1942年 第2次世界大戦 3

 1942年、クナッパーツブッシュはこの年54歳になる。
 1月22日、23日、ドレスデンに客演。シュターツカペレ・ドレスデンを指揮する。ドヴォルザーク/交響的変奏曲、マルピエロ/チェロ協奏曲、シューマン/チェロ協奏曲(vc:エンリコ・マイナルディ)、ブラームス/交響曲第3番(以上、Hunt)
 クナッパーツブッシュのマルピエロとは珍しいが、マイナルディのリクエストだったのだろうか?
 1月27日、ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。ドヴォルザーク/交響的変奏曲、ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第5番(p:エドゥアルト・エルデマン)、ブラームス/交響曲第1番。
 1月31日 ウィーン・フィルとスタジオ録音。録音はすべて残っている。

 2月3日、ワルシャワ・ゲットーに押し込められたユダヤ人の、アウシュヴィッツやその他の絶滅収容所や強制労働収容所への輸送が段階的に始まる。むろん輸送先はアウシュヴィッツだけではなく、ルブリンやタルノウへも送られる。ポーランドのピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマン著「戦場のピアニスト」(佐藤泰一訳 春秋社)に、その段階的に狩られてゆくユダヤ人の恐怖が生々しく書かれている。
 さらに「戦場のピアニスト」はロマン・ポランスキー監督によって映画化もされたが、ポランスキー監督自身、父親がポーランド系ユダヤ人で、少年時代にクラクフで苛酷なゲットー生活を送る。ポランスキー監督は1933年生まれで、ナチによるユダヤ人迫害の頃は10歳になるかならないかだった。
 ポランスキーは父親の機転でユダヤ人狩りに合う直前に逃亡に成功するも、父親は戦争が終わるまで石採場で強制労働、母親はアウシュヴィッツで虐殺された。さらにポランスキーは逃亡先のフランスでヴィシー政権の目からも逃れなければならなかった。「戦場のピアニスト」の映像には、エンターテイメント的な作り方ながら真実味が充満している所以である。
 ヒトラーやナチ高官の唱えるユダヤ人のマダガスカル強制移住計画など、絵に描いた餅にしか過ぎなかった。ヒトラーはたびたび、ユダヤ人が自分たちで余所に行かないから自分たちの手で始末している、と言うようなことを語っているが(「テーブル・トーク」、外国人報道官関係者に対してなど)、ヒトラーの目的は明らかだった。
 ただ興味深いのは、ヒムラーはたびたび強制収容所を訪れ、アウシュヴィッツのビルケナウでは収容所の拡充や焼却炉の増設を指示しているが(記録によると、この年は2回アウシュヴィッツを訪れている)、ヒトラー自身は強制収容所に足を踏み入れたこともないのではないかということだ。ユダヤ人絶滅は、ゲーリング、ヒムラー、ハイドリヒが最高責任者で、その下に有象無象多くの責任者がいたが、ヒトラーにとっては虐殺されるユダヤ人は単に数字であり、記号にしか過ぎなくなっていた。数字や記号なら、どのような指示でも出すことができる。
 後年、ユダヤ人絶滅はヒトラーではなく、その配下のヒムラーやハイドリヒ、この後たびたび名前が出てくるアイヒマンの仕業だったという論調があるが、ユダヤ人絶滅の絶対的指令を出したのはヒトラーであり、ヒムラーやハイドリヒ、アイヒマンたちはその指示を機械的に、あるいは事務的に行っていたということを忘れてはならない。

 2月15日、ヒトラー、リッペントロープより日本軍のシンガポール陥落の報告を受ける。日本軍賞賛のコミュニケが発表される予定だったが、ヒトラーの持論である黄禍論のため、中止される。ヒトラーの対日本賞賛は表面的なものに過ぎないことが分かる。ヒトラーは、すなわち黄色人種が好きではなかったのだ。

 2月21日と22日 ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの定期演奏会。ベルリオーズ/「ローマの謝肉祭」、ハイドン交響曲第94番「驚愕」、ビゼー/「子供の遊び」小組曲、リヒャルト・シュトラウス/「ツァラトゥストラはかく語りき」。
2月25日と26日 ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとプフィッツナー/カンタータ「ドイツ精神について」。

 3月1日、ヒトラーはユダヤ人、フリーメイソン、及びナチズムに反対する敵対者の根絶宣言に署名する。世界観戦争と呼ばれるが、ますます「思想戦争」の様相が強くなる。ただ、ヒトラーやナチに根本的な思想というものは、ありそうでなかった。ナチズムとは何だったのか…いずれ総括する必要がありそうだ。

