1951年 バイロイトに初登場

1951年
 1月1日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
 1月7日、8日 ベルリン、ティタニアパラストでベルリン・フィルのコンサート。ブルックナー/交響曲第8番。録音が残っているが、Auditeの資料によると、1月8日のスタジオ録音とある。

 1月21日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、リヒャルト・シュトラウス/「サロメ」
 1月23日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
 1月31日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
 2月13日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ジークフリート」(新演出)
 2月16日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ジークフリート」
 この日の逸話と思われる話が残っている。
「バイエルン州立歌劇場の宮廷歌手だったマリアンネ・シェヒがしてくれた話。
 プリンツレゲンテン劇場で『ジークフリート』の本稽古がハンス・クナッパーツブッシュによって行われていたとき、私はブリュンヒルデを歌っていました。さて、「ほら、あそこにわたしの愛馬のグラーネが見える。私と一緒に眠っていたけれど元気で草を食べているわ」の箇所になったときのことです。クナーは極端に遅いテンポをとったのですが、ここではブリュンヒルデのメロディーは同時に管楽器でも奏されるため、私はずれてはいけないと、クナーを注意して見詰めていました。すると彼はオーケストラ・ピットから叫んだのです。
『おれは馬じゃないぞ!』」(「クナッパーツブッシュの思い出」)。

 2月17日、18日 ミュンヘン大学大講堂でミュンヘン・フィルの特別演奏会。ブルックナー/交響曲第8番
 3月 ローマに客演。ワーグナー/「タンホイザー」
 復活祭の記念イベントだった。クナッパーツブッシュ所有のスコアの表紙に「1951年復活祭、ローマ!」と書かれているそうだ。(「思い出」)
「タンホイザー」のもうひとつの舞台であるローマでこのオペラを指揮したことの感慨があったのだろう。ただ、出演者一行によるヴァチカン訪問に際し、カルヴァン派信徒としてローマ法王への謁見をひとり拒否する(「思い出」)。宗教上の問題だったのか(クナッパーツブッシュはカトリックではなくカルヴァン派である)、あるいは第2次大戦中のユダヤ人迫害に対する煮え切らなかったローマ法王への批判の意味があったのかは分からない。あるいは、タンホイザーの贖罪を許さなかったローマ法王に対する(物語の上でだが)何らかのわだかまりがあったのかも知れない。

「タンホイザー」の前後、その他にも、サンタ・チェチーリア管弦楽団とコンサートを行った。
 3月4日 サンタ・チェチーリア管弦楽団 レスピーギ/リュートのための古風な舞曲とアリア第2番、シューベルト/交響曲第5番、ベートーヴェン/交響曲第1番、「エグモント」序曲
 3月7日  サンタ・チェチーリア管弦楽団 ニコライ/「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、ハイドン/交響曲第95番、R.シュトラウス/「ドン・ファン」、チャイコフスキー/「くるみ割り人形」組曲、コムツァーク2世/「バーデン娘」、ヨハン・シュトラウス2世.「美しく青きドナウ」
(www.santacecilia.itMr.Zepos 2012/07/04)
ローマ滞在の前後、クナッパーツブッシュはフィレンツェに客演する。
3月11日 テアトロ・コムナーレ。フィレンツェ五月祭管弦楽団。ベートーヴェン/交響曲第6番「田園」、 カラブリーニ・カジュセ/組曲第1番、ワーグナー/「ジークフリート」より「森のささやき」、ワーグナー/「神々の黄昏」より「ジークフリートのラインへの旅」、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
(I found the following concerts in a book listing concerts and performances
given at the Teatro Comunale in Florence :from Mr.George Zepos)

 3月12日 クナッパーツブッシュは63歳になった。クナッパーツブッシュは誕生日をイタリアで迎えたのか?

