ソヴィエト軍のキエフ撤退作戦の失敗は、長い間極秘にされてきた。

 9月29日から30日、ウクライナのバビ・ヤールでドイツ軍とウクライナ人警察官によるユダヤ人大量虐殺。
 10月2日、勢いに乗ったドイツ軍はモスクワ攻撃を開始。「タイフーン」作戦と呼ばれる。

 10月11日と12日、クナッパーツブッシュはムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルとフランツ・シャルク追悼予約演奏会(シャルクは1931年に没している)。ベートーヴェン/交響曲第8番、ブルックナー/交響曲第9番。

10月12日夜、ウィーン国立歌劇場 ワーグナー/「ジークフリート」
この時の録音が一部残っている。

 10月16日、ドイツ軍はオデッサを占領。ドニエプル川流域を制圧する。
 10月23日、ドイツ軍の友軍であるルーマニア軍はオデッサでユダヤ人を大量虐殺。パルチザンがルーマニア軍司令官他参謀全員を爆破によるテロで殺したことへの報復だった。ルーマニア軍はテロの仕業はユダヤ人だと断じた。

 10月25と26日、クナッパーツブッシュはムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルのニコライ・コンサート。ベートーヴェン/交響曲第3番「エロイカ」、ベートーヴェン/交響曲第5番。
 10月28日、ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルと「うきうきした気分のコンサート」。リヒャルト・シュトラウス/「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、ハイドン/交響曲 第94番「驚愕」、ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、ヨハン・シュトラウス2世/「春の声」、コムツァーク2世/「バーデン娘」
「うきうき気分のコンサート」はナチが考案したものではない。現在もその伝統は続いている。
 10月29日。ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。ワーグナー/「ジークフリート牧歌」、ハイドン/ピアノ協奏曲 op.21(p:オルネッラ・パルティ・サントリクイド)、ベートーヴェン/交響曲第3番「エロイカ」。
10月30日 ベルリン・フィルとレコーディング。

 11月6日、ウクライナのロヴノでユダヤ人大量虐殺が始まる。最終的に10万人以上のユダヤ人が殺害される。
 11月7日、イギリス軍、ベルリン、マンハイムなどを爆撃。
 11月9日、ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルと放送用録音(Huntでは19日)。録音が残っている。

11月21日、ウィーン国立歌劇場 リヒャルト・シュトラウス/「エレクトラ」
録音が一部残っている。

 11月24日、チェコ人への寛容な処置をヒトラーから非難されて罷免されたコンスタンチン・フォン・ノイラートに変わり、代理総監に任命されチェコに赴任したハイドリヒは、テレージエンシュタットに本格的なユダヤ人強制収容所を完成。アウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ(この収容所の完成は翌年)などのユダヤ人絶滅収容所への中継点としての活動を強化する。

 11月25日、ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。グレーナー/ウィーン交響曲(初演)、ブラームス/ヴァイオリン協奏曲(vn:エーリッヒ・レーン)リヒャルト・シュトラウス/「ツァラトゥストラはかく語りき」。
 11月30日、ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの「モーツァルト週間」。モーツァルト/交響曲 Es-dur、モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲(vn:ゲオルグ・クーレンカンプ)。モーツァルト/交響曲第40番。マチネーだった。
 同夜、ウィーン国立歌劇場でモーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」。「ドイツ・モーツァルト週間」の記念公演だった。


12月4日、ウィーン国立歌劇場 モーツァルト/「魔笛」
録音が一部残っている。

 12月5日、モスクワ攻防戦で、ソヴィエト軍は猛反撃を開始する。
 12月6日、イギリスはソヴィエトとの「相互援助条約」に基づき、フィンランド、ハンガリー、ルーマニアに宣戦を布告。

 12月7日、日本海軍機動部隊はハワイ真珠湾のアメリカ海軍を攻撃(日本時間では8日)。8日に日本はアメリカ、イギリスに宣戦を布告、太平洋戦争が始まる。日本は太平洋だけではなく、アジア南方に向かって破竹の進撃を開始する。

 12月8日、東部戦線が厳しい冬となりドイツ軍の電撃作戦は中止、守勢に回らざるをえなくなる。早い冬の到来に、冬季装備をしていなかったモスクワ攻撃軍はモスクワ占領を断念せざるをえなくなった。ヒトラーは、結局モスクワ攻略を断念する。
 同日、ポーランドの「ヘウムノ強制収容所」で移動式ガストラックを使ったユダヤ人が虐殺が始まる。15万2678人(裁判で立証された人数。他の調査では32万人)が虐殺されるが、この収容所は親衛隊の証拠隠滅で戦争終結前に解体された。
 12月11日、ドイツ、イタリアはアメリカに宣戦を布告。これにより、中立を宣言し、イギリスやソヴィエトなど連合国側に物資支援を行っていたアメリカは、太平洋で日本と戦うだけではなく、ヨーロッパの戦場でも主力として戦争に参戦することになる。
 対イギリス、アメリカへの戦争の共同完遂、単独不講和、新秩序建設に関する「日独伊三国協定」が締結される。
 12月12日、ルーマニア、ブルガリア、スロバキアは、対イギリス、アメリカに宣戦を布告。
 12月13日、ハンガリー、対イギリス、アメリカに宣戦を布告。
 12月19日、広範囲なソヴィエト国内での絶滅戦を展開したいヒトラーは、モスクワ攻撃をソヴィエト戦の主眼に置いたフォン・ブラウヒッチュ元帥を罷免、自ら陸軍総司令官に就任する。