 3月11日から12日、クナッパーツブッシュはベルリン・フィルとスタジオ録音。

 ただし、ブラームス/交響曲第3番はSPではリリースされなかった(吉田光司著「Hans Knappertsbusch Discography」)。

 3月15-25日、クナッパーツブッシュの生まれ故郷、エルバーフェルトと合併し、ヴッパータール市となったバルメンで、ベルリン、ミュンヘン、ドレスデン、ウィーンの選抜メンバーによるワーグナー「ニーベルングの指環」チクルスが開催され、クナッパーツブッシュが指揮を行う。かなり大規模な公演であったことが想像できる。おそらく、国家行事であったものと思われる。

  • 3月15日 「ラインの黄金」
  • 3月17日 「ワルキューレ」
  • 3月22日 「ジーグフリート」
  • 3月25日 「神々の黄昏」(以上、Huntによる)

 3月27日、フランスのユダヤ人、最初のアウシュヴィッツへの輸送を開始。以後、次々とフランスのユダヤ人はポーランドの絶滅収容所に送られてゆく。
 3月28日から29日、イギリス軍、リューベックを爆撃、廃墟とする。

 3月31日、クナッパーツブッシュはベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団と放送用録音。「パルジファル」第1幕への前奏曲のみ1941年の録音となっている資料もある。ベルリン・ドイツ・オペラは市立歌劇場である。

 4月、この頃より、アウシュヴィッツでチクロンBによる虐殺が大々的に行われる。ガス室の稼働は5月4日。

 4月5日、クナッパーツブッシュはベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルと「うきうき気分のコンサート」。ハイドン/交響曲第94番「驚愕」、リヒャルト・シュトラウス/「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、ロッシーニ/「ウィリアム・テル」序曲、ヨハン・シュトラウス2世/「ウィーンの森の物語」、ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス/「ピツィカート・ポルカ」、ヨハン・シュトラウス2世/「浮気心」、コムツァーク2世/「バーデン娘」
4月6日 ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、モーツァルト/セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、シニガーリャ/2つのピエモンテ舞曲、ウェーバー「舞踏への勧誘」、ヨハン・シュトラウス2世/「騎士パズマン」よりチャルダス、ヨハン・シュトラウス2世/「ウィーンの森の物語」、ヨハン・シュトラウス2世/「トリッチ・トラッチ・ポルカ」、ヨハン・シュトラウス2世/「こうもり」序曲
 両日とも軽い演目だった。ドイツでは歓喜力行団の催しやその他でも「娯楽」として音楽が兵士や市民に提供された。「うきうき気分のコンサート」自体、ナチの考案ではないようだが、国策の中に取り込まれたとしても何ら不思議ではない。
 国策コンサートは、ホールだけではなく工場内でもコンサートが数多く開催された。フルトヴェングラーの戦時中の映像が有名である。
 また、バイロイトではナチがチケットを購入、そのチケットをヒトラー・ユーゲント、兵士、労働者にばらまいた。1940年以降は労働戦線のロベルト・ライを通してその額が増大した。バイロイト祝祭音楽祭を聞くために特別列車が運行し、バイロイトは兵士や労働者で溢れかえった。

 4月9日、ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィル100年祭。ブラームス/「ハイドンの主題による変奏曲」、シューマン/ピアノ協奏曲(p:エミール・フォン・ザウアー)、シューベルト/交響曲第7番D.759
 5月9日、占領地ベルギーのブリュッセルに客演。クナッパーツブッシュは音楽祭のモーツァルトの日に参加した。オーケストラはブリュッセル放送管弦楽団。モーツァルト/「イドメネオ」序曲、協奏交響曲 K.364(vn:Frans Wigy/va:Frans Broos)、セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、交響曲第41番「ジュピター」。

 5月8日から18日、ドイツ軍はソヴィエト南部クリミアのケルチ半島を占領。ソヴィエト南部の油田地帯の確保が、その大きな目的だった。
 5月17日、ハリコフ方面でドイツ軍とソヴィエト軍の大戦車戦が行われたが、ドイツ軍が大勝利を収める。
 5月26日、ドイツ軍、北アフリカのトブルク西方でイギリス軍を撃破。