 4月11日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ベートーヴェン/「フィデリオ」
 4月14日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ワルキューレ」
 4月17日から20日 ミュンヘン・フィルとスイス・ツアー。

  • 4月17日 ベルン
  • 4月18日 バーゼル
  • 4月19日 ジュネーヴ
  • 4月20日 チューリッヒ

 演奏曲目は各日、ブラームス/交響曲第3番、ベートーヴェン/交響曲第3番「エロイカ」だった。

 4月28日、29日 ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。プフィッツナー/管弦楽のためのスケルツォ、フランツ・シュミット/「軽騎兵の歌による変奏曲」、ブルックナー/交響曲第3番
 5月3日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
 5月9日 ブレーメンに客演。ブレーメン州立フィルを指揮。ブラームス/交響曲第3番、ベートーヴェン/交響曲第3番「エロイカ」

 5月13日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ジークフリート」
 5月22日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
 5月26日、27日 ベルリン、ティタニアパラストでベルリン・フィルのコンサート。リヒャルト・シュトラウス/「町人貴族」組曲、レスピーギ/コンチェルト・グレゴリアーノ(vn:ヘルムート・ヘラー)、シューマン/交響曲第4番
 6月1日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、リヒャルト・シュトラウス/「サロメ」
 6月11日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、リヒャルト・シュトラウス/「ばらの騎士」
 6月19日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
 7月30日から8月25日 バイロイト祝祭音楽祭

  • 7月30日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「パルジファル」
  • 7月31日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「ラインの黄金」
  • 8月1日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「ワルキューレ」
  • 8月2日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「ジークフリート」
  • 8月4日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「神々の黄昏」。録音が残っていて、Testamentからリリースされた。
  • 8月7日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「パルジファル」
  • 8月10日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「パルジファル」
  • 8月18日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「パルジファル」
  • 8月22日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「パルジファル」
  • 8月25日 バイロイト祝祭劇場、ワーグナー/「パルジファル」

 いよいよ1951年7月30日から、クナッパーツブッシュは第2次世界大戦後復活したバイロイト祝祭音楽祭に登場する。
 この時の歌手陣も画期的で、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場でキャリアを築きつつあったアストリッド・ヴァルナイが大抜擢を受けたことや(フラグスタートの推薦があったそうだ。ヴァルナイはそのことを知らなかった)、前年、ストックホルムで指揮をしたクナッパーツブッシュはジークルンド・ビョルリンクをバイロイトに推薦、ビョルリンクは主役となった。
 その他、稀代のワーグナー歌手となるヴォルフガング・ヴィントガッセン、マルタ・メードルも当時まだそれほど有名ではないながら、バイロイトの舞台を飾り、大きく飛躍していった。
 復活した祝祭音楽祭は、祝祭管弦楽団との記念コンサートとなるベートーヴェン交響曲第9番をウィルヘルム・フルヴェングラーが指揮、ワーグナーのオペラをヘルベルト・フォン・カラヤンとクナッパーツブッシュが指揮を分け合った。
 1951年のバイロイトで、クナッパーツブッシュは「パルジファル」6回、「ニーベルングの指環」チクルス1回が担当で、カラヤンが「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、「ニーベルングの指環」第2チクルスを担当した。
 この年と翌1952年は、「カラヤンがリハーサルをし、クナッパーツブッシュが指揮した」とも言われたが、実際にはクナッパーツブッシュはリハーサルの日程をしっかりと取った。カラヤンの「ニーベルングの指環」とクナッパーツブッシュの「ニーベルングの指環」では演奏がかなり違ったため、いかに練習嫌いのクナッパーツブッシュでもリハーサルをせざるを得なかったのだ。クナッパーツブッシュはカラヤンのもたらす響きを「印象派のようだ」と嫌っていた。(「指揮台の神々」)