 12月20日と21日、ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの定期演奏会。プフィッツナー/小交響曲、ドヴォルザーク/交響的変奏曲、ブラームス/交響曲 第4番。

【その他のクナッパーツブッシュの記録】
 この年、ウィーン国立歌劇場でボロディン/「イーゴリ公」をウィーン初演した記録があるが、詳細は不明。もしあったとしたら、おそらくはソヴィエト侵攻前で、ソヴィエト侵攻をカムフラージュ、親ソヴィエトをアピールする意味があったと思われる。
 もうひとつ、Huntにウィーン国立歌劇場で「ドン・ジョバンニ」の公演があったという記載がある。

 同時期の日本に関しては、毎日新聞社刊「昭和大全集」を中心にまとめた。あまりにあれこれ見過ぎると、前後関係がよく分からなくなったり、ひとつの事柄に集中しすぎることがないようにするためだ。そのため、記述に詳細感が欠けるのはご寛恕いただきたい。
 昭和16年の日本、1月に煙草の「バット」が「金鶏」、「チェリー」が「桜」に変わり、外国人記者に対する日本語での発表、レストランやカフェ、歓楽街で欧米語の追放が盛んに行われ、陸軍では8日に東条英機陸相の名において「戦陣訓」が全軍に示達された。東京では、商店の夜9時閉店が実施される。ますます、戦時色が強くなって行く。
 3月、国民学校令が施行される。日本領である朝鮮、台湾でも同法律が施行された。朝鮮では、朝鮮語の学習が廃止される。
 この時期、ドイツは日本に対し対英戦争の火蓋を切るように、ドイツに外遊中の日本の松岡外相に持ちかけている。ヒトラーは、まだ日本の対アメリカ戦争についての動きを掴んでいなかった。
 3月末から4月初旬にかけて、東京、大阪、京都、名古屋、神戸、横浜の6都市で米穀配給通帳制、外食券制が実施される。食糧統制の締め付けが厳しくなる。
 4月13日、モスクワに外遊中の松岡外相は、スターリンと「日ソ中立条約(日ソ不可侵条約)」に調印。スターリンは極東での日本との軋轢を避け、ドイツを攻撃する腹だった。ソヴィエトはヒトラーに先を越されて攻撃されてしまうが。
 7月2日、対ソ戦準備(ソヴィエトはドイツ軍の攻撃で、この時期日本と戦争する気はなかったようである)、南方進出のために利権が衝突する対英米戦も辞せずという国策要綱が決定される。
 日本軍の南部仏印進出圧力に伴い、アメリカとイギリスは在米、在英日本資産を凍結する。これにより、日本の株式市場は大暴落する。7月28日、日本軍は南部仏印に進出する。
 8月、アメリカは日本を目標に発動機燃料・航空機用潤滑油の輸出を禁止、対日本石油輸出が全く停止する。9月11日、アメリカは自国防衛水域での日独伊枢軸側艦船への攻撃を許可する。
 日本の政府内では、南部仏印から撤退すべきかどうか協議されたが、東条陸相の強固な撤兵反対で議論は決しなかった。10月16日、近衛文麿内閣総辞職、18日、東条英機陸相が首班指名され、東条内閣が成立する。
 11月5日、御前会議で対英米蘭戦争が決定される。交渉次第では武力攻撃中止とされたが、戦争への歯車はすでに元に戻せないほど動いてしまっていた。日本が戦争を避けきれなかった理由として、南アジアの物資確保とともに、中国大陸での日本軍(関東軍)の阿片戦略に対するアメリカの強硬な非難が言われている。
 12月8日、日本軍は「マレー作戦」と「真珠湾作戦」を決行、いわゆる太平洋戦争が勃発する。日本はこの戦争を大東亜共栄圏のための戦争と位置づけ、「大東亜戦争」と呼んだ。
 日本は開戦後、すぐにフィリピンや香港、ボルネオをも制圧、破竹の進撃を開始する。
 この年、凄まじいのは食糧需給の悪化を睨んだ動植物調査概要である(備荒動植物調査概要)。「昭和大全集」には雑草千種、動物百種。ゲンゴローの天ぷら、とんぼの佃煮とある。

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