 5月27日、クナッパーツブッシュの「トーマス・マン抗議声明事件」で黒幕だったひとり、ラインハルト・ハイドリヒは、国家保安本部長官と兼務してボヘミア=モラヴィア保護領の副総督に就任していたが、この日、チェコ出身のイギリス軍特殊部隊員に手榴弾を投げつけられ重傷を負い、6月4日死亡する。
 ハイドリヒはひじょうに高い能力を持ち、占領地域では善政と呼べる改革も行ったが、対ユダヤ人絶滅計画ではひじょうに大きな力を発揮した。その能力の高さから、イギリスはハイドリヒ排除という政略的目的から暗殺に踏み切った。ハイドリヒはヒトラーの後継者のひとりとして目されていた。
 イギリス軍の思惑としては、ハイドリヒ暗殺に伴うナチが必ず行う市民への報復を織り込み、市民のドイツからの離反をも目的としていた。ハイドリヒの善政がチェコ人をドイツになびかせては困るのだ。
 結局、ハイドリヒ暗殺の報復としてふたつの村が絶滅、住民は虐殺されるのだが、戦略とはかくも冷たいものである。

5月30日から31日、イギリス空軍によるケルン大空襲。この後、連合軍によるドイツ国内各都市への空爆が激化する。

5月にクナッパーツブッシュはブダペストでワーグナー「ニーベルングの指環」を振ったという記録があるが(Hunt)、ベルリン州立歌劇場の記録にはその記載がなく、詳細は不明(菅原透著「ベルリン三大歌劇場」アルファベータ)。
 前年、1941年の4月にも、ベルリン州立歌劇場はブタペストで公演している。その時の指揮はカラヤンだった。カラヤンとベルリン州立歌劇場の公演は、その時の写真や記録が残っている。
 後年の非ナチ化裁判の時、クナッパーツブッシュはブタペストでも指揮をしたことがあると言っているので、この時のことだったかも知れない。ただ、クナッパーツブッシュはこの年の9月にもベルリン・フィルとブダペストでコンサートを行っている。

 6月10日、ナチはハイドリヒ暗殺の報復として、リディツェ村を絶滅する。リディツェ村はハイドリヒ暗殺者を匿った嫌疑がかけられた。
 「ヒトラー全記録」に短いながらリディツェ村の絶滅の様子が書かれている。引用する。
「村の壮年男子173名が射殺され、女子は強制収容所に送られた。赤ん坊や子どもも絞殺され、一部が強制収容所に送られた。ごく少数の子どもが「ドイツ化」のためにドイツに送られた。全家屋が爆破されて、あとは整地され平地化されて、村は地上から抹殺された」
 6月20日から22日、ドイツ軍、北アフリカのイギリス軍の要衝、トブルク要塞を占領する。
 6月23日、ドイツ軍、エジプトに侵入。
 6月24日、ナチ、ハイドリヒ暗殺の報復として、レジャーキ(レブザスキー)村を絶滅する。
 6月28日、ソヴィエト南方で「青作戦」開始。クルスク・ハリコフ間で攻撃を開始する。
 7月1日、ドイツ軍、ソヴィエト南方のセヴァストーポリ要塞を陥落させ、セヴァストーポリを占領する。
 7月6日、ドイツ軍、ソヴィエト南方のボロネジを占領するも、ソヴィエト軍の反撃に遭う。ソヴィエトにおけるヒトラー戦略の齟齬の始まり(全記録)。
 7月、ナチ、ソヴィエトで大虐殺を開始。ミンスク、ロヴノ、スロニムに拡大してゆく。ロヴノでは7月13日、ゲットーに住む約5000人のユダヤ人が一掃される。
 また、この頃からフランス、オーストリア、オランダ、ノルウェーなどからも絶滅収容所へのユダヤ人が輸送が激しさを増している。
 アウシュヴィッツでの「死の選別」では、到着して貨車から降りたユダヤ人を医師が一瞥しただけで、強制労働に回すかガス室に送るかを決めた(5月4日から「死の選別」は行われたと「全記録」にはある)。ガス室送りの者は、その足でガス室に急かされ虐殺された。ユダヤ人には「殺す」という事は言わず、「消毒のためにシャワーを浴びる」がその欺瞞的な口実だった。
 殺害だけを目的にした絶滅収容所はポーランド領内の主な鉄道線路に沿って作られた。トレブリンカ、ソビボル、ベウジッツ、ヘウムノ、アウシュヴィッツ第2収容所ビルケナウ、マイダネク。その他、「全記録」によるとナチ占領下のヨーロッパで約9000の収容所が作られたとある。ナチは恐るべき労力をユダヤ人や政治犯、シンティ・ロマ族のジプシーのために使った。