 クナッパーツブッシュのバイロイトへの正式な登場は、この1951年が最初である。なぜワーグナー指揮者といわれたクナッパーツブッシュが戦前にバイロイトに登場しなかったのか? ドイツにはワーグナー指揮者は他にも大勢いたことがひとつの理由としてある。さらにクナッパーツブッシュは、バイエルン州立歌劇音楽総監督として、バイロイトに対抗して作られたミュンヘンの摂政劇場でワーグナー祭(モーツァルト=ワーグナー祭)を指揮していた。摂政劇場で指揮をする指揮者は、時期的にも劇場同士がライヴァル関係にあったということも含めて、バイロイトには登場できなかった。さらに1936年以降は、クナッパーツブッシュはドイツ国内、ドイツ国内で演奏許可が出てもバイエルン州内でまだ演奏禁止処分を食らっていたわけだから、もちろんバイロイトなどには出演できなかった。何より、バイロイトの最大のパトロンであるヒトラーからクナッパーツブッシュは嫌われていた。
 クナッパーツブッシュが、第2次世界大戦前にバイロイトへの登場を願っていたのかどうかは分からない。ただ、戦争が終わって、バイロイトが復活するかもしれないと分かったときに、クナッパーツブッシュが積極的にバイロイトに働きかけていたのは、バンベルク交響楽団やミュンヘン・フィルを引き連れて、バイロイトにボランティアで客演したことを見てもわかる。
 しかしクナッパーツブッシュは、バイロイトに登場はしても、のちに新バイロイト様式と呼ばれるヴィーラントの演出方法には共感できなかった。舞台上には大道具はなく、ガランとした状態だった。ナチ色を払拭しなければならないバイロイトでのヴィーラントの演出は、伝統的な演出方法を粉みじんに粉砕していた。また、まだバイロイトは経済的に潤っているとは言えず、あまり大道具に金をかけることができなかったこともある。そのため、舞台上は思いっ切り切りつめた装置だけとなった。
 ただ、経済的な理由も大きいとはいえ、新バイロイト様式はヴィーラントの新たな表現意欲の方が上回っていたと見るべきだろう。何もないガランとした空間を照明の魔術で塗り替えてゆくヴィーラントの演出方法は、その後も変わることがなかったからだ。ヴィーラントはウィーンやイタリア、その他の国の歌劇場で、演出家としてさまざまな薫陶を受けるとともに、実験を重ねていた。

 カラヤンはバイロイトでおどけ者を演じた。クナッパーツブッシュのリハーサル時、カラヤンはピアノでいきなりコレペティートルをやったりした。ピアノの音が違うため、クナッパーツブッシュは驚いたらしい。カラヤンは感謝のことばを期待してピアノの傍らに立ったが、たが、クナッパーツブッシュは「どこかでコレペティートルを探していたら、君を推薦しておくよ」とカラヤンに言っただけだった。
 また、カラヤンはバイロイトの楽屋のトイレのひとつのドアに、「カラヤン専用」と張り紙をした。クナッパーツブッシュはその貼り紙の下に「隣はほかの者すべてのケツの穴用」と書き足した。ただ、それがクナッパーツブッシュのユーモアだとはいえない部分もある。旧世代クナッパーツブッシュは、新世代カラヤンに対して大きな違和感を持つとともに、嫌悪感も持っていたからだ。それはプライベートな生活に対してもあったかも知れないが、音楽観の違いが大きかったからだと言える。

 バイロイト音楽祭の復活はレコード会社にとっても大きなイベントだった。EMIの録音チームとDECCA・テルデックの録音チームもバイロイトに来ていた。 EMIはフルトヴェングラーのベートーヴェン交響曲第九番、カラヤンの「ニュールンベルクのマイスタージンガー」、「ニーベルングの指環」、DECCA チームはクナッパーツブッシュの「パルジファル」がその録音の目的である。それぞれレコード会社専属の指揮者だった。EMIチームをウォルター・レッグが率い、DECCAチームにまだ新人だったジョン・カルショーが参加していた。
 レッグは、カラヤンの「ニーベルングの指環」を全部録音したが発売にまで至らず、正式にリリースされたのはその「ニーベルングの指環」から「ワルキューレ」第3幕、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」だけだった。ただ、EMIからリリースされたレコードは、リハーサルやゲネプロ、本番からつぎはぎされたもので、そのレコードからは変な静寂と、しっかり聞こえすぎる歌手の声に違和感が残ってしまう。この時のカラヤンの演奏はEMIの録音とは別にバイエルン放送局によって録音され、放送された。そのエアチェックがさまざまなレーベルからリリースされたが(「ラインの黄金」、「ジークフリート)、特に「ニュルンベルクのマイスタージンガー」ではEMIの殺菌消毒されたようなマスタリングと、それらのエアチェックは生々しさの点で大きく違った。猥雑な会場やオーディエンスノイズのあるエアチェックの方が全体に活き活きとした表情で、音楽が生きているのだ。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のカラヤンによるスタンダードなレコードを作ろうというレッグの思惑は当時の商品としてのレコードを考える上では正しいが、バイロイトのライヴ録音を聞きたいということでは不満が残る。
 これはフルトヴェングラーの第九にも当てはまる。バイエルン放送局のライヴテープが2007年に日本のフルトヴェングラー・センターとOrfeoから相次いでリリースされた。その録音内容はEMIのレコードとかなり異なり、EMI盤はテープを切り張りして作られたものか、どちらかがゲネプロの録音である可能性が出てきた。EMI盤を1回限りの真正ライヴ録音だと信じていたリスナーの中には、裏切られたような印象を持つフルトヴェングラー・ファンも多かったようだ。
 この演奏が行われたあと、レッグはフルトヴェングラーに対し、「良い演奏でしたが、期待ほどではありませんでしたね」と言ってのけ、フルトヴェングラーはその言葉から立ち直るまで48時間を要した(「ヘルベルト・フォン・カラヤン」)。
 では、DECCAチームによるクナッパーツブッシュの「パルジファル」はというと、これもまた完全な商品をめざして、リハーサル、ゲネプロ、6回の本番の演奏の中からつぎはぎされた。残念ながらクナッパーツブッシュの「パルジファル」のエアチェックは残っていないようで(エアチェックは「ニーベルングの指環」もない。あるいは放送されたのはカラヤンのものだけで、クナッパーツブッシュのものは収録も放送もされなかったようだ)、聞き比べることはできない。吉田光司著「Hans Knappertsbusch Discografy」(キング・インターナショナル)によると、「1951年のバイロイトでの『パルジファル』の日程は、7月30日、8月7、10、 18、22、25日。カルショウはRing Recordingでこの録音について『2回のゲネ・プロ(註:ゲネラルプローベ=総練習)をテープに収め、さらに4回、ないし5回の上演を加えて、大半のミスをとりのぞくことができた』(黒田恭一氏訳)と記述しているので、基本的にはゲネラル・プローベを中心にした録音であり、会場での雑音はほとんどない」と書かれ、さらに同書の「演奏へのコメント」で、「51年のDECCA録音は、高く評価する人も多いのだが、少なくともクナッパーツブッシュの個性という点では、再開初年度のためかはたまたゲネラルプローベ中心のためか、ものたりない」と書かれていて評価は多少辛い。

1951年の「パルジファル」の録音はもう一種類ある。

「33 :ALLEGRO ELITE 3095 GRAMMOPHON 2090

以下、吉田光司著「Hans Knappertsbusch Discography」より。
 収録箇所
 第1幕 前奏曲
 第3幕 Wie dunkt mich doch die Aue heut’ so schonon – und weinen
da die entsundigte Natur – du weinst, sieh! es lacht die Aue Mein Vater! Hochgesegneter der Helden! – 幕切れ
第2面の終わりに、録音状態のことなる音楽が短く付け加えられている。これは第3幕の場面転換前の音楽だが、コーダがついている。この部分はクナッパーツブッシュの指揮した演奏ではないと思われる。
この録音は、ディスクの表記が全て以下のような偽名で発売された。
Flix Meesen,Baritone
Herman Neumeyer,Tenor
Gerhard Ramms,Bass
Choir and Orchestra of the Dresden State Opera
conducted by Fritz Schreiber」