 例年なら、ザルツブルク音楽祭の日程が夏に入っているはずだが、クナッパーツブッシュはザルツブルクに登場していない。この年のザルツブルク音楽祭からクレメンス・クラウスが音楽監督になり、音楽祭の性質自体、戦時色の強いものに変わってしまった。そのためか、クナッパーツブッシュはザルツブルク音楽祭に出演していない。
 クレメンス・クラウスとの葛藤があったのかどうかは記録がないので分からない。

 9月5日から9月30日まで クナッパーツブッシュはベルリン・フィルと東ヨーロッパ・ツアー。一ヶ月近くに及ぶ長期ツアーだった。間違えてはいけないのは、ポーランド以外、占領地ではないということである。ほとんどは傀儡国家が混じっているとはいえ、ドイツの友好国だった。

  • 9月5日 ポーランド、クラクフ
  • 9月6日 ポーランド、クラクフ
  • 9月8日 スロバキア、ブラチスラヴァ
  • 9月11日 ルーマニア、ブラショフ
  • 9月12日 ルーマニア、ブカレスト
  • 9月13日 ルーマニア、ブカレスト
  • 9月14日 ルーマニア、ブカレスト
  • 9月17日 ブルガリア、ソフィア
  • 9月18日 ブルガリア、ソフィア
  • 9月19日 ブルガリア、ソフィア
  • 9月20日 ブルガリア、ソフィア
  • 9月22日 セルビア、ベオグラード
  • 9月23日 セルビア、ベオグラード
  • 9月25日 クロアチア、ザグレブ
  • 9月26日 クロアチア、ザグレブ
  • 9月28日 ハンガリー、ブダペスト
  • 9月30日 ハンガリー、ブダペスト

 クナッパーツブッシュがベルリン・フィルと東ヨーロッパ・ツアー中、9月13日にドイツ軍はスターリングラードに突入を開始、スターリングラード攻防戦が始まる。

 10月14日、ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。プフィッツナー/「パレストリーナ」第1幕への前奏曲、ブラームス/ピアノ協奏曲第1番(p:ウィルヘルム・ケンプ)、ベートーヴェン/交響曲第5番
 10月15日から16日、ベルリン・フィルとスタジオ録音。

 この頃からイギリス軍のベルリンへの空襲が激化したためか、長時間の録音は不可能になってきたようだ。

 10月17日、ベルリンでベルリン・フィルと宣伝省による文化事業で指揮。

 10月23日、北アフリカ戦線でモントゴメリー将軍率いるイギリス軍は、ロンメルが病気療養でドイツに帰国中、猛反撃を行う。ロンメルは25日に北アフリカに帰任するも、劣勢を挽回することはできなかった。
 11月3日、北アフリカのドイツ軍はエル・アラメインで壊滅的な敗走を始める。

 11月6日、ドレスデンに客演。シュターツカペレ・ドレスデンを指揮する。バッハ/ブランデンブルク協奏曲第3番、パガニーニ/ヴァイオリン協奏曲(vn:ハインツ・スタンスカ)、ブラームス/交響曲第4番(Hunt)
11月10日 ウィーン国立歌劇場 ワーグナー/「パルジファル」。この時の録音が残っている。

 11月11日、ドイツ軍はフランスのヴィシー政権の勢力下にあった非占領地を占領、11月27日にはフランス海軍のトゥーロン軍港も占領する。ドイツ海軍はフランス海軍の軍艦の接収を目論んだが、自沈されてしまう。この以前から、フランスでは反ドイツの動きが強まり、ヴィシー政権下でも軍人が連合国側に寝返る事件が頻発している。
 11月18日、イギリス軍、ベルリンへの夜間大空襲を開始。
 11月19日、ソヴィエト軍、スターリングラードの南北から包囲戦を開始。ドイツ軍の友軍、ルーマニア軍は崩壊する。
 11月22日、イギリス軍の爆撃で、ベルリンの官庁街は灰燼に帰す。
 12月9日、ヒムラー率いる親衛隊があまりに手際よくユダヤ人を絶滅していったため、ポーランドでは軍需産業の労働力に大きな支障を来すようになり、ポーランド提督ハンス・フランクは不満を表明する。フランクはその前から、ポーランド総督領がユダヤ人の廃棄地域になっていると不満を表明していたし、親衛隊のやり方を批判していた。フランクはこの頃、親衛隊批判がもとで罷免されかかっている。
 ユダヤ人の絶滅には、反ユダヤ主義ともうひとつの側面がある。ドイツ国内では食糧事情が逼迫し始め、その食糧の総量を確保するため、ユダヤ人絶滅が急がれていたからだ。労働力の不足やドイツ国内事情のため、ユダヤ人政策は多少揺れ動いたものの、ユダヤ人絶滅はヒトラーの至上命令であり、以後も虐殺は加速する。