 さらに、「ない」と思われていたクナッパーツブッシュの「ニーベルングの指環」の「神々の黄昏」が、録音から48年経った1999年にTestamentからリリースされ、ファンを驚かせた。DECCAチームは、発売の予定もメドもないまま、クナッパーツブッシュの「ニーベルングの指環」全曲を録音していた。
「神々の黄昏」に関しては、表向きEMIのレッグの細君でもあったエリーザベト・シュワルツコップが「神々の黄昏」に参加しており、権利問題がクリアできなかったという理由だった。レッグは「ニーベルングの指環」をスタジオ収録する夢を持っており、権利問題をクリアさせず、ライヴァル盤の登場は長く許さなかったというものだ。レッグはカラヤンの指揮で「ニーベルングの指環」全曲録音という野望を持っていて、歌手陣をEMIの契約によって囲い込み、DECCAのリリースを邪魔したともいわれている。
 もうひとつの考え方として、レコード会社の考える「録音の価値」という問題もある。レコードとして発売する場合、その録音はできるだけ演奏ミスやノイズが払拭された傷のない状態のものが望まれた。現代でこそライヴ録音は花盛りだが、当時ライヴ録音はやむにやまれぬ事情がないかぎり、そのリリースは敬遠された。レコード業界ではスタジオ録音が王道であり、ライヴ録音は一段も二段も下に見られていた。レコード会社の使命は、「新たなスタンダード」の創造にあったわけで、単に記録されたものを発売することではなかったと言える。そのため、バイロイトのライヴであったとしても、プロンプターの声やその他のノイズがやたらと入り、演奏ミスが頻発するライヴ盤の発売など冒険以上に危険だった。
 DECCA首脳部も、「ニーベルングの指環」をリリースするなら、スタジオ録音でと考えていたようだ(カルショー「リング・リザウンディング」。レッグ&シュヴァルツコップ「レコードうら・おもて」にも同じような考え方がある)。
 どちらにしても、「神々の黄昏」は権利問題がクリアできないため、長い間発売されなかった。
 ではクナッパーツブッシュによる「ラインの黄金」、「ワルキューレ」、「ジークフリート」はというと、クナッパーツブッシュはヴィーラントの演出が気に入らず、演奏に実が入らなかった。クナッパーツブッシュの指揮にしては平々凡々たる演奏で、録音機材の故障などもあり、そのテープは残さず廃棄したとカルショーは書いている。残念ながらそれらの録音は残っていないようだ(ジョン・カルショー著「ニーベルングの指環 リング・リザウンディング」、「レコードはまっすぐに」)。

 バイロイトではすべての日程が終わったが、26日、急遽「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が追加公演されることになった。1951年のバイロイトでは、クナッパーツブッシュは「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を振る予定はない。ところがカラヤンはすでにルツェルン音楽祭の出演を口実にバイロイトを離れており(一説にはバイロイトでの追加公演は早くから決まっていたそうだ。カラヤンのスケジュールとうまく合わせることができなかったのか)、バイロイトに指揮者はクナッパーツブッシュしかいなかった。「ヴィーラント・ワーグナーの夫人ゲルトルートは、幸いにしてまだバイロイトにとどまっていたクナッパーツブッシュに連絡を取り、祝祭劇場で『マイスタージンガー』を指揮してくれるよう懇願したのである。クナッパーツブッシュはただちに承諾した。
 祝祭劇場のオーケストラ・ピットでは、そんなことを何も知らない楽員たちが、開演を前にして着席、カラヤンが現れるのを待っていた。しかしそこに突然クナーが入ってきたのだからびっくり仰天。凝視する楽員たちに彼は言った。『そんなに困ったような顔で見ないでくださいよ、皆さん。わたしゃ『マイスタージンガー』を指揮したことはあるんだから!』」(「クナッパーツブッシュの思い出」)。

 8月30日 翌1952年には、バイロイトで指揮はしないと不参加を表明する手紙をヴィーラントに送る。

 クナッパーツブッシュの意見では、ヴィーラントの創り出す舞台があまりにもモダン(斬新)すぎて、ワーグナーの伝統からはかけ離れている、クナッパーツブッシュにとってバイロイトで指揮をするよりも、ワーグナーの伝統の方がより重要なのだというものだった。ヴィーラントはモダンな舞台を狙ったものではないと弁明しているが、クナッパーツブッシュは自分とヴィーラントは、別の世界でワーグナーを生きているとヴィーラントを批判し、クナッパーツブッシュの意志はそうとうに固い(奥波本)。

 9月11日から20日 ウィーン・フィルとDECCAスタジオ録音。

 前年に録音された第2幕と合わせ、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」全曲盤となった。
 ただし、吉田光司著「Hans Knappertsbusch Discography」には「第1幕への前奏曲の部分だけは他の部分と録音状態が異なり(ピッチも微妙に違う)、おそらくこの部分だけはディスク録音を転用したと思われる。この部分は単発されている第1幕への前奏曲の録音とは別の録音である」とある。

 9月29日、30日 ムジークフェライン・ザールでウィーン・フィルの予約演奏会。ブラームス/交響曲第3番、ブルックナー/交響曲第9番
 10月7日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「タンホイザー」
 10月24日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
 10月27日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

 クナッパーツブッシュはイタリアに客演する。
 11月15日 ミラノ・スカラ座。ミラノ・スカラ座管弦楽団。レスピーギ/「古代の舞曲とアリア」第2番、シューマン/交響曲第4番、ブラームス/交響曲第4番(第10回秋のシンフォニー・コンサート)
 11月16日 ミラノ・スカラ座。ミラノ・スカラ座管弦楽団。レスピーギ/「古代の舞曲とアリア」第2番、シューマン/交響曲第4番、ブラームス/交響曲第4番
1. Carlo Gatti Il Teatro alla Scala nella storia e nell’arte (1778 – 1963). Cronologia completa degli spettacoli e dei concerti a cura di Giampiero Tintori. Ricordi 1964
2. www.teatroallascala.org
from Mr.George Zepos(2011/06/4)

 11月28日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「さまよえるオランダ人」
 12月1日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、リヒャルト・シュトラウス/「サロメ」

 12月初旬 バイロイトのヴィーラント・ワーグナーと和解、クナッパーツブッシュは翌1952年のバイロイトで「パルジファル」、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を振ることになる。

 12月12日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「神々の黄昏」
 12月16日 ミュンヘン大学大講堂でミュンヘン・フィルの特別演奏会。リヒャルト・シュトラウス/「町人貴族」組曲、リヒャルト・シュトラウス/「家庭交響曲」
 12月18日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「神々の黄昏」
 12月22日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ベートーヴェン/「フィデリオ」
 12月26日 バイエルン州立歌劇(摂政劇場)、ワーグナー/「神々の黄昏」

 この年の12月、クナッパーツブッシュはケルンに客演、ケルン放送交響楽団のガラ・コンサートに出演した(ケルン市立歌劇場)。アニー・シェルムのソプラノでヨハン・シュトラウス「こうもり男爵」の1曲のみ、Rlief/CR 5001のトップに収録されている。
 クナッパーツブッシュはこの手のほんのちょっとの客演も数多かったようで、記録には残っていないため、どこからどんな音源が飛び出すか、なかなか油断できない。

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