 12月5日と6日、クナッパーツブッシュはムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。リヒャルト・シュトラウス/「ドン・キホーテ」、モーツァルト/協奏交響曲、ブラームス/交響曲 第2番。
 12月11日、ベルリン、フィルハーモニー・ザールでベルリン・フィルとコンサート。ベルガー「オイゲン王子の伝説」初演、シューマン/チェロ協奏曲(vc:アルテュール・トロエスター)、ブラームス/交響曲第4番

 12月12日、スターリングラードでソヴィエト軍に包囲されたドイツ軍の救出作戦が実施されたが、失敗する。

 12月15日、クナッパーツブッシュはベルリン・フィルとのスタジオ録音。

 12月16日、ソヴィエト軍、ドン河中流のイタリア軍を粉砕、コーカサス地方のドイツ軍は孤立する危機に見舞われ、コーカサス戦線より撤退を開始する。

 12月16日、ムジークフェライン・ザールでウィーン交響楽団とコンサート。オルガン独奏によるJ.S.バッハ/プレリュードとフーガ 変ホ長調のあと、ブルックナー/交響曲第8番
 12月20日、バルメンでワーグナー/「タンホイザー」を指揮したという記録が残っているが、詳細は不明。

 昭和17年の日本、2月15日、日本軍はイギリス領シンガポールを陥落する。以後、日本はシンガポールを昭南島と呼称することを定める。
 また同時期、日本軍はスマトラ島パレンバンに落下傘部隊が降下、精油所を確保してスマトラ島南部を占領する。スラバヤ沖海戦、バタビア沖海戦で日本軍は大勝利を収める。3月1日、日本軍ジャワ島に上陸。
 3月、日本国内のレコード各社は名前を変更する。日本ポリドール=大東亜、日本コロンビア=日蓄、キング=フジ音盤、ビクター=日本音響。
 3月8日、日本軍はビルマ(現ミャンマー)のラングーンを占領。
 4月4日、翼賛選挙。この時の当選者の顔ぶれが凄まじい。戦後すぐはもとより、現在至るまでその影響が残っている政治家の多くがその中に見える。
 5月7日、日本軍はフィリピンのコレヒドール要塞を攻略。その前に、飢餓状態にあるアメリカ軍捕虜を長距離わたって行軍させた「バターン死の行進」があった。戦後、東京裁判でその事実が明るみに出た。
 4月18日、アメリカ空軍による東京初空襲。アメリカ空母艦載爆撃機による空襲だった。この空襲により、アリューシャン列島から太平洋上のミッドウェーを結ぶ線上で、アメリカ機動部隊を攻撃する要請が生まれ、ミッドウェー作戦が計画・実施される。
 6月6日から7日にかけて、日本海軍はミッドウェーにおいてアメリカ機動部隊を攻撃しようとしたが、逆に壊滅的な被害を受け敗北する。日本は太平洋での制海権と制空権を失う。アメリカ空軍にとっては、日本本土空襲をさらに激化させる位置を確保した。太平洋戦争の分岐点と言われる。
 8月、ガダルカナル島攻防戦、2次に渡るソロモン海戦が行われる。激戦が繰り返され、日本軍はアメリカ軍の飛行場奪取を目指した。
 10月26日、南太平洋海戦でアメリカ軍空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを中破するも、日本軍は保有していた機動部隊の航空機の約半数を失う。11月14日、第3次ソロモン海戦で戦艦「比叡」「霧島」を失った日本軍は輸送船団の援護が弱くなり、ガダルカナル島に軍需物資を輸送することができなくなった。ガダルカナル島の日本軍兵士は飢餓に苦しめられ、「ガ島」=「餓島」と呼ばれるようになる。12月31日になって、ようやくガダルカナル島撤退が大本営で決定された。
 前年暮れの「マレー作戦」、「真珠湾作戦」以後、約半年間は連戦連勝だった日本軍だったが、早くも敗北の影が忍び寄っている。

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